第44話 偏屈
「何だ?」
不機嫌な声が電話から聞こえた。まさかこちらが、大人数で聞いているとは思っていないのだろう。
「栗原亜土に関してだけど」
「ああ。あれね。かなり難しい。理解するにはちょっとな」
「やっぱりそういうものなのか」
理解し難いというのは、小川だけだなく川口も和田も抱いている感想だ。だから、客観的意見として得られたのは大きい。
「ああ。コンピュータを使った数値解析では、そんなことはないんだがな。本人の頭の中だけで処理された内容というのは、どうにも。あれだ。ペンローズの独特な数学表現を見ているのと変わりない感じだね」
「ああ、なるほど」
それで聖明には伝わった。
ペンローズというのは数理物理学者で、彼は自分で開発した数学記号を用いることで有名だ。当然、他の人がその状態で見ても理解できない。
どうやら亜土は、そういう特殊な発想をするタイプの学者だったらしい。
「まあ、かなり変わっているという印象しかないな。もちろん、丁寧に研究すれば得られるものはあるかもしれない。しかし今は無理だな」
もういいかと、人見はそこで電話を切ってしまった。本当に、どうしてこの屋敷の写真を印刷して持っていたのか。それが謎になる。
「こういう奴を気まぐれっていうんだ」
「たしかに、先生を上回っていることは認めます」
あまりのことに、未来もそれは認めると頷くしかない。
しかしこれで、亜土の研究を理解することが難しいというのは、誰の目にも明らかになった。
「たしかに脳に興味が出てくるな」
「不謹慎ですよ。それに、理解できている人が犯人です」
「ああ、そうだったな。ということは、時代に合わないと感じたのかな。その辺は、この屋敷と三浦さんの印象から解るだろう」
そう言うと、聖明は辻に三浦を呼んでくれと頼んだ。辻はそれを田村に頼む。田村は、そのまま部屋を出て行った。自ら呼びに行くようだ。
「時代に合わないってのは、解りますね。この屋敷は俺にはさっぱりです。何がどうなっているのか。それを、自分より二十も上の人が作ったと思うと、素直に凄いと思いますね。まるで映画ですよ」
呼びに行っている間に、辻がそんな感想を漏らした。
事件を除いてこの屋敷を考えた場合、ハイテクな凄い家としか思わないことだろう。面倒だというのは、捜査する過程で困るからという理由でしかない。
「そうですね。この頭脳がもう少し、たった十年でも先にあればと思えば、納得できる。ひょっとしたら引退前にどうにかしたかったのかも。いや、そうなると、この屋敷の研究はまだか」
そういう些細な部分は本人にしか解らないところだ。想像できる範囲から超えている。
「失礼します」
そこに三浦と田村がやって来た。
三浦は丁度、この部屋にお茶を運ぼうとしていたらしい。さすがは執事的な存在。気が利く。手には人数分のお茶の入った湯飲みが載っていた。今度もまた、中身は冷たい麦茶である。
「お酒用の大きなグラスはあるんですけど、こういう、ちょっとしたお茶を入れるコップがないんですよ。場合によっては、あまり量をお出しするのはどうかと思いますが」
三浦は湯飲みを配りながら困ったような顔をする。
たしかにこれだけ機械化された家で、コップに困るとは思わないだろう。亜土はいいかもしれないが、出す三浦は説明する手間を強いられる。どうにも奇妙だ。
「それって普段も困りませんか」
「ええ。しかし先生は、何度も入れる必要はない。大きなコップがあればいいとおっしゃられて。そういう作法のようなものに、拘らない方でしたから」
「へえ」
七十代だというので、そういうところは拘るだろうというのは偏見だったようだ。未来の質問のおかげで、亜土の別の一面も知れた。尤も、かなり偏屈だと解っただけだが。
「これだけ旅館みたいなのに」
おかげで、辻の口から思わずそんな質問が飛び出す。
「ええ。ですからまあ、湯飲みで代用しているんです。ちょっとだけ飲みたいということも、あるはずですから」
どうぞと、今度は辻にもちゃんと湯飲みを渡した。何かと面倒な人物だったんだなと、辻はそれを受け取りつつ思う。
「他のも困っていることはありましたか」
「そうですね。この家のシステムには悩みましたが、他にはなかったですね。細かな作法を気になさらないくらいで、仕事は普通でした。料理に関しても、和洋どちらもお好きでしたから、料理に困ることもなかったですね」
生活部分では、作法を気にしない以外は特筆すべきところはなかった。それは雇用関係にある、というのも関係しているだろう。つまり、三浦はあまり亜土に関して何も印象がないというわけだ。
「普段、喋ることはあったんですか」
「ええ、それは。といっても、必要なことを伝える、もしくは訊ねるが主です。無駄話をしたということはないですね。一人で研究をされているか、吉田さんのようなお弟子さんが来るか。そういう状態でしたから、私と話すことはなかったです」
思っている以上に偏屈なのかもなと、聖明は感じた。機械で出来ない部分、料理などを任せるために雇っているだけ。つまり屋敷の一部と考えていたのかもしれない。
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