第25話 発端と終幕


 それは、全てを滅ぼしても叶えたい恋だった。


 柔らかく溢れる木漏れ日の下、陽光に溶けて消えてしまいそうな彼女の微笑みを見た男は、その瞬間、自らの全てを失ったのだ、と思った。

 硬質的な鋼の身体、頭部に生えた大きな角、鋭く尖った爪、闇から這い出てきたかのような自らの姿を、彼女の前に晒す事が絶え難く感じる。

 光を弾く白銀の髪と、白い法衣に身を包みながらも、尚、白く滑らかな肌。

 あまりにも違い過ぎる造りに、否応なく身を竦めて身体を引く男に、けれど彼女は気高くたおやかに笑うと、軽やかに足を進め、呆気ない程簡単に、その手を伸ばしていた。

 触れてはいけない、と男が咎めれば、どうして、と彼女は言う。

 自らは魔物の王であり、彼女は人間の女王。

 身体の造りやその在り方、二つの種族では、互いに理解が及ばぬ程に全てが違うのだ。

 決して理解し合う事はなく、思い合う事もない、その筈なのに。

 彼女はその隙間をいとも簡単に飛び越えて、男の側へと入り込んできた。

 そうして触れた彼女の、白く、折れてしまいそうな程にほっそりとしたその手のひらは、男の知らないあたたかさを持っていた。

 怖がらないで、と、優しく微笑んだ彼女が、男の知る唯一の光だった。

 国同士で力を合わせ、発展していく——そうした名目で始まった交流は、けれど、上手くいく筈もなく、水面下で行われる謀略に、二人は直ぐに引き離されてしまう。

 魔物と人が、決して手を取り合う事は出来ないのだと、思い知らされるかのように。

 二人が結ばれる事など決してない。

 わかっていながら、想い合ってしまった。願ってしまった。

 彼女は言う。

 それなら全てを終わらせましょう、と。

 男は言う。

 全てを終わらせたら、きっと迎えに行く、と。

 そうして二つの国は争いを始めてしまった。

 元より争いの火種は燻っていたのだ、背中を押してしまえばあっという間に戦火は広がっていく。

 たった一つの恋で、きっかけを作ってしまった。

 数えきれない程の命が失われてしまった。

 それが、自らの罪であり、彼女の罪。

 そう言って、男は顔を上げる。


 目の前には、白銀の短剣を震える両手で握り締め、涙を流した少女が立ち尽くしている。


「それで、いい」


 少女の足元には乾いて冷たくなった男が眠っていた。

 安らかに、穏やかに、伏せられた瞼が、もう二度と、開く事はない。


「私を拾ったのは何故? 私が女王陛下に……、リーニエンフィ様に似ていたから?」


 少女はそう男に問いかける。

 少女はある日の女王によく似ていた。

 けれど、男はそれに答える事はなく、ゆっくりと視線を森の奥へと向ける。

 暗闇に埋め尽くされた森の中は、炎に照らされ、ぼんやりと光って見えた。まるで彼女が居る、白の国のように。


「決めて、いた。決めてい、たのだ、全て。もう、彼女を待つ事も、待たせる事も、全て、叶わない、なら」


 せめて、この戦いを終わらせようと。

 全てを滅ぼしても構わないと思っていた。

 それを実現する為に、彼女が突き進むその姿が見えなくとも、きっとどれ程に苦しみ悲しんでいるのかも、男には痛い程に理解していた。

 それは、少女が握り締めている短剣が何より証明している。

 少女は言う。


「彼女の本当の願いは、たったひとつだけ。貴方を、この短剣で殺し、この戦いを……、全てを、終わらせる事」


 それが、彼女の本当の願い。

 そう告げられた瞬間、男はまるで笑みを浮かべるかのように、頭を震わせた。

 彼女はきっと、願いが叶えられる目前に、耐えきれなくなってしまったのだろう。

 男が少女に彼女を重ねてしまったように、少女の足元で眠る男に、いつかの男を重ねてしまったのだ。

 だから、願ってしまった。

 泡沫の夢を、一抹の希望を、全て失う前に、叶えられるように、と。


「私にこの名前をつけたのは……、フィーネと名付けたのは、」


 少女は彼女とよく似た顔で、悲しさや苦しさや悔しさをない混ぜにした表情を浮かべて、問いかける。


「彼女と同じように、全てを終わりにして欲しかったから?」


 森に棲まう魔物達のものか、遠くで誰かの悲鳴が聞こえているが、木々の燃える音に掻き消され、上手く聞き取れはしない。

 男は思う。

 きっと、全てが失われてしまっているのだ、何もかも、と。

 真白に保たれたあの国も、暗闇に沈むこの国も、全て。

 それでも。

 男は軋む音を立てて、静かに頭を下ろした。


「終わり、は、始まり、を連れてく、る」


 さあ、終わらせてくれ、と男が言うと、少女は短剣を握り締める手を更に震わせて、声を上げて泣き出した。

 少女の側にある男の亡骸は、次第に光に包まれて、うっすらと青く瞬く宝石となって、地面に転がっている。

 炎に照らされ、やわらかな夜明けの色に見えるそれは、彼の瞳によく似ていた。

 その宝石に、透明な水玉がぱたぱたと落ちて流れていく。

 わたし、と呟いた、フィーネは大粒の涙を零して、白銀の短剣を振り上げた。


「わたし、終わりなんか、見たくはなかったよ」


 少女が振り上げた短剣は、男がいつか見た光によく似ていて。

 鈍い音を立てて、黒い鋼の身体は地面に転がっていた。



 ***


 炎が爆ぜる瞬間の、弾ける音にさえ気にも留めず、少女は静かに森の中を歩いていく。

 既に炎は森一面を覆うかのように燃え盛り、黒い木々の影がくっきりと浮かび上がっては崩れ落ち、空へと煙を撒き散らしながら、夕焼けのように橙の火炎が広がっている。

 裸足の脚は森の枝葉や火災の熱で傷がつき、爛れて、煤や泥がまとわりついている。

 痛みはとうに感じる事はなく、亡霊のように意志もなく、ただ自らの身体が動くままに任せて少女は歩いていた。

 やがて辿り着いた森の外れには、うっすらと青みを帯びた真白の壁が高くそびえていて、其処には一人の女性が佇んでいる。

 足首にまで届く程の白銀の髪、遠くまで見通せる程の透明さを保った青い瞳、白くほっそりとした身体を包む衣には、銀の刺繍が施されている。

 常ならば手足や頭上に輝いている冠や装飾品の類は全て取り払われていて、その様が、余計に少女と彼女をよく似たものと感じさせる。

 壁の向こう側からも、森の中からも、生き物の気配は感じられず、暗闇の森も、真白の壁も、夕焼けに塗り潰されたかのように赤に染まり、まるで世界に二人きりのようだ、と少女は思った。

 女性は土で汚れてしまう事さえ厭わずに、見上げた少女の前へと裸足で歩み寄ってくる。

 女王陛下、と掠れた声で呟いた、少女の声に、悲しげに顔を歪めて。


「私の魔石を、貴方に差し上げましょう」


 彼女はそう言うと、少女の手を取った。

 生きている筈なのに、その手はとても冷たく、強張っている。


「私の魔石は、一度だけ、貴方の願いを、叶えてくれる」


 それだけが、貴方に出来る、私の償いなのだ、と、彼女は言う。

 けれど、それは、彼女の身の内にある膨大な魔力を引き換えにするという事でも、ある。

 生命と引き換えのその行為は、彼女の覚悟なのだと、言わずとも知れた。

 少女は大切に握り締めていた青い宝石を、縋るように握り締める。


「何ひとつありません。願いなんて、望んだって……、もう、何もかも、失ってしまいました」


 守りたかった人達も、大切な家族も、大好きな友人も、心から愛していた人も、全て、全て、全て。

 言葉を紡ぐと共に、また少女の瞳からは、大粒の涙が溢れてくる。

 地面をどれだけ濡らしても、其処には何も生まれない。

 知っていながら、少女はそれでも涙を止められない。

 ごめんなさい、と呟いて、悲痛そうに顔を歪めた彼女は少女の手を取った。

 白くほっそりとした彼女の指先は震えが止まらず、触れた皮膚が一体化してしまいそうな程に、きつく握られた手のひらは、ひんやりとしている。

 ごめんなさい、と、もう一度呟いた、彼女の手のひらからは真白の光が溢れていて、次第に女性の身体を包んでいく。

 決して表情を見せる事のなかった彼女が、涙を零して、泣いている。

 その透明な涙が形を成したかのように、その顔はうっすらと消え、やがて目の前に手のひらに乗る程の大きな宝石が現れていた。

 硝子のように透き通るそれは、空中に佇んだまま、奥底から光が溢れてくるように輝いている。

 呆然と見つめた少女の腫れ上がり熱を帯びる頰の上を、溢れた涙が流れていき、鋭い痛みを齎している。

 手のひらには、彼であった青い宝石だけが遺されていて、それは、炎に照らされ、夜明けの色をしている。

 どんなに泣き喚いても、もう、誰も、名前すら、もう呼んで貰えない。

 胸に青い宝石を抱き締めて、少女はその場に蹲った。

 燃えた木樹の匂いが、鼻の奥にこびり付いて離れない。

 足にまとわりつく泥の感触。光に溢れた街の景色。真っ赤に染まった視界。暗闇の中で伸ばされた手のひら。

 ぐるぐると巡る記憶の隅で、黄色の宝石がころりと転がって、懸命に輝いている。

 それは、夢の中で、力にして欲しい、と、必死に訴えていた彼らの言葉が聞こえてくるようで。

 ゆっくりと瞬きをした少女の睫毛から、水玉が溢れて流れて地面に落ちた。

 青い宝石の上に落ちると、うっすらと輝いているかのようで、少女の喉は震えている。

 異形の王は言っていた。

 終わりが始まりを連れてくる、と。

 夜が終わり、日が昇り、それでも、始まりが訪れると言うのなら。

 少女はゆっくりと呼吸をして頭をもたげると、目の前の景色をぐるりと見つめた。

 薄暗い空は茜色に染まり、光で溢れる場所との境界線を溶かし、曖昧にしていくようで。


 どうか、しあわせに。


 そう言っていた、アステリアスの声を、言葉を、表情を、思い出す。

 彼の与えてくれた名前を、覚えている。

 新しく生まれる、やさしい世界で、しあわせになって欲しい、と言っていた、その願いを、其処に潜めた優しい願いを、少女は知っている。

 救いなんて現れない。願いなんて叶わない。

 そう言って、諦めた全てを、もう一度取り戻す事が出来たなら。

 そうだとしたなら。 


「……私、私の、願いは……、」


 両手で握り締めていた宝石は、溢れた涙に濡れて、輝きを増している。

 夜明けを待ち望むようなその色は、彼の瞳によく似ていて。

 祈りを込めるように、少女はそれをしっかりと握り締めて、目の前にある、真っ白に輝く宝石に、願った。

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