第40話 尚武の印象
「中野が三十二歳で、小川が二十七歳ですからね。尚武が対人恐怖症を発症したのは、今から十五年前だということです。それを考えると、憲太君もまた、研究者として活躍していた頃の父親を知らないってことになりますね。どう思っていたんでしょうね」
複雑ですねと、辻はしんみりした顔をする。
周囲は奥さんの話の次は子供の話かと警戒したが、それは出て来なかった。
「憲太君も知らないか」
これは見落としていたことだった。
ひょっとして憲太が建築に向かったのは、父親のことがあるからだろうか。同じ分野に進むことに、二の足を踏ませることになった。
しかし、それは関係ないことだ。
憲太は今、建築学を心から楽しいと思いながら研究している。それでいいのだ。
「尚武さんって何歳だったんですか」
「五十七歳です。病気になったのが四十二歳の時ですね。憲太君が七歳の時ですね。子どもが出来たのは、ずいぶんと遅いんだな」
「別に今の時代だと違和感ない年齢ですよ。それに研究者として働いていたのだから、大学院まで進学し、博士号を取得しているはずです。平均的に、何の問題もなく取得したとしても、大学院を出るのが二十六くらいです。そこから就職してとなると、まあ、そのくらいで子供を作るのが丁度いいんじゃないですか」
聖明は普通だと思うと、そう意見した。
すると辻はそういう事情があるのかとメモをした。この辺りの事情も、身近に研究者がいなければ、もしくは自分が研究者を目指さなければ解らないことである。
「なるほど。となると、先生くらいで結婚を考えるわけですね」
「俺は考えませんけど」
ちらっと未来を見てから聖明を見る辻に、聖明は冷たく答えておいた。
未来との関係を疑われるのも心外である。そして未来に対しても失礼だ。
「ははっ。では、気を取り直して三人に話を聞きますか」
ここでへそを曲げられては大変だと、辻は宮下に吉田を呼んでくるよう指示した。
吉田は改めて呼び出されたことに困惑している様子だった。事件がどういう展開になったのか、そわそわしている。
「あの、二人の検査はどうでしたか」
「まだ何も解っていないと、そう申し上げるしかないです。そこでちょっと気になることが出てきました、皆さんに亜土さんと尚武さんの研究者としての印象を窺っているんです」
辻はにっこりと笑って、そう言った。
巧みに吉田がまた容疑者に入っていることを感じさせず、さらに研究者としての印象を聞くとはっきり告げることが出来た。さすが、ここは本職の刑事に任せて正解だ。
「そうですか。あの、研究者としての印象ですか」
「ええ、そうです。尚武さんも優秀な方だったんですよね。やはり父親の遺伝を感じさせる、そんな鋭さがあったんですか」
ここからは聖明は引き取り、そう質問をする。すると吉田はそうですと頷いた。
「無理に就職せず、大学で研究を続けるべきだったんです。それは大学院生の頃、何度も言ったんですけどね。彼と俺は、先輩後輩の関係ですから。尚武さんは、俺の大学の先輩なんですよ」
「へえ。そうだったんですね」
かなり密な関係だったわけだと、聖明は頷く。
それにしても、これもまた見落としではないか。聖明は思わず辻を睨んだが、しれっとした顔をしていた。
知っていたのか、それとも今知ったのか。その顔からは解らない。
「ええ。だから、何度も院生の頃に意見を交換したものです。その頃、すでに栗原先生が情報工学で頭角を現し、重要視されるようになっていましたから、尚武さんも意固地になって大学は嫌だと言ってました」
懐かしむように、そして悔しがるように吉田は言う。その様子から、研究者である尚武を否定することがないと、誰の目にも明らかだった。
「その、少し症状が改善して、この近くの小屋で作業をするようになっても、あまり人付き合いはしなかったんですか。この家でも引きこもっていたとか」
よく知る吉田に、ここでの様子を聞いた方がいい。そう判断し、聖明は質問を変えた。
「ええ。そうですよ。人付き合いは、基本的にしないようにしていたようですね。この家にいる時は、一番奥の部屋を使っていました。というより、この家に出入りはほとんどしていなかったです。三浦さんが、せっかく近くなのだからと気を聞かせて弁当を差し入れていたくらいですね。普段は自分の家、この近くに借りている家に帰るんです。あれ、知りませんでしたか」
これまた意外な事実だ。
しかし、辻はすでに知っていたことで、事件当日にいなかったのも、そちらの自宅にいたためだと教えてくれた。
「なるほど。そう言えば憲太君も、父親が来ているという言い方でした。つまり、常に住んでいたのは亜土さんと三浦さんだけだった」
「ええ。そうです。そこに我々、研究に参加している三人がお邪魔していたということです。部屋は余っていますし、もともと大人数を呼ぶことを想定していましたから、三浦さんも引き受けてくれました」
これはますます謎が深まったのではないか。そんなことを思ってしまう。しかし謎のまま放置できない。ここは吉田を信用し、情報を引き出すしかなかった。この場合の信用は、どちらかに肩入れしないか。その疑いを排除してということになる。
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