第24話 喪失と失望

 

 いっそ意識を失ってしまった方がどんなにか楽だろう。

 腹の奥底から何かがのたうち回り、突き破ってしまいそうな程、多過ぎる魔力の放流に、体内が悲鳴を上げている。

 蹲り、胸元を押さえてアステリアスが見上げた中庭は、橙の炎が少しずつ侵食し、中央に在る大樹を飲み込もうとしているけれど、それを阻止しようと、地面から伸びる無数の黒い根が苛立ちを抑えきれないかのように蠢き、炎を叩き消していた。

 煙を吸い込み、咳き込めば血の塊が喉の奥から溢れ出し、ひゅうひゅうと息が漏れている。

 幾ら息を吸い込んでも肺の奥まで空気が届く事は無く、浅い呼吸を繰り返すばかり。

 眼を眇め、見据えた大樹は黒々とした幹の内側に、真っ赤な球体が心臓のように拍動していた。

 その根元には、黒い鋼の男——グラムストラが佇んでいる。

 アステリアスは口端から流れる血液を手の甲で拭い、手にしている短剣をしっかりと握り直した。

 屋敷の中にいる魔物達は既に、全て始末している。

 魔物達が秩序無く行動する生き物だとしても、彼らは光を嫌がり、また、大き過ぎる力には逆らう事はない。

 それは、グラムストラがこの国の主として君臨している事からも、明らかな事だ。

 だからこそ、この森そのものである大樹の魔物と、国主であるグラムストラさえ倒してしまえば、もう、この国はまともに機能しなくなるのだろう。

 アステリアスは息を吐き出し、手足に力を込めてどうにか立ち上がると、短剣を構え直した。

 耳元で、青い石の耳飾りが音を立てて揺れている。

 沢山の命が、この森で失われて来た事を嘆くかのように。


「全てを終わらせる。その為なら、この身体が、この魂が、失われたとしても、構わない」


 アステリアスがそう告げると、黒い鋼の身体を僅かに軋ませて、グラムストラは頭を擡げた。

 それを合図にするかのように、周囲に張り巡らせた黒い枝葉が煩わしそうに音を鳴らしながら揺れ、襲いかかってくる。

 歯を噛み締めてアステリアスは自らに言い聞かせるかのように、呟いた。


「彼女を傷つける全てを、滅ぼす為に」


 そこに、夜の国も白の国も関係ない、と。



 ***



 フィーネは真白の服を泥や煤で汚しながら中庭に飛び出すと、中央に鎮座する大樹の根元に二人の姿を見つけて駆け出した。

 ドーム型のパードラがある四阿あずまやは既に呆気ない程粉々に破壊され、底の見えない泥の中に沈んでいる。

 木々の周囲は既に火が回っていて、黒い根がそれを妨げようとのたうち回るが、赤く燃え盛る炎は洋館すら飲み込もうと少しずつ勢いを増していた。

 嬲るような熱と煤に咳き込み、時折転びそうになりながらも、手を伸ばした先には、ぼろぼろになって尚、グラムストラ達に立ち向かおうとしているアステリアスがいる。


「アステリアス!」


 黒く鋭い枝葉が彼に襲い掛かろうとするのを、片手を振り、集めた空気を凝縮して風を起こすと、弾き返した。

 その攻撃に苛立っているのだろう、酷い風切り音に似たエレファンダルの咆哮が辺りに響いている。

 身体が痛むのか、胸を押さえて蹲ったアステリアスを庇うように、フィーネはグラムストラ達の前に両手を広げて立ち塞がった。

 グラムストラは静かにフィーネを見つめたまま、動こうとはしない。

 背中からは喘ぐように酸素を求めて呼吸をする音がしていて、彼がどれほどまでにその身体を酷使していたのかを、その時初めて、フィーネは知った。


「その短剣は女王の光が込められている。私が受け継ぐ為の光が。その力はあまりに強い」


 本来、扱うべきではないその力に、彼の身体が耐え切れる筈もない。

 既にいつ意識を失ったとしてもおかしくはないだろうけれど、それでも、彼は決して白銀の短剣を離そうとはしなかった。


「アステリアス。それを、返して」


 視線だけを向けて告げたその言葉に、彼は力無く頭を振った。

 微かに動く唇の端からは血が零れ、地面にぱたぱたと落ちていく。

 真っ赤に滴るそれが、やけに視界の端でこびりついて離れない。

 まるで、最後に見たあの景色のように。


「お願い。全てを終わらせる為に、その為に、私は此処へ来たの」


 フィーネはそう言ってしゃがみ込み、彼の側へとじりじりと近づいて、短剣に触れた。

 強く握り過ぎて硬くなった彼の手のひらの感触は、冷たく乾いていて、今まで触れた彼のそれとはあまりに違い過ぎて、フィーネは愕然とする。

 喉の奥からひゅうひゅうと息が漏れる音がして、彼が何かを発しているのを知ったフィーネは、そっと耳を寄せるけれど、それは言葉を上手く紡げずに、空気と同化している。

 眼は虚ろで焦点が合わず、指先だけが痙攣するように動いていた。

 最後に残るのは聴覚だと聞くけれど、それならば、彼はそれ程までに傷ついているの、だろう。

 震える両手で彼の手を握り締めると、目の前が一瞬、真っ赤に染まる。

 エレファンダルの黒い樹体の内側にある球体が、大きく拍動しているのだ。


「忌々しい、忌々しい……! 全て、全て、全ての生命は、この樹木わたしの中へと取り込まなければ……!」


 常ならば国主たるグラムストラがその力を抑えているので大人しくしているが、屋敷にまで火が回り、森にまで被害が及んでいるこの状況下で、グラムストラに影響が及ばない筈もない。

 彼の意識が逸れた瞬間を見咎めて、エレファンダルは自らの力を暴走させようとしているのだろう、地面から噴き上がるかのように黒い根が一斉に現れている。


「エレファンダル、止め、ろ……!」


 グラムストラの声にフィーネが顔を上げれば、大樹は赤い球体を膨張させ、その樹体を膨れ上がらせていた。

 それと同時に、頭上が一瞬暗くなると、強く腕を引かれて、名前を呼ばれた。

 それは、あの日、真っ白な花に埋め尽くされたあの場所で、彼が与えてくれた、大切な———。

 しっかりと抱き締められた腕の中はあたたかく、あの日に戻れているかのようで、けれど、それは、確かに、失われたのだ、と、確かに理解する。

 ぬるりと頰を伝う真っ赤な血液、地面に転がる白銀の短剣、あたたかいのに、強張っている身体。

 やさしいのに、何かを諦めたような、安堵したかのような、彼の笑みが、ふ、と崩れ落ちていく。

 呆然としたフィーネがその身体を抱き留めると、鋭く研ぎ澄まされた無数の黒い枝葉が、アステリアスの背中に突き刺さっている。

 緩やかに失われていく体温が、はっきりと手のひらから感じられ、フィーネの全身が小刻みに震えていた。


「エレファンダル……!」


 叫んだグラムストラは、その鋭利な爪をエレファンダルの幹に突き刺すと、無理矢理に樹皮を引き剥がし、深部を暴いた。

 痛みに抗っているのだろう、酷い風切り音と木々の騒めきに、彼の青い炎に似た瞳は揺れる。

 黒い根がグラムストラに巻き付くと、軋む音を立てて捻り潰そうとするけれど、彼は黒く揺らめく霧を頭部の角から発生させると、ぶくりと鋼の身体を膨らませ、力いっぱいに深部に埋まる赤い球体を掴み、握り潰した。

 辺りには真っ赤な血溜まりが広がり、黒い鋼の身体にも飛び散っている。

 荒く息を吐き出すように肩を上下させたグラムストラは、喉の奥から叫び声を上げ、頭を振り乱し、泣き喚く少女を、その揺らめく瞳でただ見つめて、いて。


「ア、アステリアス、いや……、いや、嫌だよ、アステリアス、置いてかないで」


 もう一人にしないで、と懇願するフィーネに、強張って震えている手を伸ばしたアステリアスは、宥めるように、その丸い頭を撫でている。

 自分が、世界が、彼を追い詰めてしまったのだと。

 大きな水玉を零し、謝罪の言葉を言い続けるフィーネに、アステリアスはゆっくりと笑みを浮かべている。


「君がもう、悲しまないように、苦しまないように、」


 微かな呟きが、勢いを増していく炎の音に掻き消されそうになるのを必死に聞き逃さないよう、フィーネは彼の顔に自分のそれを近づけた。


「どうか、」


 しあわせに、と。

 あたたかい血液の感触が、彼の手のひらから頰を伝って、地面に落ちる。

 感情は既に置き忘れ、次から次へと涙が溢れて、目の前がぐらぐらと揺れている。

 ただ、目の前に眠るこの人を、優しくしてくれた人達を守りたかった、それだけなのに。

 たったそれだけが、この世界では許されない。

 どうして、と呟き、アステリアスを抱き締めて呆然と涙を流すフィーネの側に、グラムストラは静かに近づいた。

 彼はフィーネの側に膝をつくと、項垂れるように頭を下げた。

 自ら首元を晒すかのようなその行為に、フィーネは愕然とした気持ちで問いかける。


「グラムストラ、どうして……」


 これでは、まるで、彼自らが、その命を差し出しているかのようだ、とフィーネは思う。

 森の中心部であるエレファンダルを失った事で、炎は呆気なく屋敷を飲み込み、周囲の木々にまで火花を散らしてその勢いを増している。

 嬲るような熱に皮膚は痛み、喉や鼻の奥まで焼かれてしまいそうになるのを、けれども二人は僅かも気に留める事はない。


「それが、お前の、そして、彼女の、願い、なのだろ、う」


 グラムストラの言葉に、フィーネは静かに唇を噛み締めた。

 女王の願いは、ただ一つ。

 彼女の力を込めた白銀の短剣で、彼を殺す事。

 それが、全てを失ってしまった、彼女の願い。

 そして、終わりを導く名前を与えられた、フィーネの願いでも、あった。

 この戦いを、終える事が出来るのなら、と。

 彼が何故それを知っていたのか解らずに、フィーネがその青い炎を思わせる瞳を見つめていると、彼は静かに話し出した。

 彼が、そして、彼女が、全てを狂わせ、終わりを導いてしまった、その原因を作り出してしまった事を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る