誠実

Massu

誠実 プロローグ ①

 ワックスがほんの少し、指に残っている。Enterキーを押したときのべたつく感触が嫌で、俺は手が届かないところにあるウェットティッシュを一瞥した。するとZoomの画面が切り替わり、すぐ正面を向いた。この数秒が、最近では一番嫌いな時間だ。

 手相の間で汗とワックスが混ざり、背中には冷たいものがゆっくりと走る。エアコンが壊れているのかと思ったが、それは俺がこんな恰好してるからだろう。パソコンの画面に映っているのは、似合いもしないスーツ姿だった。

 不格好さを笑いたくても、今はそんな余裕がない。ネクタイは曲がっていないか、背景に変なものが映っていないかを確認する方がずっと大事だった。

 よし、大丈夫だ。一つ息をついた後、画面の右下に目を配りながら、この日何度も開いたメールボックスをもう一度開く。時間も合ってる。予定時間まではあと二分あった。余計なものも映りこんでいない。昨晩急いで部屋を掃除していると、同部屋の拓実が「まめに掃除せんからひいひい言うはめになるんや」とアイスを食べながら、自分のスペースだけは綺麗なことを自慢していた。

 俺はウェットティッシュに再び目を向けた。今なら行けるが、万が一相手が来た時、画面に誰もいなかったら心象を悪くするかもしれない。でも行きたい。

 そうこうしているうちに、俺だけ映っていた画面が右半分に追いやられ、左半分には俺とは違い、着慣れたスーツの男性が入り込んできた。

「私の声は届いているでしょうか?」

 やばい。ウェットティッシュなんか見るより、もっと違うことに時間を使えたのに。一抹の後悔をよそに、相手画面の右下に松野と書かれた男性は穏やかに笑っていた。

「聞こえています」

「こんにちは。私、大洋食品人事部新卒担当の松野と申します」

「こんにちは!小山健太郎と申します。本日はよろしくお願いします!」

 よく通る声。着慣れたスーツ姿。つけ慣れたワックス。俺がいつかこの人みたいになるなんて、正直想像がつかない。

「本日は当社の夏インターンシップにお申し込み頂き、ありがとうございます」

 別会社の面接では集団だったが、今回は個人面接のようだ。二つの違いは、他の就活生が話している時に相槌を打つ回数が多いか、次々と質問が飛んでくるかだ。俺は後者の方が嫌だったから、メールが来た時はスマホをぶん投げそうになった。

「さっそく面接を始めたいと思います」

 喉が動く。自信があるように応える俺は、松野の目にどう映っているのだろう。

「では、改めて自己紹介をお願い致します」

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