第34話 マルタの墓

 母親と小母おばとの間にそんな約束が交わされていたとは、きよさんには全く思いもよらぬことだった。


――考えてみれば、小母さんはいつも私に優しかった。安太郎さんと私を分け隔てなく、慈しみ育ててくれた。そんな小母さんのことを、あんな風に思ったりしてはいけなかったのだ。


「清、一度だけでいいから、私のことをお母さんと呼んでおくれ。私はお前のことを、本当に安太郎の妹であってくれたら良かったのにと、これまで何度思ってきたことか……」


 清さんもとうとう感極まって、泣き出した。

「お母さん……」

 二人で抱き合い、そのまましばらく泣き続けたのだった。



 こうして、ついに婚姻の日を迎える。

 式の日に、安太郎が顔を見せることはとうとうなかった。


 清さんの夫は、初枝の保証したとおり立派な人だった。小さなことはひとつも言わず、いつも静かに笑っているような人だった。慎ましく幸せに、二人で暮らしていた。


 しかし、そんな生活も長くは続かなかった。


 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、日本も日英同盟を大義名分に参戦する。そして、1917年(大正6年)には、イギリス政府の要請を受け、地中海の船舶を護衛するため、艦隊を派遣する。


 清さんの夫は、この時派遣された駆逐艦『榊』の乗組員であったが、海上での護衛作戦を終え、基地にしていたマルタ島への帰還中に、オーストリア・ハンガリー海軍の攻撃を受け、戦死してしまったのである。




「だから、私の夫の墓は、今もマルタ島にあります」

 と清さんは言った。


 バスガールは、さっきからしきりに鼻をすするようにしていたが、とうとう我慢できなくなったように、えーんと号泣し始めた。涙と鼻水で顔中がぐちゃぐちゃだ。


「まあまあ、この子は……」

 清さんが着物のたもとからハンカチを取り出し、顔を拭いてやったが、それでもヒックヒックとしゃくり上げている。


 おれは、清さんの人生に対して心から同情した。そして、その気持ちを素直に伝えた。しかし、肝心な、清さんがここに戻ってきた理由が分からない。


「さあ、そのことでございます」

 清さんがすぐに察して答える。

「それは、何者かが私に助けを求めていたからでございます。それが何者なのか、私にも分かりません。ひょっとしたら、この家そのものが、私を呼んでいたのかもしれません」


「助けを求めていた……?」


「さようでございます。それで私は、てっきりこの子がこの家で悪さをしているものとばかり」


「それで清さんは、乱れ髪に心当たりはないんですか?」


「それがさっぱり……。何でも、両腕を巻き付けてきて、ねえ抱いてですって? おお、いやらしい。それに、細面ほそおもてで、透き通るように色の白い美しいひとだっていうじゃありませんか。私のとんと存じ上げない方のようです。それとも、坊ちゃんのお好みのタイプですか?」


「違う、違う」

 おれは大いに狼狽しながら、手を激しく振って否定した。


 バスガールが、まだ涙目をしたまま、こちらを睨んでくる。

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