誠実 二〇二〇年 十月三十一日 ①
十月三十一日
東京都感染者数二一五人
「メイクか。拓実くんらしいね」
感想を漏らした真子の表情は、彼女が注文したカフェオレと同じく柔らかい。それと同時に酸化したコーヒーが喉の奥を締め付けると、眉がびくりと歪む。
「睨まなくてもよくない?」
コーヒーカップを口から離すと、困った様子で真子が目を逸らす。壁や棚の至るところに本や写真集が置かれたブルックリンスタイルのカフェは、高校時代ドリンクバーで何時間も大声を出してふざけていたファミレスとは違う価値を提供する場なのだと、コーヒーの値段ひとつで思い知らされる。
「ちげーよ。思ったより苦かっただけ」
「ならいいけど」
元の形に戻った眉は丁寧に描かれている。俺のものとは全く違うパーツみたいだ。
「健太郎は違うなって思ったんでしょ」
音楽が切り替わる。テナーサックスが唇を横に引き延ばした。
「俺は他にもっといいやり方があるんじゃないかと思ってるだけで、大樹みたいに食ってかかったわけじゃない」
元基だって、「俺も化粧のことはよくわからないからなー」と隣で言っていた。真子に「どうなんだよ」と尋ねると、スラリと整った鼻先がこちらを向いた。
「私も面接したことないから、就活に関しては健太郎たち以上のものは出てこないよ。でも、メイクだって、私だけじゃなくて誰かが喜んでくれるならいいと思うんだよ。私が綺麗になることで隣で歩く人が気分よくなってくれれば、それだけで何十分も鏡の前にいた時間なんて忘れちゃうもん」
「今いいこと言ったかも」と真子が呟かなければ、俺は直視するすることができなかっただろう。だけど、決して嫌な気分じゃない。きっと調子に乗ってここの会計も俺が持ってしまうのだろうなと予想がつく。
「それに比べれば就活メイクはやだな」
真子が愚痴を零す。
中身を整える前に、どうでもいいところにどうでもいい労力を割かれなきゃいけないのが嫌だ。しかも、見ず知らずのおっさんの前がじろじろ見て、女性らしさやら初々しさとかを求められるのに、オンライン面接でスーツの着用が義務づけられなくなったから、私服のセンスまで問われる気がする。
友達の経験談の後半は、「やべえな」、「大変だな」、と相槌を打つことしかできなかった。よく動き回っているスタッフに目を移すと、大きなローストチキンをトレーに載せており、いつの間にか夜メニューに変わっていた。時間を確認すると同時に、スマホには真子からの通知が送られてくる。
「私も今度ESを提出するんだけど、どれが『らしい写真』だと思う?」
俺は送られてきた写真と、目の前の実物とを上下しながら小さく唸る。らしいと訊かれても、写っているのが全部本人なのだから返事に困る。サークル・バイトがほとんどだが、高校時代のものや、こないだの旅行の写真もあった。「健太郎はこれ選んだでしょ?」となぜか得意げな顔で細い指を画面に伸ばしてきたので、「え?バイトのにしたけど」と返すと大袈裟に驚かれた。
「なんで~?」
「あの写真で、自分らしさをうまく説明できる気がしない」
「できるよ~」
真子がぶつぶつ呟くのを適当に聞き流しながら、今度は一枚一枚アップしてみる。これを許可なくやっていると、変態にしか見えなくて危ない気がした。通報されないよな。
人目からでも説明が容易そうなものを基準に選ぶと――、
「これ……かな」
「どれどれ」
真子が前のめりになろうとするので、小学校低学年くらいの子供数人と真子が遊んでいる画面を上にして、スマホをテーブルに置いた。
「施設のやつか……」
何枚かの候補のうち、この写真だけは顔がアングルの方を向いてなくて、何か活動してるんだなと想像できた。候補の中には、アングルに向かって子供たちと顔を綻ばせている写真もあったけれど、こちらの方が自然体なだけ話が膨らませやすいと思った。
「今年も行けたらよかったんだけどね」
施設で活動していたことは去年から散々聞かされていたが、今年はサークルの活動自体が制限されているため、中々厳しいらしい。「でも、みんな元気だって!」と笑う瞬間、それを面接官に見せればいいのにと思ってしまう。
「この写真見ると、この人にもいいところあるんだなって思うよ」
何回かスクロールした画面には、門の前で下手くそな笑顔を浮かべた俺が映っていた。あまり見たくなくて顔を逸らすと、「あの時と同じ目してるよ」と言われた。
「いい意味で距離が近すぎずに、放っておいてくれるとことか好きだけどね。ほら、自分が色々悩んでる時、近くにいて嬉しいときもあるけど、その逆もあるでしょ。健太郎は距離感がすごく上手なんだよね」
そんなことはない。もし、自分が誰かを求めた時、それを拒絶されたらどうする。俺はただ、臆病なだけだ。「自己アピールって難しいからな」と言葉を濁す。
「拓実くんには訊かないの?ほら、同部屋じゃん?」
「最近部屋空けてること多いからな。あんまり時間取れないんだよ」
拓実はノートパソコンもリュックに詰めながら、「演劇!」と言って朝早くに寮を出た。あいつの顔を見ると、栄養ドリンクを流し込んだ胃がここ最近、毎日重くなる。顔を合わせたくなくなってくる。熱があるわけでもない。特別眠いわけでもない。にもかかわらず布団の中で息をする時間が増えた。
やらなくてはいけないこと自体は前と変わらない。就活関連のことをするか、バイトに行くか、単位を取るか。だが例えば、朝に受けていた講義の動画を夜に視て課題を提出すれば、画面の前に座っている時間は拓実と顔を合わせることも、若干ではあるがなくなる。
可処分時間が減るだけ、考える時間が減る。外出が厳しいことを考えれば、健康を保つことが正しいのだと言い聞かせることは、お守りを買うときの感覚となぜか似ていた。
「帰ってから訊いてみなよ。きっと彼の方がそういうの上手いから」
そろそろ行こ、と伝票を持って真子は席を立った。
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