誠実 二〇二〇年 九月二十七日 ①

    二〇二〇年九月二十七日

    東京都感染者数一四四人


「ねえ、この門バックに写真撮って!」

新幹線の席を前々に予約しないでよかった。石畳を軽く蹴りながら自分より数倍大きな門を指す真子を見て、心の底からそう思う。

 今朝になって「北野天満宮に行ってない!」という真子の寝言で起きた時は、いつもより高価なベッドが柔らかすぎたせいで、悪いものが憑いたのかと疑った。前日の夜に三日目は京都駅周辺を観光して、新幹線で駅弁を食べながら東京に戻る予定だったが、彼女の一言で急遽変更になった。いつもは下調べなんてまったくしない真子が突然「どこ行くとか私にも決めさせて」と言ってきた時は、だから台風が近いのだなとむしろ納得させられた。「色んなところ観られるからお得だよね」という言い訳を聞きながら囓ったホテルのクロワッサンが、実は今回の旅行で一番美味しかった。

 昨日の夜は風が強かったせいか、色とりどりの葉が石畳を染めている。紅葉の季節ではないが、青葉や枯れ葉が混じった歩道を歩くのは靴が汚れるという点を除いて気持ちがいい。世界遺産、重要文化財。京都には全く興味のなかった神社や仏閣のパワーが引き寄せられ、観光候補のリストに加えてしまう。それらの背景にある文脈にすら関心があるわけでもなく、それらにタグ付けされていること自体になんとなく満足してしまっている自分がいる。

 多分、俺は一人旅には向いていない。そこそこの時間をかけて計画しても、いざ実際に現地に着いてみると、予定の半分の時間も消化せずに飽きてしまう。修学旅行みたいに、どこに行くかより人とわいわい騒ぐことが、単に楽しいだけなのかもしれない。だから、その隙間を埋めてくれる身近な存在が、買ったばかりの御守りのように心強かったりする。

「ねえってば!」

「わかったわかった」

 そうでなくても、今回は真子のための旅行だった。本人はともかく、俺はそのつもりでいた。

 今は時間が必要だった。気分転換をしてもらって、少しでも現実を忘れる時間が増えて、嫌なことを忘れるための時間ができれば。

 二ヶ月ぶりに会った真子は、いつにも増してテンションが高い。初日は単に京都が楽しみでそうなのかと思ったが、ホテルに着いても、二日目になってもずっと彼女はあの調子だ。

――どうしたらいいのか、わかんないよ。

 どうにかして言葉を絞り出さなければいけなかったあの日に比べれば、カメラ越しに笑っている彼女の方が全然ましだ。それでも、関係なく降りかかる理不尽に、どれだけ耐えなければいけないのか。真子を見ると、最近そんなことばかり考えてしまう。

 真子の場合、このまま行くのであれば残された時間は多くない。理不尽に打ちのめされると同時に、考えなければいけないこと、行動に移さなければいけないことが多すぎる。

「これでいい?」と真子に渡すと破顔で応じられ、なぜかマスクの下はどぎまぎした。

「健太郎も撮るよ」

 素直に応じ彼女の横に行こうとすると、真子は後ろに下がりながらスマホを構える。

「まさか、俺一人?」

「いらんいらん」とカメラを遮るために近づこうとするが、彼女もゆっくりと下がった。

「思い出に一枚いいじゃん。ほら、健太郎単品の写真って少ないし」

「二人でなら撮るけど、一人はなんとなく恥ずい」

 一緒ならともかく、自分一人の写真は後で見返したためしがない。

「就活で使うかもしれないよ。『あなたらしい写真を提出して二百文字以内で説明してください』って」

「……仮に提出するとしても、今から撮る写真は使わないよ」

 マスクを膨らませながら、渋々彼女と同じポーズを取る。

「はい、オッケーでーす」

 真子にスマホを返してもらい、また一つ門の下を歩くと華麗な装飾が施された本殿が見えた。

「妹の御守り買うんだよね?」

「そうそう」

 真子の妹は高校三年生で、来年共通テストを受ける最初の学生たちの一人だ。

「妹思いだな」

 ははは、とマスクの下でも真子は笑顔を続ける。

 春休みが延びたのは大学だけではない。特に高校三年生は、授業の進みが受験にそのまま影響する。不安な要素を限りなくゼロにしたいと常に考えていた身としては、今の状況で平静を保てる方が難しい。

 先に売り場を覗いてみると、学ランを着た中学生がどの御守りを選ぶかで騒いでいた。

「元気だねえ」

「俺も中学生の時は、あんな感じで友達とぎゃーぎゃーしてたよ。それでちょうど真子と門を撮ったあたりで、外国人の観光客にいきなり道を訊かれてさ。あの時は『なんで俺に訊くんだよ!』ってしどろもどろになったよ」

 その後「一番声でけーのに、ナメクジみたいに声が萎んでやんの!」と同じ班の友達に散々笑われて、英語を頑張ろうと決意したこともあった。

 前来たときはもっと混んでいたが、今回は比較的空いていて、敷地内にいるのはほとんどが日本人だ。仮に英語で道を聞かれたとしても、隣には真子がいるので何の心配もなく任せられる。

「健太郎は話しかけやすそうな顔してるもんね。なんか綿飴みたいに、ふわふわなよなよしてて話しかけやすい」

「なんか、ところどころ悪口になってない?てか、なんで綿飴?」

「長いものに巻かれるから?」

「長いものって言うか、巻いているのは棒ね。綿飴じゃなくて」

「そうそう。でも真ん中にちゃんと棒が通っていてね」

「芯って言いたいんだろうけど、フォローになってないよ。しかもそれ、やっぱり棒だし」

 昨日八坂神社で綿飴の屋台があったからだろう。でも最近は袋詰めで売られてるのもあるんだよな。

 たしかに真子に比べれば、俺は巻かれる側の人間だ。前の旅行では予定を立てない方が面白いと真子は言っていたが、俺は前々から予定を立てて、当日もガイドブックを見ながら動かないと心配で仕方がなかった。

「でも、そういう旅行の思い出があるのって、ちょっと羨ましいな。私は最近まで旅行前に体調崩すタイプだったから、京都に修学旅行行く時も寝込んでたんだよね」

「そんなこと言ってたな」

「ほんと最悪だよ」と真子は目元を歪ませる。俺の小学校でも遠足や社会科見学の時に限ってで休む奴がいて、勿体ないなと思っていた。

 中学生達が選び終わり、売り場の前で足を止める。即決で巾着型の御守りを選び会計を進めている真子の後ろでは、別の学校の修学旅行生がぞろぞろ集まってきた。

 彼らが引率の先生の話を聞いている間に、とっとと俺たちはお参りを済ませる。就活って学問の神様に聞いてもらえるのかと考える横で、真子は瞑目していた。

「妹の受験が上手くいくようにってお願いしたのか?」

 通った道へと戻りながら、真子のお参りが長かった理由を訊いた。

 すぐに帰ってくると思っていた返事は、真子のところでずっと止まっていた。隣だと前髪とマスクのせいで、どうしても顔が見えない。

 真子が差し出した手を繋ぐと、細い指から感じられた暖かさに突然息が止まりそうだった。俺は洪水のような感情を堪えるのに必死で、その横で真子は、先生の話を退屈そうに聞く彼らを見ながら、口を開く。

「高校の修学旅行で初めて飛行機に乗ったんだけど、飛行機酔いしちゃってさ。珍しく熱が出なかったから、バス中でもはしゃいだのがいけなかったんだろうね」

 今回の旅行中、真子がずっと笑っていたのは、単に楽しいからではなかった。

 横風が木々の合間を縫って、騒ぎ立てる。

「友達も酔い止め持って無くてさ、じゃあトイレに行って吐くしかないかな、とか思い始めた時、客室乗務員の人が介抱してくれてさ、その人が信じられないくらい綺麗に見えたんだよね」

 枝葉の擦り立てる音が、すすり泣く音と一瞬被った。

――健太郎、どうしよう。

「修学旅行は二日目からは台風が直撃してさ、まともな観光もできなかったんだよね。せっかく水着買ったのにさ。だから、飛行機のことは今でもよく覚えてるんだよ」

 自分は元気だと、俺にずっと言い聞かせるように笑顔でいた横で、真子の手は、ついさっきまでずっと冷たかった。

「時計の針みたいに、何かのスイッチがはっきりと聞こえたの」

 客室乗務員が夢であることは、付き合い始めてからすぐ知った。

 色々な場所を観てみたい。小さい頃は叶わなかったことを、大人になって職業として叶えたい。というのは後付けの理由で、本当のところは一目惚れだったのだ。

 彼女の指針は、ある日突然、上空一〇〇〇〇メートルの飛行機の客室で、ジェット騒音に打ち消される中で向き始めたものだった。

 そのための勉強も、付属高の頃からずっと続けていたらしい。俺が彼女に気持ちを伝えた時も留学することを告げられたが、それでもいいと言うと、うんと応えてくれた。

 仮に面接試験があるとして、真子の志望動機、これまでたどってきた過程、なるために磨いてきたスキル、将来したいことを点と線で結ぶのならば、真子は誰よりの目にも明らかな綺麗な形の星座を描けるだろう。偽りのない、誰が聞いても納得する滑らかで誠実な論理。俺はそれが羨ましくもあり、ほんの少し妬ましかった。

 しかし――、

――どうして……。信じられないよ。

 国内外問わず旅行客が激減したことで、旅行代理店や航空企業は特に大打撃を受けた。航空企業は人員整理や従業員を、他の業務への転向を打診した他に、二十一卒の採用を中断・中止する企業が続出した。

 真子から連絡を受けたとき、彼女の声は震えていた。このままの状態がつづけば、恐らく二十二卒の採用も厳しいことは誰の目にも明らかだった。

 その仕事に就くために一生懸命勉強してきた彼女らが否定されたような気がして、それはどんなに拭っても消えないインクみたいにずっと残り続けた。

――し……、

『仕方あらへんな』

 男性にしては凹凸が少ない拓実の喉仏が上下に動くのが目に浮かんで、遠足の日が雨で中止になったことを子供に伝えなければならない親の気分にさせられた。拓実がこの言葉を使う時、考えることをやめたみたいに聞こえて俺は嫌いだった。

 血がぐるぐる混ざる音が聞こえた。考えて、考えて、考え続けた。

――大丈夫だよ。目指すために努力したことは無駄にはならない。他の職業を選んでも、真子なら絶対に上手くいくさ。

 真子だったら、どの企業に進んでも、どんな仕事についてもきっと上手くいく。親父が言う誠実に一番近いのは、今考えても彼女が最初に浮かんでくる。だから、真子がどのような選択肢を選んでも、大丈夫だと彼女に言い聞かせた。

 時間が必要だった。彼女が立ち直るまでの時間。理不尽に耐えて、折り合いをつけて、選択をするまでの時間。次に頑張るための時間。

「健太郎、今日まで迷惑かけてごめんね。毎晩、話聞いてくれてありがとう」

 今すぐ彼女の手を引っ張り、もう片方の腕で抱き締めたい衝動に全身を貫かれた。

 俺は空いてる片方の手でズボンをぐっと握り締め、堪えた。今、懸命に絞りだそうとしている彼女を、邪魔してはいけない。

「もう大丈夫。大丈夫だよ。」

 結局、不安だったのは俺の方なのかもしれない。

「神様に『就活頑張るから、妹も受験頑張るから、どうか見守ってください』ってお願いしたから。あとは、自分の力で頑張るよ」

 真子が手を離して、ぴょん、と半歩前に跳んだ。それは青葉を踏むまいと、避けるためだけだった。ただ、それだけだったのに、俺は凄くほっとした。

「あーあ!人生二回あったらなれたかもしれないのになー!」と真子が叫ぶと、笑顔のまま肩から髪がゆっくりと垂れた。風はもう止んでいた。

「だから就活のこと、色々教えてね」

「……嫌なこと思い出させんな」

 次に控えているESから逃げたい気持ちを抑えながら、もう一度真子の手を握り直した。

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