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宝井の後に続いて入ったカフェの中は冷房がよく効いていて、纏わり付く熱がすっと離れていくような心地だった。宝井の汗かきは健在のようで、注文した飲み物が運ばれてきても尚、ハンカチで首筋を拭っている。
「こっちには、帰省で?」
ずっと黙っているのも何だかなと思い、まずは当たり障りのない質問を投げ掛けてみる。宝井はうーん、と首をかしげた。
「半分正解。でも、ただ実家に寄るために来たんじゃないよ。実習があるから、実家から通うことにしたの」
「実習?」
「博物館でね。学芸員になりたいんだ」
学芸員。聞き慣れない単語だ。
俺の反応がわかりやすかったからだろう。おしぼりの袋を破りながら、宝井は訳知り顔で説明する。
「博物館資料の収集や保管、あとは展示に携わる仕事だよ。うちの大学では、夏季休暇の間で実習に参加することになってるから、帰省も兼ねてね」
「そっか。けど、どうしてわざわざ仙台に? そりゃ、地元には博物館とか、少ないかもだけど……それだったら東京とか、首都圏でいくらでも探せそうじゃないか?」
言い終わってから、しまった、と思った。これは完全に失言だ。
天神さんで会っていた頃の宝井は、不満があるとすぐに不機嫌そうな顔をした。彼女の周囲に漂う空気が、じわりとトゲを帯びる瞬間は、今でも忘れられない。
だが、今回はそうならなかった。宝井は顔をしかめることさえせず、そうかもしれないね、と穏やかに相槌を打った。どこか、諦めが混じっているようにも聞こえる声色だった。
「磐根君の言っていることは正しいよ。自分でも、余計な手間をかけてるってわかってる」
「……それなら、どうして?」
「息のしやすい場所にいたいの」
おずおずと問いかけた俺を笑い飛ばすみたいに、宝井は間髪入れずに答えた。
言葉の意味はわかる。……が、宝井の真意は掴めない。俺は何度か瞬きした。そうすれば、ぼやけている宝井の心がわかるかもしれないと──無駄な足掻きでしかなかったが。
「たしかに、嫌な思い出もあるけどね。私は東北の空気が嫌いじゃないよ」
いつまで経っても答えにたどり着けない俺を見かねたのか、アイスコーヒーで喉を潤した宝井はあっけらかんと切り出した。
「涼しくて乾いた朝晩も、流れの速い川も、遠くを見れば必ずぶち当たる山も、青い稲のにおいも、真っ直ぐ届く鳥の声も、私は好き。大学から東京で過ごして、便利だって思ったことはたくさんあるよ。でもね、そういう便利な生活よりも、私は私の心に優しい場所で、少しでも気負わずに過ごしたい」
「東京で、何かあったのか?」
「ううん、何も。劇的なことなんて、ひとつもなかった。私の体験したことは、きっと誰かも同じ思いをしているんだと思う。不躾に足を踏まれて、明らかにわざとぶつかられて、知らない人から通りすがりに舌打ちされて、傷付いている人はたくさんいる。何もおかしいことじゃないって、思い知らされる。都会は人が多すぎるから、私と真剣に向き合おうとする人はいない。皆忙しいんだ。道行く人の誰もが、急いでいるように見える。やらなきゃならないことがあって、その過程にいるだけなんだと思う」
「それでも、何年も生活できてる。順応できてるってことだよ。俺にはとてもできないな。目が回りそうだ」
「順応……なのかな。都会の人は、基本的に私に対する興味がないからね。突っかかってくるのも、一時的な気分。時間が経てば、私の顔なんて忘れちゃうだろうね。私だけが忘れられない」
いつもそう、と宝井は囁くように言った。諦め、憐れみ、悲しみ……そして、隠しきれない後悔が、短い言葉の内側でない交ぜになっている。
「私の心は、いつだって安まらない。人によって構成されたコミュニティーが、ずっと広がっているから。どうしてかはわからないけど、こっちに来ると、そのコミュニティーの中からぽんと抜け出せる気がするの。たった一秒でも私を認識するものがない空間で、ぽつねんと立ち尽くしていられる」
「宝井は……人と関わりたくないのか?」
「できればね。でも、誰とも接することなく生きていこうと思ったら、寂しくてやりきれなくなるんじゃないかな。私は自信を持って独立独歩できるくらい強くないし、人間という生き物全体を嫌うことはできないの」
なんだか、すごく壮大な話になってきた気がする。俺はレモネードを少しだけ口に含み、しばしすすぐように馴染ませてから、ようやく飲み込んだ。
俺が地元でぼんやりと過ごしている間、宝井はどれだけ多くの景色を眼差してきたのだろう。多分、宝井の知る世界は、俺のそれとは全く違う気がする。単純な経験だけではなく、ものの見方そのものが。
「……色々言ったけど、結局は身近な場所の方が居心地良く感じるって話。山形で実習を受けるのもいいかなって思ったけど、受け入れを表明してる館が少ないし、私の専攻分野とは少しずれてたから。それに、地元の知り合いと鉢合わせたら気まずいしね。自分なりに考えて、仙台にしようって決めたの」
宝井の注文したピザトーストが運ばれてきた。カレーじゃないのか、と俺は少し意外に思う。かつて学食でお昼を共にした時、宝井が頼んでいたのは好物のカレーだった。
「そういえば、宝井は高校の時ってどうしてたんだ? 同じ地元にいたけど、全然すれ違わなかったよな」
きっと宝井の求める話題でないとわかっていながらも、俺は地元という大まかな括りを共有していた時のことを聞いた。我ながら気持ち悪いとは思うが、俺なりに気にしていたのだ。どこかで、宝井の姿を見かけることがあるんじゃないかって。
宝井はやはり嫌な顔をせず、僅かに考える素振りを見せた。言葉を選んでいるみたいだった。
俺は宝井にとって、何でも包み隠せずに話せる相手ではないのだろう。改めて突き付けられると、辛い事実だ。
「どうしてた、か……。私からしてみれば、普通に過ごしてたよ。正直、高校は大学に行くために通ってるようなものだったから。可もなく不可もなく、って感じ」
「そうなのか……。しんどくなかったなら、良いんだけど。……悪い、何様だって言われても仕方ないな」
「本当にね。でも、磐根君の考えてるようなことは起こらなかったよ。普通に、いっしょに行動してくれる同級生もいたし。……あっちからしてみれば、私は数あるうちの一人だっただろうけど。それでも、中学よりはましだった」
というか、と宝井はじとっとした目になる。こういう表情は、昔から変わらない。
「里中君から聞いたりしなかったの? 私、二回も同じクラスだったよ。ほとんど喋らなかったけどね」
「ああ、信也とは絶交したから」
「は? 絶交?」
「そう、絶交。高校に入ってからとかじゃなくて、あいつが入院してから。俺、知らないところで嫌われてたみたいだ。ずっといっしょにいたのに、気付いてなかった。宝井の言う通り、俺って鈍感らしい」
「今頃気付いたんだ。鈍いのは変わらないね」
呆れ混じりの溜め息を吐かれて、俺は返す言葉もない。何もかも、宝井の言う通りだ。俺はあれから、何も変わっていない──ずっと、子供のままなのだ。
「信也は変わったよな。部活辞めてから、一気に大人しくなってさ。高校でも、あんな感じだった?」
宝井と会えたことが何より嬉しいはずなのに、気付けば俺は信也のことを聞き出そうとしている。本当に知りたいのは、宝井の七年間だというのに。
少しの間を置いてから、宝井はおもむろにスマホの画面をなぞった。高校時代の写真でも見返しているのだろうか。やがて顔を上げると、そうだね、と肯定から入った。
「中学の頃は派手だったけど、里中君、高校ではそうでもなかったよ。むしろ、ずっと勉強してる印象が強かった。昼休みも、誰とも話さず机に向かってたよ。というか、かなり無口な人で通ってたかな。他校出身の子は、何故か私に里中君のこと聞いてくるし、意味わからなかった」
「意外だ。あの信也が」
「ね。進学したのか、就職したのかはわからないけど、あれから体調を崩したって話は聞かなかったよ。だから、ひとまず健康面で大きな問題はなかったんじゃないかな」
「……それなら、良かった」
その言葉に嘘はない。……が、宝井の安否を知るよりも、心が動かなかったのは事実だ。
幼馴染みとして行動を共にしながらも、実際のところは俺を嫌っていた信也。中学時代、あいつはどんな気持ちで俺の横に立っていたのだろう。高校では、少しでも心穏やかに過ごせただろうか。
俺が思うのは、これくらい。信也が満足しているなら、それ以上の追及はしない。どれだけ親しかったとしても、結局俺の力で他人を変えることなんてできないとわかりきっているから、余計な手出しはしない方が良いと距離を置く。それが、これまでの人間関係を通して俺が学んだ最も正しいやり方だった。
だから、信也から拒絶された時は悲しかったけれど、いくらか時間が経てば仕方のないことだと割り切ることができた。信也が考えた末に導き出した答えなら致し方ない、これ以上自分にできることはない──と。客観的に見たら不気味なくらい、俺はあっさりと幼馴染みを切り捨てられた。付き合いの長い信也でさえそうするのだから、他のクラスメートから同様に突き放されたとしても、俺は大した抵抗をすることもなく関係を切ることができたにちがいない。
「……食べなよ。冷めちゃうよ」
物思いに耽っている中、俺の注文したパスタは既に運ばれた後だった。ピザトーストをかじった宝井が、不思議そうな顔をしながら促してくる。
何気ない会話だ。それが、俺にとっては何物にも代え難く、そして宝井と再会できたことに心から安堵している。
改めて、実感する。何もかも相手に任せて、最終的に縁が切れても構わなかった俺だけど、宝井だけは例外だ。宝井を失ってからの八年間、俺はずっと絶望していた。たったひとつの灯りが消えて、そのまま闇の中を歩いているような心地だった。
でも、俺たちはこうして再会した。それが何よりも嬉しくて、パスタの味なんてわからない。それでも俺はただの人間を気取るために、ここのパスタはおいしいな、なんて虚言を吐き出す。とても滑稽だ。でも、宝井になら、笑われても良い。
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