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 高校生になってからの日々は、俺にとって平和そのものだった。同性に特別な苦手意識はないけれど、今まで共学の環境にいたからには、男子校に不安を持たずにはいられなかった。

 ──が、幸いその不安は杞憂に終わった。クラスメートは皆いい奴で、部活の先輩も素直に尊敬できた。部活帰りにコンビニでアイスをおごってもらった時は、本当に俺に向けて買ってくれたものなのか、何か見返りを求められているのかと疑ってしまったくらいだ。

 高校でも、陸上は続けた。やり投げをやっていた、と言うと珍しがられた。期待の新人、なんて言われて照れくさかったけど、それ以上に部活を頑張ろうと思えた。宝井という執着がなくなってからは、ひたすら勉強と部活に打ち込んだ。充実した毎日だったと、胸を張って言える。

 中学時代の同級生とは、ほとんど疎遠になってしまった。まともに交流があるのは、功一と大野くらいのものだった。

 この二人は、俺が知らない間に付き合うことにしたらしい。高校も違うのにどうして、と問いかけると、功一から肩を竦められた。……大野が、ずっと好きだったんだって、とはにかむと顔を真っ赤にしていたから、その通りなんだと思う。そういえば、大野が追い詰められている時、功一は億劫そうにしながらも庇っていたっけ。

 そんな二人ではあるものの、信也とはちょくちょく連絡を取っているようだった。かつて信也と一悶着あった大野も、ちゃんと和解できたらしい。気まずいまま何もかも投げ出している俺とは大違いだ。

 その後、俺は県内の大学に進学した。相変わらずの実家暮らしだけど、免許も取ったから取り立てて不便なことはない。

 仙台までの道も慣れたものだ。両親の墓参りには、毎年欠かさず行っている。ろくに顔も覚えていないけど、毎年の恒例行事だ。やらないと、なんだか落ち着かない。


「大地君、就職はどうするの?」


 伯母に問いかけられ、俺は一度瞬きをする。

 就職。あまり深くは考えていない。……と、本音を言うとひんしゅくを買うのは理解している。とはいえ何もしていない訳ではないし、いくつかの企業からは最終面接の連絡をもらっている。よっぽどのへまをしなければ、年内には内定が決まりそうだ。


「地元の企業で、いくつか受けてます。祖父母のこともあるし、実家から通える距離がいいかなって」

「相変わらず孝行ねえ。でも、本当にいいの? 仙台なら、勤め先もたくさんあると思うけど」

「俺には、地元の空気が合ってますから。働くだけでも大変なのに、環境まで変わったら疲れそうで」


 早く会話を切り上げたい気持ちもあったが、おおよそ本音だ。実は仙台で働くことも考えたけど、都市の雰囲気には何となく馴染めなさそうな気がした。やっぱり俺は、地元でしか生きていけない人間なんだろう。

 他の質問にはありきたりな答えを返し、逃げ込むように車へと乗り込んだ。地元より涼しいとはいえ、それなりの時間が経った車内はむわりとした熱気がこもっている。迷わず冷房を付けて、俺は車を発進させた。

 本当はこのまま帰っても良かったのだが、少しだけ寄り道をする。向かうのは青葉城址──かつて、宝井と二人で訪れた場所だ。

 専用の駐車場があることは知っていたが、中学生の頃と同じルートを辿りたかったので少し離れた場所に車を停めた。キャップを被り、必要最小限の荷物だけ持って外へ出る。

 宝井と歩いた道を再び通って、何かが劇的に変わるとは思っていない。ただ、青頃の記憶に浸れる確実なシチュエーションがあるなら、そこに甘んじていたかった。

 中学を卒業してからの人生は、特に大きな出来事もなく、平穏で変わり映えのない──理想的なものだったと言える。俺の心は揺り動かされず、惰性に従い続けてもしっぺ返しは来なかった。それは周囲の環境に恵まれていたことの証左だろうし、俺が無感動であればある程正常のレールから外れることはない。心地の良いぬるま湯に浸かり続けていれば、俺の体は冷えることも茹だることもないだろう。

 それが最善であるとわかっていながらも、俺は過去の刺激が恋しくて堪らない。隠れて宝井と会い、クラスメートが知らない彼女の一面を垣間見て、その度に一喜一憂していたあの日々だけが、眼の裏に焼き付いて離れないのだ。

 一人だからか、それとも昔より背が伸びて歩幅が変わったからか……頂上には、思ったよりも早く着いた。自販機で水を買ってから、仙台の街並みを見下ろした。


「……宝井、元気かな」


 中学以来、宝井との間に音沙汰はない。成人式にも、宝井は出席していなかった。二十歳になったら開けるというタイムカプセル、その中身を届けに、当時学級委員だった大野と宝井の家まで行ったのを覚えている。玄関口で出迎えたのは、宝井のお母さんだった。


「わざわざありがとう。詠亜は今東京だから、帰省した時にでも渡しておくね」


 宝井は元気ですか。そう聞いてみたけど、なかなか連絡してくれなくて、と苦笑されただけだった。わかったのは、俺が知らない間に宝井が遠くへ行ってしまったということだけ。

 東京なんて、怖くてとても行けない。修学旅行の数日間だけでも息が詰まりそうだったのに、一人暮らしするなんてとんでもない。

 俺が宝井と同じ状況になったら、四年間なんてとても住んでいられないと思う。やはり、宝井は強い。ちゃんと自立して、一人でも生きていられる。

 特に見たいものもなかったので、俺は息を整えたら戻ることにした。宝井なら、神社や資料館に足を運んだだろうけど、あいにく俺はそういったものに興味がない。宝井といっしょでなければ、見向きもしない。我ながら、つまらない性分だと常々思う。多分、俺は誰かといなければ、趣味ひとつ見付けられないのだ。

 時間はかかるが、何となく真っ直ぐ帰るのは物足りないような気がして、道を逸れて青葉山公園に入る。この季節だからか、人はまばらだ。俺が認めた人影と言えば、ジョギングしながら通り過ぎる人と、日陰のベンチでスマホをいじっている人、あとは鬼ごっこでもしているのか、甲高い声を上げながら走り去っていく子供が数人。実際はもっといるのかもしれないが、人混みに突っ込みたい訳ではないのでこれくらいでちょうどいい。

 実家に戻れば、いつも通りの日常がやって来る。帰りたくないと駄々をこねる年頃ではないから、素直に帰るけど……どうしてだろう。もったいないと感じてしまう。

 中学二年生の一学期を除けば、俺の辿る道は平坦で舗装された、何の苦もないものだ。その方が疲れないし、社会的にも良いのだろうが、こうも無味無臭な人生で本当に満足か? と内なる声が聞いてくるような気がしてならない。失敗も挫折もなく、傷のないまま死ぬまで生きることに、どれだけの価値があるのか、と。

 フィクションの世界に限らず、失敗体験は人の生き様をわかりやすく彩る。こんなに辛いことがあったけど、立ち直ることができました。あの日の自分がいてこそ、大人になれた気がします。万人受けするノンフィクションや自叙伝を流し読みする度、そういった文言が上から下に流れていった。

 今までずっと、そんな思いを抱えていたのではない。ただ、今更になって、自分自身の人生がひどくちっぽけで味気ないもののように思えて仕方がない。ろくに傷を負うこともなく、甘い水ばかり口にしてきた俺には、誰かに語って聞かせるどころか、自己を確立させるための過去がほとんどない。宝井と過ごした、数ヶ月を除けば。


「──あ、」


 考え事をしながら歩いていたのが祟ったのだろうか。急に強めの風が吹いて、その拍子に被っていたキャップが後方へと飛ばされた。

 惰性で足を動かしていたから、気付いているのに数歩先を歩いてしまった。取りに戻ろうと回れ右すると、既にキャップを拾おうと屈む人の姿があった。


「すみません、それ、自分のです」


 そこそこ離れているし、もとよりちゃんと確認なんてしていなかったが、俺のキャップを拾ってくれたのは通り道のベンチに座っていた女の人だった。立ち上がり、顔を上げた彼女が真っ直ぐに俺を見る。

 丸みのある頭を強調するようなショートカットの女性だった。数秒、俺を見つめたまま動かず、どうしたのかという疑念が飛来する。しかし、俺が動くよりも、彼女が近付いてくる方が早かった。


「いいえ。なくさなくて、良かった」


 俺の目の前までやって来た彼女は、キャップを持った右手を静かに差し出した。受け取り、お礼を言おうとしたところで──はっと息が詰まる。

 もう、目元が隠れるくらい前髪は伸びていない。肌は変わらず白いけど、青白く見える程の不健康さはなりをひそめていた。身長も伸びたのだろう。かつての弱々しい脆さは、すっかり見えなくなっていた。

 それでも、変わらない何かがある。具体的に何なのか、言葉で言い表せるものではない。だが、顔を合わせるだけで、きっと俺たちには十分だった。


「──宝井?」


 あらわになった一重まぶたが、きゅっと細まる。あの頃には見せなかった微笑みを浮かべて、宝井詠亜は口を開いた。


「久しぶりだね、磐根君」

 

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