誠実 二〇二一年 一月二十九日 ④

 寮に帰宅してからも、帰りに佳穂さんと話したことがずっと頭から離れなかった。面接のことなどすっかり忘れていて拓実からの慰めの言葉もどこかへ飛んでいった。

 脱いだ上着をハンガーに掛けようとした時、床にぶん投げたスマホが玩具のように振動する。画面に表示される相手を見て、俺は手に持った上着を羽織り直しベランダに出る。重い窓を開けると、上着が飛ばされそうなほど強い風に打ちつけられた。

「どうした?真子」

 前も同じような時間に電話が掛ってきた。違うのは、今よりずっと暑くて、ベランダの虫を気にしていたこと。理不尽な出来事が、自分の手が届く範囲にも同じように起き得ると知らなかったこと。

 相手の反応を伺うと、いつもどおりの声が聞こえてひとまず安心した。

「今日の面接通りました~!」

「おめでとう」

 真子の就活は、思った通り順調そうだ。

「実際は二打数一安打で、午後のグルディスは多分落ちたんだけどね。それで訊きたいのは落ちたグルディスの方なんだけどさ、健太郎は得意な方?」

「面接よりも周りのメンバーとテーマに依存するから、なんとも言えないな。どんなテーマだったの?」

「社会人になる上で必要とされる能力、かな」

 何を答えてもそれなりに外れがないテーマだ。逆に、結論までのプロセスだったり、グループ内での雰囲気や役割をいつもより見られる。メンバー内でうまくいかなかったから、上手くやるコツでも訊いてきたのだろう。

「広いテーマは周りとうまくやれるかにかかってるから、気にしなくていいよ」

「そうなんだけど、なんかもやもやするんだよね。誠実っていう答えが出たんだけど、それって能力なの?どっちかっていうと性格じゃない?って。意味わかる?」

 ああ、それだ。もやもやしていたのが、ようやく出てきた。

「誠実ねえ。俺もよくわかんねーよ」

「ええ?何かあったの?」

「今日バイトの先輩が客とトラブってさ。相手がどう感じるかを汲み取ればいいかなんて、難しいよな。こっちだって、なるべくいい思いで食べてもらえるように考えてるのにさ」

 客が快適に過ごせるようにしても、それを額面通りに受け取れない人たちもいたり、うまく伝わらないことがある。自分たちで考えたつもりでも、受け取る側にとってはそうでない場合もある。不特定多数の場合は特にだ。

 こちらが誠実かどうかなんて決めるのは相手であって、自分ではないのだから当然なのかもしれない。だが少なくとも、人が飛びつきやすい嘘で金を取ったり、法律に違反して相手を貶めたりするやり方は違うと言い切ることができる。

 電話越しのたった一人のためになら、なんだってできそうな気がするのに。

「経験あるわ~。サークルでも私達のしてることと、子供たちの要望が全然違ったりとかね。っていうか、そうだよ。私の経験をグルディスでも話せばよかったんだ」

「あああ~」と電話越しで後悔に悶える声がおかしくて、拓実たちといるときみたいに笑ってしまった。

「すっきりした?」

「したー。相手の利益に……っていうと、お金臭いか。本当に相手のためになるならさ、貫けばいいんだよね。面接官に媚びてた気がするから、反省だな」

「あんま当てにはならないけどな」

 外が益々寒くなってきた。長く外に出て風邪にでもなったら本当に笑えない。じゃあそろそろ、と電話を切ろうとすると咳き込む音に止められた。

「私さ、あんまりインターンとか参加できてなくて不安だったんだけど、やっと行きたい会社を絞れてさ、明日OB訪問するの」

「おう」

 人から言われると、タイムリミットが来ていることを実感する。

真子は選んだ。たとえ、自分の追いかけてきた夢が、誰を責めることができない理不尽に潰されても。振り上げた拳を降ろす先がなくても。泣きたくて、現実から目を逸らしたくても。

 ずっと、選択は側にあって、今に始まったことじゃない。

 小学校の頃、『将来の夢は』という宿題があった。中学校や高校では、進路表を書かされた。受験があった。その度に選んできた。

 俺もずっと躊躇していた。選択は諦めと表裏一体だ。本当にここでいいのかと、ずっと迷っていた。志望動機を自分でずっと疑い続けていた。

 けれど、猶予がもうすぐ切れる。選ばなくてはいけない。

「大変だったけど、私は決められてよかったよ」

「もっと考えておけばよかったと、今なら思うけどな」

「仕方ないよ。タイムリミットが来ちゃったんだから。それに、健太郎の性格上、悩む時間が増えるだけじゃない?」

「そうだな」

 人生が二回あればよかったのに。

 拓実と観た映画の、ムカつくくらいの伊達男を思い出す。

「だから、頑張ろうね」

 俺がついた白いため息は、明りの落ちた街へと消えてしまった。

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