第19話 暗闇と再会
辺り一面に飛び散る肉片が、鼻や喉の奥を掻き毟りたい程の腐敗臭を撒き散らしている。
廊下には格子を嵌め込んだ窓が等間隔に並んでいるけれど、月明かりさえ届かないこの場所では、不愉快な木々の音を届けるばかりだ。
壁にかけられているというのに意味を成さない燭台に火を灯していっても、その光源はあまりにも頼りなく、周辺を微かに照らすだけ。
此処では夜は明けたりはしない。だから、空の色も変わりはしない。
それを覆すには、こうして内側から光を灯していくだけ。
それが、自らに与えられた役目ではなくても。
アステリアスは荒くなっていた息をどうにか整えて、重い身体を引き摺るように歩いている。
斬りつけられた皮膚は未だ熱さを保ち、頰の輪郭に沿って流れていく。
滴る血液が鬱陶しく感じて手の甲で拭い、アステリアスは小さく息を吐き出した。
踏み出す度に、飛び散った肉片や赤黒くなって固まりかけている血液が、靴裏にべっとりとくっついて、不快感は一層増していく。
どうしてこんな事をしているのだろう、と頭の片隅で誰かが問いかけるけれど、直ぐ様その考えを塗り替える程の怒りが湧き上がっては、身体中を駆け巡っていく。
床に転がっていた、根本から引き千切られた骨で出来た羽を踏みつければ、乾いた音を立てて折れていた。
少し視線を上げれば、大量の剣や槍、斧、刀や鋏……、ありとあらゆる刃物が床に散らばっている。
肉塊の一部から引き攣った誰かの声が微かに聞こえるけれど、アステリアスは無感情に鋏を手に取ると、その方向へと鋏を突き刺した。
甲高い悲鳴が廊下に響き渡り、その反響と共に、あたたかさを保っていたいきものの残骸が、少しずつ冷えて固くなり、やがて灰になっていく様を見て、アステリアスは深く長く息を吐き出した。
頭の奥が、痺れるように重く痛む。
肺は息を吸う度にへしゃげるように苦しく、身体は熱を帯びている。
きっと、力の使い過ぎなのだろう。
痛みは信号だ。
身体が危険を知らせる為のとても重要な合図であり、だからこそ、自らの身体に限界が近づいているのを、アステリアスはひしひしと感じていた。
だけれどもう今更立ち止まれる筈もなく、立ち止まるつもりもない。
床に転がっていた剣を一つ掴み、引き摺りながら前へ進めば、床の削れる耳障りな音が廊下に響いていた。
暫く進んで行くと、突き当たりには豪奢な両開きの扉がある。
鍵がかかっているのか開こうとしない扉に、アステリアスは手にしていた剣を叩きつけ、無理矢理扉を壊すとそれを乱暴に蹴り倒した。
部屋の中は広く、扉に比べて質素なもので、等間隔に大きな硝子ケースが並んでいる。
一歩一歩確かめるように足を踏み出して、アステリアスはその硝子ケースの中身を眺めた。
ケースの中、神経質な程に丁寧に並べられているのは、美しい宝石達だ。
色とりどりで眩く輝く美しいそれらは、自らの存在を主張するかのように、暗闇の中でも懸命に輝いている。
部屋の奥まで足を向ければ、金の装飾を施された一際豪勢に飾り付けられたケースがあった。
その中に収められた三つの宝石を見たアステリアスの、睫毛の先は震え、指先でそっとそのケースをなぞる。
透き通る青い宝石は、三つ。
大きさがそれぞれ違い、まるでそれは、揃えて作られたもののようだ。
「やあ」
突然背後から呼びかけられ、アステリアスは素早く振り返った。
気配を感じられなかった事、そして、自らが周囲の警戒を怠った事に心中で歯噛みしていると、暗闇の中には誰もおらず、空中にぽっかりと黄金色の目玉だけが浮き出ていた。
楽しげに歪められたそれは、まるで三日月のようだ。
「私はウィリアカーム」
この国の宰相、のようなものだよ。
そう言って彼は低く笑い声を発した。
姿は暗闇の中で見えはしないのに、かつりかつりと靴の音がする。
落ち着き払っているが、縦に長く伸びた瞳孔が、彼の本来の獰猛さを表しているようで、アステリアスは眉を顰め、不快感を露わにしていた。
「此処の宝石は実に美しいだろう」
「宰相様が何の用だ?」
問い掛けに、ウィリアカームの瞳はゆっくりと細められる。
「私と手を組まないか?」
突然の申し出に、アステリアスは表情を変えないまま、頭をほんの少し、傾けた。
胸底が煮えたぎるかのように熱を持ち、騒いでいるのを隠すように。
「君はこの国を滅ぼそうとしているのだろう? 私も今の国主には飽き飽きしているんだ。碌な統治もせず、愚鈍で無能な国民をのさばらせ、惰性で生き、のうのうと暮らしているだけのあのお方に」
「つまり、利害が一致しているから協力しようって事?」
「ああ。私達はきっとより良いパートナーとなれるだろう」
彼の姿が見えていたなら、きっと両手を広げて歓迎の証としていただろう。
けれど、にこりと音が鳴りそうな程の無機質な笑みを浮かべたアステリアスは、言う。
「ファルファロー」
「ミルゴレッタ」
「ヴァングロリア」
この名前に、聞き覚えは?
アステリアスの淡々とした問いかけに、ウィリアカームは静かに瞬きを繰り返し、やがて黄金の瞳はゆっくりと弧を描いていくように細められていく。
「さて? 君の国の方かな? 実に美しい名前だ」
その言葉に、アステリアスの笑みはより一層深く、冷たい温度を保っていた。
彼は知っている。
その名前が何を示すのか。
誰の事を言っているのか。
その証拠に彼の視線は、確かにアステリアスの側にある豪奢な硝子ケースの中へと注がれている。
「そうだよ。お前が此処に並べた宝石達の名前だ」
指先で硝子ケースをなぞり、そう言って胸元に手を当て、眩い光を放ちながら、アステリアスは言葉を続ける。
「お前が後生大事にこんな頑丈なケースに入れて並べた、その美しい宝石達の名前すら、お前は知らないっていうんだな」
手にした白銀の短剣に力を込めれば、硝子ケースは震えるように微かな音を鳴らし、鎮座している宝石達の輝きは、より一層眩くなっていて。
「お前に協力? 俺達の家族を、友人を、仲間達を、奪っていったお前達に?」
アステリアスはこの部屋にある、全ての宝石達の名前を知っている。
それら全ては、魔物達に嬲られ、弄ばれ、引き摺られ、攫われた、白の国の住人達である事を。
彼らが体内に宿した魔石である事を。
「ふざけるのも大概にしろよ、ゴミクズ野郎」
勇猛な姉は戦いに出て、帰って来なかった。
泣き虫で、怖がりな二人の妹達も。
黄金の瞳が歓喜に打ち震えるように見開かれ、部屋の中には嗤い声が響き渡る。
青い宝石達は硝子ケースの中で、身を寄せ合うように並べられ、輝いていた。
***
激しさを増していく音に怯えながら、フィーネは屋敷の中を駆けて、目当ての部屋へと飛び込んだ。
暗闇に満ちた屋敷の中で唯一、まろやかで穏やかな明かりが灯されている場所。メイシアが用意してくれた、魔法で隔絶された部屋。
彼女は午後三時にだけしか現れる事はないけれど、気紛れのように必要なものを置いていてくれる事がある。
屋敷の中で響く、何かを破壊しているような音は一層酷くなる一方で、彼女ならば異変を感じていない筈がない、と考えたからだ。
「メイシア、メイシア? 何処にいる?」
けれど、幾らフィーネが呼びかけても、返答はない。
クエラドも、アステリアスも、自らに優しくしてくれた人達が、次々にいなくなってしまっている。
その事に酷く動揺しているフィーネは、震えが止まらない身体を抱き締めて、視界を揺らがせてしまう。
彼らの存在していた跡が、少しずつ消えていくのを感じている。
このままでいたら、きっと彼らに置いていかれてしまう。
根拠もなくそう感じてどうにか足を踏み出している、フィーネは腕に深く爪を立てて、顔を上げた。
たった少し、ほんの僅かでも構わないから、彼らの痕跡を探さなくては。
皮膚に食い込んだ爪の痛みは、ささやかながらに恐れを緩和してくれる。
荒くなっていた息を整え、部屋の中をくまなく探していると、部屋の隅に小さな紙が落ちている。
恐る恐る触れてみると、手のひらに収まる程のカードのようで、裏を返してみると、其処にはメイシアが教えてくれた、この国の言葉が書かれていた。
辿々しく文字を追いながら、フィーネは呟く。
「しん、あいな……? 親愛なる、私の友人、へ……?」
友人。
その言葉に、フィーネの表情が少しずつ和らいでいく。
彼女がいなければ、フィーネは此処で生きてはこれなかった。
あたたかで清潔なベッドも、美味しい食事も、交わされる会話も、記憶を失い居場所を無くしたフィーネにとって、必要不可欠なものになっていた。
アステリアスは、彼女との関係性を友人ではないかと言っていたけれど、確かに、自我を再形成していく過程の中で感じていた彼女は大切な友人だった。
今までその言葉を、彼女が使う事も、フィーネ自身が使う事もなかったけれど。
視界が波のように揺れ、フィーネは思わずカードを握り締めて胸元へ押しつけた。
メイシアに会ったなら、彼女にちゃんと告げなければ、とフィーネは思う。
貴方は私の大切な友人なのだ、と。
笑みを零せば、背後でごとりと何かが落ちる音がした。
怯えて身体を跳ね上げたフィーネがゆっくりと振り返ると、ベイウインドウの張り出し部分に、白い小さな箱が置かれている。
メイシアの魔法だろうか。
そう思うと、不思議と硬直していた身体は動き出し、自然と足は窓際へと向かっていた。
其処に置かれていたのは、陶器で出来ている、手のひらに収まる程の白い箱だ。
銀で花や蝶などが装飾され、とても美しいそれに触れると、側面に貝を模した小さな留金がついている。
指先で留金を外し、ゆっくりと中を開けると、其処にはベルベットの生地に包まれた黄色の石が収められていた。
「……、宝石?」
暗闇の中だというのに、それは淡く光を放ち、懸命に輝いているかのようで、これは命だ、とフィーネには感じられた。
指先で触れれば、頼りなげな光を放っていて、ほんのりとあたたかい。
そう、これは、命だ。
誰かが確かに生きていた、その証。
私は、これを知っている、と。
フィーネがそう感じた時、目の前がぐらりと揺らぎ、まともに立ってはいられなくなってしまう。
平衡感覚を失った身体は言う事を聞いてはくれず、重くなっていく身体をどうにか這い上がらせようとしたフィーネは、皮膚に爪を立てて抗うけれど、次第に視界が狭まっていく。
崩れ落ちたその身体はぐったりと地面へと沈んでいくけれど、冷たい床の感触は感じられなかった。
誰かが其処にいるのだろうか。
それは、あの宝石の声なのか、それとも他の誰かなのか、意識を手放してしまったフィーネには、もう、わからない。
ただ、その最後に、誰かが呟いた声が聞こえた気がして、いた。
「おやすみなさい、かわいいひと」
どうか、安らかにいて、と。
***
咳き込む度に、喉の奥から熱い血の塊が吐き出される。
息をする度に、肺がへしゃげて潰れてしまいそうだ。
内側は何かがのたうち回っているかのように激しく暴れていて、熱を帯びる身体は、けれど外側だけが酷く冷たく、骨は軋み、指先は震えが止まらない。
床に転がる二つの目玉は、それでも尚、三日月のように歪められていて、アステリアスは苛立ちながら、その目玉を勢いに任せて踏み潰した。
二度と、もう二度と現れぬように。そう何度も何度も踏みつけると、白銀の短剣が手のひらから零れ落ち、光を纏って消えていく。
力を使い過ぎた代償だ。
そもそも、この短剣は自らが扱えるようなものではない、とアステリアスはよく知っている。
汚れのない光の魔力を持った、特別な人間だけが持つ事を許されるもの。
それを、何の力も持たない自らが無理矢理使用している以上、身体が崩壊していくのは、仕方のない事だ、と。
それでも。
声にならない音で呟いて、アステリアスは硝子ケースに拳を叩きつけた。
割れて砕け散った硝子が辺り一面に舞い散って、儚い音を立てて床に落ちていく。
「遅くなって、ごめんな。ちゃんと迎えに来たよ。こんな所にしまわれて、怖かっただろ」
特にファルファローは狭い所が苦手だったもんな、と言って、アステリアスは荒くなっていく息を吐き出し、丁寧に割れた硝子の欠片をどかして、青い宝石へと手を伸ばした。
宝石はほのかにあたたかく、輝きを失う事なく、懸命に光を瞬かせていて。
「もう少しだけ、お前達の力を、貸してくれよ」
この身体はきっともう保たない。
それでも、彼女を守りたいのだ。
この身体、この命、この魂がどれほど砕けたって、構わないから。
鈍く光る宝石達を、真っ赤に染まった両手で握り締めて、アステリアスはもう一度、ごめんな、と呟いていた。
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