誠実 二〇二一年 一月二日 ①
二〇二一年一月二日
東京都感染者数八一四人
お品書きにある一杯千円近いお酒を目にすると、なぜか二時間二千五百円の飲み放題で出てくる薄いアルコールを思い出す。それほど楽しかったわけでも、ましてや美味しかったわけでもないのに、鮮明な感覚が、目の前で板前の握るバーナーの音と一緒に炙りだされる。
「もしかして海老は嫌いだったか?」
こちらを覗う声に慌てて、とっさに目の前の寿司を口に運んで首を振った。
「いやいや、めっちゃ海老好きですよ」
「そんな慌てなくてもいいだろ」
ふっと頬に刻まれた皺を深めながら叔父の鳴海は笑う。
年末年始に家に帰らないことを伝えたクリスマスの次の日、東京に住んでいる鳴海から『お年玉を渡すついでに寿司でも食べないか』と連絡が入った。鳴海からすると、もしかして俺は『コロナ渦で学校に行けない可哀想な大学生』として映っているのかもしれない。今年のお年玉は期待できないと思っていたし、寿司を食べるのは久しぶりだったから、その時は特に悩まずに『行きます』と返した。
「そういえば今年の箱根駅伝、健太郎のところは調子よくないらしいな」
鳴海は学生時代に陸上部で長距離選手として活躍していたらしく、ズボン越しに発達した筋肉が、今でも週に何日かランニングをしていることを連想させる。
「みたいですね」
自分のところとは思ってないが、温かいお茶と一緒に言葉を飲み込んだ。
『区間新記録が出ました。○○大学。これでトップとの差は一分十四秒!』
イヤホン越しに聞こえてきた実況を思い出す。
駅伝自体に興味があるわけでも、ましてや走るのが好きなわけでもない。学校の授業でマラソンがあると、ジャージに着替える前から足の毛がぷつぷつと逆立っていたくらいだ。ただ、佳穂さんの弟が、今年も箱根を走っている大学の駅伝部に入部したことを聞いて、暇を持て余した耳にふとイヤホンを突っ込んだ。
最近数字を見ると、ほっとする部分と不安になる部分の接点をはっきりと感じるようになった。
ここ五年間の一区の平均タイム。十キロ当たりのペースタイム。区間新記録までの秒数。実況アナウンサーが四区の先頭を走る選手の好走を讃えながら、思い通りにいかなかった練習環境や、ランナーが怪我に悩まされていたことを合間に紡ぐ。その文脈を全く知らなくても、選手がどのくらい速く走れるのかという一点のみにおいて、数字は正確無比な事実を教えてくれる。
一時間一分三十秒、一時間一分四十七秒、一時間一分四十九秒。
五百五十円、八百八十円、九百九十円。
八百五十六人、九百三十四人、千三百三十七人。
反対に、冷酷なまでに事実を突きつけ、信じたくないものまで現実に引っ張ってくる。たとえ自分には関係のないものだと思っていても、一カ月前に比べて東京都だけでも新規感染者数が倍増していることは拭い去れない。
それは大樹が言う通り、誰の物差しでも違うことのない明確さがいいのではなく、曖昧な評価基準で振り回されることに、疲れていただけなのかもしれない。
だが影のようにつきまとう不安要素は、年が明けても後ろで常に彷徨っている。鳴海を待つ間、駅の改札へ向かう人たちを見て、そう思った。
それでも実家の方は、親戚が集まらないことでのんびりとした正月になっているらしい。買い出しも特に行く必要がないと、LINE上でお袋は喜んでいた。集まらなくてもいい鳴海たちも同じだろうか。
彼の次女の明美は、社会人一年目からアメリカで海外勤務が決まっていたはずだが、一番動きの激しい彼女の話題が出てこないのはなんとなく気になった。
「明美さんは年末休み、向こうから帰って来たんですか?」
できることなら年齢の離れたおじさんよりも、年齢が近くて話の合う明美の方がこの場にいてほしかった。だが、寿司まで奢ってもらって、そんな罰当たりなことは顔に出してはいけない。
鳴海はお猪口に注がれた日本酒を、うまそうに飲み干すとあっけらかんに言った。
「明美はずっとこっちにいるよ」
「は?え?どうして?」
突然のことに、俺は食い気味で尋ねる。慣れない土地のストレスや、激務に耐えかねて辞めたのか。それとも上司にパワハラを受けたのか。
「辞めたわけじゃないよ。健太郎だってオンライン授業受けてるだろ。それと一緒。テレワーク」
こちらの反応は予想通りと、俺の方を見ずに、鳴海は握られたネタを口に入れた。
普通なら四月から入社式やら研修が始まるのだから、それより前に感染が広がりはじめたウイルスに飛び込むようななことは、当然避けるはずだ。というか、どうしてそんな大事なことを家族の誰も言ってくれなかったのだ。どうでもいいことばかりLINEで送ってくるくせに。これも寮生活のせいなのか。
「なるほど……」と返しながら、呑気に箱根駅伝を見ながらスマホをいじっているであろう家族に、内心悪態をついた。
辛口の日本酒を呑んだときと同じ顔で、鳴海は話す。
「テレワークと相性が合う人、合わない人。大きくわけるとこの二パターンあるけど、明美は典型的な合わない人だったな。特にオンオフの切り替えが難しい性格っていうか、同僚と会えないっていうのも大変だよな」
今になってまで出社できない。同僚と会えない。
大学生みたいだなと思った。
小中高はもう対面で授業が受けられるし、会社も段階的に出社はできる。まさか大学生と同列に見なされるなんて、明美も思わなかっただろう。
「時差の関係で夜の遅くに会議があるせいもあるけど、おかげで一時は家の雰囲気が最悪だったよ」
「そりゃ大変ですね」
「『こんなんじゃなかったー!』って。しまいには仕事をやめようかって聞いてきたこともあったよ。しかも俺に」
父親に相談するくらい普通ではと疑問に思ったが、すぐ思い出した。明美は鳴海と気が合わなかったのだ。
「健太郎は明美と仲がいいからな。明美が言う『締まりのない俺みたいな社会人』にはならないだろうけど」
「そんな……」
口喧嘩でつい出てしまった言葉であろう。というか、そう願いたい。空気が微妙に重くなるし、そもそも俺はその締まりのない社会人の、スタートラインにすら立っていない。
「締まりのないって、どんなこと言ってたんです?」
少なくとも俺は、都庁に勤務している鳴海が締まりのないとは思っていない。都庁職員は給料やワークライフバランスも安定しているし、全国転勤もない。俺からすればとても魅力的な物件だ。
「やりがいを感じられない、仕事のための仕事のようなつまらない業務、勤務成績では決まらず勤続年数と職級で決まる給料の上であぐらを書いている奴、だって。明美は新陳代謝が激しい業界の大手に内定が決まってたし、他人はともかく俺は『ああその通りだな』と感じたから、そこに関しては言い返さなかったけどさ」
言い返してくださいよ……。
切に願いながら、握られた寒ブリを口に運ぶ。
「でもひどいよなあ。その締まりのない奴が、中学受験の塾代も、大学までの学費も払ってやってるのに。……って明美の前で言ったら、余計面倒なことになるから、やめたんだった。すみませーん、このお酒ください」
赤みがかった鳴海の横顔を眺める。いくら明美が気に入らなくても、この緩やかに朽ちていく年輪のような皺を刻みながら、美味そうに酒を飲む鳴海にはいつも頼もしさを覚えていた。
「健太郎は就活の真っ最中だと思うけど、どうだ?もう結構進んでるのか?」
顔に出してはいけないと念じながらも、ニキビを潰した瞬間のように片目が一瞬歪む。正月に親戚に会わなくてよかったことと言えば、就活の話を訊かれなくて済むことくらいなのに。二、三ヶ月前ならやめてくれと懇願していただろう。
「……ぼちぼちっすね。悪くない方で」
十一月の中旬、初めてインターンシップの選考が通った。ようやく、だ。ひたすらお祈りメールを受け取っていた俺からしてみれば、初めての通過メールは、死にかけた魚への水みたいなものだった。その時、部屋に入ってきて小躍りを目撃してしまった拓実は「仰向けになった蝉が突然動き出したのかと思ったわ」と本気で驚いていた。
そこからも面接含めて、選考は十三社のうち十二社に通過した。内定が出たわけはないが、状況は前より格段によくなっている。
「それはよかった。とは言え、『公務員に民間受ける奴の気持ちなんかわからない』かもしれないけどな」
「いやいや……」
もしかして酒癖が入ったのだろうか。今からでも遅くないから、明美には一刻も早く鳴海と和解してほしいものだ。そうしないと鳴海が可哀想だ。
「ただ順調かと言われると、微妙っすね。前よりESや面接の通過率はよくなったんですけど、よくなった分、課題みたいなのがあって……。個人的には本選考までに克服したいなと。だから鳴海さんからも話は訊きたいです」
新年早々叔父さんのフォローなんて、寿司が美味くなきゃやってられないが、就活の課題が浮き彫りであることも事実だった。
夏から冬のインターンシップの選考に移行すると、訊かれる質問が変化した。特に訊かれた質問は、自分がどのような仕事をしたいか、だった。企業のホームページには事業や商品の情報、中長期計画や財務状況などが閲覧でき、社会に対していかに貢献しているかが、規模の大きさに比例するような真新しいデザインで説明されていた。他にもオンライン説明会、就職支援サイトなどで情報収集をしているが、すんなりと書けたためしがない。本来ならOB・OG訪問をすればよいのだろうが、このご時世で、Zoomに変わったり、抽選での座談会になったりで思うように進んでいない。
志望企業は時間をかけるうちに段々と絞れてきて、今度は筆記試験の勉強に時間を費やしているが、こっちの方がやれば確実に結果がついてくるから精神的は楽だ。
でも俺はまだ、完璧な線を書けてはいない。
「は~真面目だね」
「鳴海さんはどうして公務員になったんですか?」
明美が就職をするにあたって、鳴海を反面教師に仕立てたのだろうが、そもそも鳴海はどうして公務員を選んだのだろうか。
握られてきた鯛を噛みしめ終えると、指を折りながら鳴海は答える。
「まず、大体の部署は定時で帰れる。倒産しないから安定してる。それから遠くへの転勤がないのもでかい。地元にはあんまり戻りたくなかったし、大学にいた頃から東京の方が住み心地よかったから。それからここだけの話、家内とは大学時代にデキ婚したから、色んな意味で計算がしやすい公務員は都合がよかった。このあたりかな」
「そ、そうなんですか」
うんうん、と頷いているところにいきなり爆弾を落とされたが、大体は予想通りだ。
「でも他を受けようとは思わなかったんですか?」
あの頃はどうかはわからないが、雅之と鳴海、両者を比べたとき、なんとなく雅之の方が性格的に、公務員に向いている気がしたのだ。
「どうかな~。俺は条件的に公務員が魅力的だなと思って、試験勉強しかしてこなかったけど、今考えれば、他も見て回れば違った職場に巡り会う可能性はあったかもしれない。後付けになるけど、俺の視野が狭かったのは時代の流れもあるかな」
俺が昔のことを訊いても仕方がないかと考えていた時、時代と呟きながら軽く苦笑いする鳴海を見て察した。
「バブル崩壊ですね」
雅之と鳴海、たった四歳差でも天国と地獄、二つにわけることができる程、状況が一変したのは俺でも知っている。後に『就職氷河期』やら『ロスジェネ世代』と称されることもあった、バブル崩壊後の学生たちの就職状況は、当時を知らなくても以前受けた説明会で、悲惨な数字として表れていた。
「景気悪くなるとやっぱり安定って思うのは、みんな一緒だよな。健太郎は公務員に興味ある感じ?」
「俺は違いますけど、寮の友達は公務員試験の勉強してます」
「そっかそっか。健太郎は明美と仲がいいけど、なんとなく俺に似てる気がしてたんだよ。でも順調みたいだから心配なさそうだな」
似てはいない。俺は甥に寿司なんか奢れないだろうし。その時、目を細めた鳴海の横顔が、雅之と重なった。
板前から、今度はピンク色の脂身が光っている大トロが置かれた。
「もし面接するなら、どんな学生を通しますか?」
「え?」
鳴海はお品書きから顔を離す。
「兄弟だからか、鳴海さんと親父って似てると思うんですよ。それで、前に親父に訊いたのを思いだして、鳴海さんならなんて答えるか気になったんです」
「はあはあ、なるほどね。俺は面接官やったことないからな~。兄貴はなんだって?」
「誠実な学生だって」
「兄貴らしいな。でもそれなら健太郎は大丈夫だろ」
鳴海は一口でその大きな身を頬張る。
「どうしてですか?」
俺は湯飲みに伸ばした手を、下に引っ込めた。
「例えばだけど、さっき俺が公務員になりたい志望動機って、本当に入りたい人たちに比べると、どうしたって弱く見えるよね。だったら別のところで、その誠実さをアピールすればいい。職種に対しての理解度、自分がその職に就いたら将来どのような活躍ができるか、そのビジョンがどれだけ見えているか、とかね。そういうのって説明会に参加したり、企業研究に時間掛けたりするかで決まるな~と。だから事前準備を怠っていない健太郎は、大丈夫だと思ったんだ」
肘を動かす。カラン、と乾いた音が足元で鳴った。
――心配あらへんって。
幽霊のように突如表れた存在を、吹き荒れる悪寒と拒絶が胃の奥底で蠢いている。ずっと知覚できなかったものが今まで潜んでいたことを、そして誕生の証明を俺は目撃してしまった。
違う。そんなんじゃない。
箸を拾おうと床に手を伸ばすと、女将が静かに動く。俺が拾った方が早いが、『私が拾いますよ』という素振りで寄ってきた女将を見て、小さく唇を噛みながら手を引っ込める。
「あ、ちょっと失礼」
鳴海がバイブ音の鳴るスマホを取り出し、女将の後ろを通りすぎる。
代わりの箸をもらって寿司を食べていると、数分で鳴海が戻ってきた。慌ただしさを隠さず席についた途端、俺の前で手を合わせた。
「大変申し訳ない。ちょっと呼び出しかかって、二時半までに都庁に戻らないといけない」
「仕事ですか?年始なのに?」
普通の休日ならばともかく、年始休みに呼び出しなんて、よほどのことがないとあり得ないはずだ。それくらい俺でもわかる。
「普通は考えられないことなんだけど、今いるところがちょっと特殊でね」
「これだよこれ」と差し出されたスマホを見て、照明の下の影が一層濃くなった気がした。
『一都三県の知事会談 緊急事態宣言か』
「今、鳴海さんが勤めてるところって……」
大学生の俺には見せないようきっちり蓋をして、鳴海は言った。
「福祉保険局の……まあ、今だとコロナウイルスの事務処理とかも担当してる部局だよ。娘にも一度言って大喧嘩になったんだけどね。『じゃあお前に公務員の大変さがわかるのかって』」
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