第20話 彼女の幸福
うずたかく積み上げられた書籍に囲まれたその部屋の中、気怠げに天井へと顔を向けたメイシアはゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
開け放たれた扉の向こうからは、潮の匂いがする。
腰掛けていたウイングバックチェアから立ち上がり、黒いドレスの裾を直して視線を持ち上げる。
扉の側で鈍い音を立てて何かを放り投げた男は、あの少女が連れてきた時と然程変わらない程に汚れていて、傷だらけだ。
濡れた床には長い髪が散らばり、乱暴に踏み潰された兜はへしゃげている。
男は眼を眇めてメイシアを見ると、ゆっくりと部屋の中へと足を進めた。
見せつけるように片手に握られた短剣に、メイシアは眉を顰めて息を吐き出す。
「其処まで殺気立たなくても、彼女は安全な所に眠らせているわ」
彼女がもうこれ以上傷つかなくて済むように。
どちらに言い聞かせているのかわからずに、メイシアは言う。
きっと彼女はこの惨状を知って酷く心を痛めるだろう。
それが魔物だろうと何だろうと、彼女は内側に受け入れられた場所を傷つけられた時、まともな精神状態ではいられない。
それを彼は知らない筈がないというのに、こうしているというなら、きっと、彼は全てを思い出してしまったのだろう。
歩き出す彼の耳元で、小さな石で出来た耳飾りが揺れている。
白の国では、自らの命が潰えた時、その身体に宿した魔石を眩い宝石に変えるという。
そうしてその宝石は子孫が身につけ、少しずつ彼らの力となっていくのだ、と。
それにしても、と口にして、メイシアは思わず溜息を零した。
彼の着ている裾の長い白の服は、白の国の神官が着ていた衣服によく似ている。
きっとあの鳥女の仕業だ、と思い、メイシアは軽く頭を振った。
「酷い格好ね。折角の新しい服が台無しじゃない」
「この先もう会う事もないだろうから、構わないだろ?」
静かに視線を合わせたメイシアは息を吐き出すと、小さく笑った。
蔑むように悲しむように浮かべた笑みの対象が、どちらなのかはメイシア自身わからないままに。
「全て思い出したのね」
「お前こそ、全てを知っていて彼女を騙していたのか」
騙す。
その言葉に、メイシアは微かに首を傾げて思考を巡らせる。
彼女を騙していたのか、と問われれば、否を唱えただろう。
けれど、全てを知っていたのか、と問われれば、肯定せざるを得ない。
彼女が何者であるのか。そして、彼が何者であるのか。
知っていながら、メイシアは手を差し伸べた。
それがどういう事なのかを、理解していながら。
彼らとは決して同じものにはなれないと知っていたのに。
「ねえ、私と貴方、何が違うと思う?」
問い掛けに、アステリアスは吐き捨てるように、言う。
「魔物と人間。それだけだ」
その事実は、決して覆らない。
だからこそ。メイシアは彼の前から逃げ出す事も、抵抗する事もしない。
「お前は俺達の仲間を殺した。それだけで、お前を殺す理由には十分だろ」
それにしても、と言いながら、アステリアスは額にかかった髪を指先で払って皮肉げに笑った。
「まさか、命乞いをするとは思わなかったな」
「そう見えるのならそれでもいいわ」
そのつもりはない、と言わずに——もしかしたら言えずに——メイシアは自らの両手を見下ろした。
森の中に迷い込んだ神官を見た事が、ある。
虚な目をして、誰かの名前を呼び、終わりを願っていた彼は、メイシアを見て言っていた。
もう終わりにしてしまいたい、と。
それを哀れに思ったからか、彼の身体にある魔石が欲しかったからか、わからないけれど、メイシアは彼に魔法をかけたのだ。
いつまでも夢を見る魔法を。眠るように消えてしまう魔法を。
そうして彼は綺麗な黄色の宝石になった。
彼はその終わりまで、泣きながら感謝を述べていた。
あの少女を気まぐれのように助けたのは、その人間のせいだったのかもしれない。
その彼——宝石は、きっと彼女の助けになると信じて、彼女に託してある。
だって、もう、彼女を助けてあげられる事は出来ないから。
「あの子は私を友人と呼んでくれた。私には、それだけが此処で生きていける全てだった」
「彼女は覚えていないだけだ。お前達が何をしたのかを」
その言葉に、メイシアは悲痛そうに顔を上げてアステリアスを睨みつけた。
彼の言葉は確かに正しい。だけど。
「それでも、あの子がいてくれただけで、私は、」
「黙れ!」
メイシアの言葉を遮るように、アステリアスは叫ぶ。
それは、彼自身がメイシアの言葉に惑わされたくないと言いたげなものだった。
「お前達が幸せを語るなんて。そんな事を絶対に許すわけにはいかない。幸せ? お前達が? あの人をこんな場所に閉じ込めて、苦しめたくせに?」
お前達も、あいつらも、皆、何もかも、あの人を奪って苦しめていたくせに!
そう言って、アステリアスは右手を振り上げてメイシアを叩いた。
勢いで身体は床に転がり、その拍子に、積み上げていた書籍が崩れて落ちていく。
頰が熱を持つかのように腫れていき、じわじわと痛むけれど、メイシアにはそれすらも悲しみには勝らなかった。
そうして見上げた白銀の短剣は、彼女の光によく似ていて。
微かに切っ先は震えているように見える。
一思いにやってくれない方が、余程、辛いでしょうに、とメイシアは嘯いた。
だって、そうでなければ、どちらも救われない。
ゆっくりと呼吸をして、彼女を思う。
何処にも属してこれず、半端者と罵られ、一人きりでいたメイシアにとって、彼女は確かに、自らと同じ、狭間にいるいきものだった。
そんな彼女と過ごした日々は、奇跡のようにしあわせだった。
何も知らない彼女が、少しずつ知識を手に入れ、感情を取り戻し、笑顔を見せてくれるようになった、その喜びを、きっと、魔物達は知らないし、アステリアスとて、知らないかもしれない。
いとけない彼女の笑顔を見ているだけで、此処に居ていいのだと思えていた。
その為なら、何だってすると思えていた。
そう、彼女のしあわせの為なら、この命だって惜しくはない。
それが、彼女を悲しませるとしても。
両手を握り締め、まるで祈るように、メイシアは言う。
「かわいいひと、ずっと願っているわ。どうかしあわせに」
私の、大切なともだちだもの。
そう言ってやわらかに笑みを浮かべた彼女の頭上に、白銀の短剣が振り下ろされる。
真っ赤に濡れた床に、真っ白の肌をした少女は横たわっている。
その顔は、誰よりもやさしくて、誰よりも安らかだ。
アステリアスは肩で息をしながら、その少女が灰になるまで静かに見守っていた。
込み上げてくる全てのものを、吐き出す事は決して出来はしない。
それは、この少女の祈りを汚してしまうのだから。
「……、もう少し、だから」
そうして真っ赤に染まった床の上には、透明な水玉が一つ、落ちていた。
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