誠実 二〇二〇年 十月三十一日 ④
自室に入る時、緊張するのは久しぶりだ。入寮した時も、今と同じように耳を澄まして中の様子を確かめていた。ドア越しからエキセントリックなBGMが微かに聞こえる。
風呂に行ってくれていたら、こっそり入れたのに。鉢合わせを覚悟して中に入る。二段ベッドの下段に寝そべっていた拓実が、ピンと体を起こす。部屋に来るまでに用意していた言葉が、頭から消えてしまい顔を逸らした。夕方よりも部屋が片づいていて、同時に少し埃っぽかった。
拓実が勢いをつけて出ると、ベッドが軋んだ。平常運転な拓実を見て、何をするべきか思い出した。
「さっきは悪かったよ」
拓実にはとにかく余計なものをぶつけすぎた。もちろん、言われたことには今もムカついているが、それとこれとは別問題だ。
「僕もデリケートな部分に串刺すようなこと言って、ごめんな」
へらっとしているが、いつもより声が細い。それがわかっただけでも、許せてしまえた。「とりあえずここ座れや」と拓実が床ソファを指したので、浅く尻をつけた。
部屋から漏れていたのは、テレビの音だった。画面にはDVDの操作画面が表示されている。サブスクリプションで観るようになってから、映画の年代も相まってメニュー画面すら懐かしく感じた。
『存在の耐えられない軽さ』
再生ボタンが押されると、俺たちは画面に集中した。拓実の薄く大きな息遣いが聞こえると、俺も拓実もお互いの顔を見なくてもいいことに安心していた。
軽快な音楽と共に、仕事服のまま外科医が『服を脱いで』と女に囁く。なんだかムラムラしてきた。大丈夫なんだろうな、と横を一瞥すると拓実はなんてことのない様子でじっと前を向いていて、手には帽子をお守りのようにいじっていた。パッケージを手に取る。
一九六八年、プラハの春。
世界史に暗い俺でも知っている。
「久しぶりやな」
しばらく男女の会話を眺めていると、唐突に隣から声が入った。俺はなるべく邪魔をしないよう、小さく頷くだけにした。
「外に出られなくなる日が続いて、公演も中止や延期になって。いつできるかも、わからない中、じっと待つこともできひんかった。そんな時、『暇だったらサブスクにある映画片っ端から観てくか』って誘ってくれて、結構な時間付き合ってもらったのは、嬉しかった」
拓実からすればそう見えるかもしれないが、実際は違う。今までとは違う生活スタイルを強いられると、ストレスが出る。拓実の場合、部屋の中で公演前日のようにそわそわしていた。最初は散歩でも習慣にすることを提案してみたが、あまり効果が見られなかった。もしかしたら、拓実は演劇に関われないことに不安があるのではないかと思って、その代替として家の中で見られる映画を提案しただけだ。部屋の中をうろうろされるよりかは、一箇所に留まっていてくれた方が俺のストレスも軽減される。まさか隣に座らされると最初は考えていなかったが、映画は面白かったし、いい暇つぶしにもなった。
「健太郎はやっぱ人との距離感とるのうまいよな」
そして、ルームメイトも勝手に元気を取り戻した。
明日から数か月遠のいていた公演が、五日間行われる。
「僕はそういうの苦手でな、がーっと近づいてお節介焼いたり、嫌われるくらいまでほっぽいたり、そういうやり方しか今までできんかったんや」
夕方のことは意外と気にしていたらしい。
距離感、というものを意識したことはほとんどない。拓実も真子も、勝手に本人たちが立ち直れると信じていたから、彼らの縁に突っ立っていただけだ。
俺はいまいち意図を測りきれていなかった。拓実とのわだかまりは、ついさっき解消できたものだと思っていた。おそらく、夕方の続きだ。今度は悪意も、敵意もなし。お互いできるだけ冷静に話す合意がなされた。
「でもな、反対に健太郎の悪いところもわかるんよ。がさつなとことか――、」
その後に続く言葉を、夜に消えてしまいそうなほど小さな声で拓実は囁いた。
「……気をつけるよ。そこだけじゃないこともわかってるつもりだし、拓実の言うことは間違ってない」
けれど、先取りするように俺は紡ぐ。
ずっと、考えていたことだった。何が足りていなくて、何が違って。どうしたら人から認められるような社会人になれるのか。
「俺はどこか、真剣じゃなかった気がする」
志望動機も、キャリアプランも、Webテストも、学チカも自己PRもESも面接も。どうしてそれを選んだのか、全部説明できるくらい考えないといけなかった。
でも、それを説明するエピソードがどうしても見つからなくて、綺麗な線を書くことができなくて、星座を描けなくて。パソコンに流れる説明会の資料を、ぼんやりと眺めているだけだった。
なあなあのまま臨んで、時間だけを浪費していた。
滑らかな線を書けるように、練習が必要なのだ。
映画が流れる。
二つ人生があれば――、
「二つ人生があれば、一回目と二回目で違うやり方をできた。そして違う仕事を選んで、違う人と仕事をして違うところに住んで、そして両方を比較した」
でも人生は一度で――、
「拓実や今の俺からすればいい加減だったかもしれないけど、そんな気はさらさらなかった」
仕方がない。失敗しても、仕方がない。
でも俺は仕方がないという負け惜しみを吐いて、惨めな結果にはしたくはなかった。でも、一人だけでは限界があった。
「拓実の力がどうしても必要なんだ」
拓実の方を向こうすると、顔に何かが押しつけられて視界が塞がる。手で払うと、帽子が落ちる音がして、拓実が薄く笑っていた。
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