第19話 価値観の違い
「祖父の研究が、そんなに幅のあるものだとは知りませんでした」
「まだその論文を見ていないから、詳しくは解らないけどね。関連性があったかもしれないっていう程度だよ」
その辺を知っているか。聖明は通り掛かった川口を呼び止めた。川口は物理学での応用に向くか。それは知らないという。
「ああ。発想の問題ですね」
「ええ。我々はあくまで数学の問題として取り組んでいますから。もし論文をご覧になりたいなら、プリントアウトしましょうか。パソコンの中に入っていますから」
「お願いします」
すぐに見られると解ると、聖明は解りやすく機嫌がよかった。
やはり研究が第一。事件のことは完全に棚上げされている。この家の来た目的なんてすでに忘れてしまったのではないか。そう疑問に感じさせるほど数学にしか目が行っていない。
「そう言えば、まだ栗橋君の親族の人には会っていないですね」
そこで未来がようやくその話題を訊いてくれた。
憲太はほっとするやら、言っていいのか。悩む顔をする。
「そうだ。誰か来ているんだろ。あの吉田さんの言い方からしても、警察以外の第三者がいてほしいって感じだったからな」
それに、聖明はちゃんと記憶していると話を促した。やはり気になってはいるらしい。
「父と叔母が来ています。ええ、俺は、会ったんですけど」
ここに来てすぐ、顔色が悪かった理由は疲れからではない。そう全員が察した。
どうやら憲太が泊っている部屋の近くにいたらしい。すでに憲太は来たことを告げるため、二人の部屋を訪れたのだろう。そこで一悶着あったようだ。
「遺産に関してか」
「それもあります。でも一番の問題は、この家をどうするか。たださえ絡繰りだらけで、普通の人には維持は無理な状態です。売る場合でも、絡繰りは取り外さなければならない。そうなると、データの問題なんかも。だから、お弟子さんたちが必死なんですよ。そんなことをせずとも、俺は、吉田さん達のいる大学に寄贈するのがいいと思うんですけど」
「それは嫌よ」
すると、急に甲高い声がした。
入り口を見ると、目つきの厳しい女性が立っていた。着ているワンピースは高級そうである。
「叔母の
憲太がこそっと三人に名前を教えた。すでに憲太が困っているというのが解る、気の強そうな人である。
「嫌って。美典さん。この家をどうするつもりですか。あなた自身はここに住むつもりはないんでしょ」
それに対応したのは吉田だった。こちらはすでに何度か会話を交わしているのだろう。ため息とともに、説得を試みている。
「ええ。ないわ。こんな田舎、住む価値がないもの。でも、この家は売れば高値が付くわ。文化的価値があるとかで、買いたい人はいるのよ。それなのに大学に寄贈なんて。絶対に嫌」
「では、買取では」
「あら。払えるの。結構な値段よ」
下げる気はないからと、美典が提示した額は一億円だった。これに全員の目が美典に向くことになる。
「何よ。ここの権利は私にもあるのよ。当然の請求額でしょ。それに憲太君だって、研究者としてやっていくんだったら、まとまったお金があった方がいいに決まっているわ」
「それ。ちゃんとした査定の結果なんですか」
さすがに文化的価値だけで一億円はないだろうと、川口が割って入った。このままでは場の空気が悪くなるだけである。
「払うという人がいるって話です。私は、その人と交渉を進めていきますからね」
それは美典も気づいたのだろう。さっさとそこで会話を切り上げて出て行った。
壁に耳あり障子に目ありというが、美典は憲太の発言を潰すためだけに現れたらしい。しかも金銭問題に憲太の将来を絡めるとは、なかなか難しい相手だ。
「とまあ、終始あの調子で」
「なるほど。気苦労が絶えないわけだ。価値観は人によって違うものだから、そこに一定の線引きがないとね。それに、解らないものは解らない。これは普通の感覚だよ。俺たちがギリシャ彫刻の真の価値を理解できないのと同じだな。彼女に対して工学的な価値を説くのは、ほぼ無意味だろう」
なぜそこでギリシャ彫刻と思うが、確かにその価値を理解していないなと辰馬は思った。ただ綺麗というだけではない、何か色々な価値があるのだろう。
「はあ。しかしその価値を解って頂けないとなると、ここで研究を続けるのは無理ですね。やはりデータを取って、それで引き継ぐしかないかな」
「しかしここ、言い方は悪くなりますが事故物件ですよね。そんな高値で売れるのかな」
聖明の本当に真っ当な意見に、誰もがそう言えばと首を傾げることになる。よほどの好事家がいるのか。その辺りは美典しか知らないことだろう。
「犯人も見つかっていないのに、売却先の話をされるのは困るんですけどねえ」
そこに、それまで黙っていた辻がぼやくように言う。たしかに、勝手に現場を売却されては困るだろう。
「犯人の手掛かりはゼロなんですか。別にデータがないとはいえ、他にも痕跡はあるでしょ」
ここぞとばかりに辰馬は質問してみた。聖明が全くしてくれないので、疑問がどんどん累積している。
「それがないんですよ。もちろん指紋は残っています。それから土足痕も。ただし」
「ここにいる人のものしかなく、断定できない。そういうことですね」
先回りして聖明が言ってしまう。もはや定番のパターンだ。それに辻は苦笑する。
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