失墜

ヤグーツク・ゴセ

失墜

 どうでもいいと思った。夏の終わりも、

まともな感覚も、ろくでもないテレビ番組も、

満たされないこの感情も。

 いつも何か大切なものを忘れている気がする。未来には何かがあると信じて這いつくばってきたのに汚れて、穢れて、過去で僕はうずくまっている。明滅した街灯が目に入る。

 そうだ、僕はピアノを弾いていたんだ、陽気に、軽やかに、あの時。そう思って一瞬俯いてから前を向いた。この道がどこまで続くのかわからない。やや黒く濁った水溜りを無意識に避けていた。あの時の記憶だけを頼りに生きてきた。あの時の僕がどこへ消えてしまったのかわからない。ズボンの右ポケットから少しはみ出たスマホの画面に明滅した街灯の光が反射した。目の前が行き止まりなのに気がついて一瞬萎縮した。思い出せない記憶の断片。僕の服にこびりついた黒赤い斑点が異様に大きく見えた。道が途切れてどこへいけばいいのか、わからなかった。僕はどこへ行けばいいのか、わからなかった。僕が何者なのか、わからなかった。さっきまで明滅していた街灯が消えて、僕の背中を夜の暗闇が貫いた。だから僕はその場で叫んだ。流れる夜を眺めながら、叫んだ。僕が何に怒っているのかわからなかった。たしかあれは世界が透き通った夜だった。あの時、僕はピアノを弾いていて、それで、何が起きた?服にこびりついた黒赤い斑点が異様に大きく見えて、体が震えた。僕はあの時、あの時、あの時、誰かを殺してしまったんだ。誰かが思い出せない。大都会の暗闇が僕の体躯を侵食する前に、痛みがきた、痛かった。

 あの時、僕はピアノを軽やかに弾いていて、

この世界にはもう君がいないことを思い出した。怖くなった、怖くなったんだ、あの時。

君のいない未来が、どうしようもない未来に思えてきて、怖かった。あの瞬間、目の前の視界が涙でいっぱいになった。ピアノを弾きながら頭を鍵盤に強く打ち付けた。変な音が混じった。赤い赤い色が白い鍵盤を染めて変な音が混じった。それからあまり思い出せない。どうして今、ここにいるのか。


 

夏が終わることも。踏み外した人生も。欠落した記憶も。消えた君も。


     もう、どうでもいいと思った。


そうか、僕が殺したのは僕だった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

失墜 ヤグーツク・ゴセ @yagu3114

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ