第11話 狂人と盲信

 

 愛していたのに、どうして裏切られなければならないの。

 悲鳴を上げる様な声で罵る魔物の女達を、その男は感情を見せる事無く、手にした剣で何度も何度も斬りつけた。

 幾つもの卑しげでしなやかな腕が男の足を掴み、引き摺られ、次第に肉の塊になっていくとしても、男はそれに眼を向ける事はない。

 片目を隠した癖のある黒髪から覗くのは、羊のような角。

 異様に持ち上がった背骨と、血に染められた真っ赤な指先、幾つもの刃物を体中に身につけたその男は、大蛇のように足に巻き付く肉塊にそれらを突き刺し引き摺りながら、ゆっくりと廊下を徘徊している。

 この屋敷にいる魔物は一定のテリトリーを持っていて、その場所から出てくる事は少ないけれど、例外は存在している。

 その内の一人がこの男であり、彼はいつも好みの獲物を言葉巧みに屋敷の中へと誘い出しては、少しずつ慎重に確実に、恐怖と苦痛を与えて追い詰め、嬲り、泣き喚き許しを乞う獲物が、絶望に叩き落とされていく様を楽しむのだ。

 廊下の向こう側に現れたその男を見た瞬間、フィーネはそれまで迷いなく進めていた足を留め、ゆっくりと眼を細めた。

 大量の剣や刀、槍、鋸、斧、鋏……、そういったありとあらゆる刃物が突き刺さる肉塊から一つの剣を引き抜いた男は、吐き気がする程に愉しげに嗤っている。

 痛みは、嫌いだ。

 フィーネは考えて、ざわめく皮膚を落ち着かせるように浅い呼吸を繰り返した。

 この洋館に来てからというもの、フィーネは何度もこの男に傷つけられてきた。

 初めは手のひらに剣を突き刺された。

 その次は右肩。

 その次は左脇腹。

 その次は太腿。

 その次は頰。足首。右耳。鎖骨。

 皮膚に、肉に、骨を削ぐように食い込んでいく、その刃の冷たく硬質な感触を思い出すだけで、フィーネは胸底が煮え滾るような、それでいて芯が冷え切ってしまうような不快な気持ちに、なる。

 自分自身に此処まで激しい感情があったのだ、と思い知らされたのは、この男と出会ってからだ。

 後ろにいるアステリアスを庇うように前に立ち、フィーネは男を睨みつける。

 その行為すら男には面白みを感じる事があったのか、酷く愉しげに嗤っている。


「フィーネ。フィーネ、か。随分と皮肉な名をつけられたものだな」

「……、オブリクア」


 名前を呼ぶ事さえ穢らわしい、と言わんばかりのフィーネに対し、彼は昏い笑みを浮かべている。

 何故フィーネと名付けられたのかを彼が知っているのかは甚だ疑問だが、ミストポルカが全てを知っているように、彼等は彼等なりのネットワークがあるのだろう。

 腐った肉の匂いと錆びた鉄のような刺激臭が辺りに立ち込め、それから、肉塊に成り果てた何かから、恨みつらみを帯びた呻き声が聞こえている。


「終わり。最果て。終焉。停止。終局。絶命。結末。終止。終幕……、さあて、どうした意味合いでつけられた名なのかな」

「貴様には関係ない」


 吐き捨てるように言うけれど、オブリクアはその笑みを消す事はない。

 自分一人ならばどうなろうと構わないが、今はアステリアスがいる。

 フィーネは考えて、慎重にオブリクアとの距離を広げようと足を引いた。

 けれど。


「なあ、あんた、武器の蒐集家か何かかい?」


 見た事もない武器だ、凄いなあ、などと呑気に近づくアステリアスに、フィーネは大きく眼を瞬かせた。

 辺りに充満する腐敗した匂いにも、足下で蠢いている肉の塊にも、未だ乾かず血の滴る刃物にも、彼は一切気にも留めず、オブリクアに話しかけているのだ。

 それはあまりにも異様な光景で、フィーネは思わず顔を歪めて息を止めてしまう程だった。

 オブリクアは愉しげに浮かべていた表情を削ぎ落とすように笑みを消し、眼を眇めてアステリアスを見つめている。

 フィーネは慌ててアステリアスの腕を引き、彼とオブリクアの間へと身体を滑り込ませた。

 一体彼が何を考えているのか、理解出来ない。

 自分と居る事で安心しきっているのかもしれないが、オブリクアは今まで会った魔物達とは違い、魔物らしい魔物と呼べる男だ。

 他者の痛みを喜びとし、苦痛で歪んだ表情を愉しめる、非情で醜悪な精神を持っている。

 けれど、アステリアスは不思議そうに頭を傾け、困ったように笑みを浮かべるばかりだ。

 戸惑いに指先が震え、唇を噛み締めていると、羊にも似た横に伸びた瞳孔でアステリアスをつまらなそうに見たオブリクアは、舌打ちを一つ、零している。


「“それ“は楽しめそうにないものだ。お前の方が余程良い顔をする」


 肉塊から引き抜いた剣を向けられ、激しい怒りで殴りつけてしまいたくなる衝動を、深く長く息をする事で抑え込んだ、フィーネはアステリアスを庇いながら、彼を睨みつけた。

 自分自身に興味を向けられるのならばそれでいい。

 フィーネがアステリアスを逃そうと彼に声をかけようとすると、何故かオブリクアは背を向けて歩き出してしまっていた。


「それ程大事だと言うのなら、後生大事にしているあの短剣でもくれてやったらどうだ?」

「短剣?」


 オブリクアの言葉に、アステリアスが不思議そうにそう呟いた。

 彼は何も知らない。

 それを見透かした上で言葉を発するオブリクアに、フィーネは一層強く手を握り締めた。

 爪が皮膚に食い込み、鋭い痛みを齎しても尚、強く。


「……、言われなくとも」



 ***



「フィーネ。なあ、どうしたんだ?」


 オブリクアが消えた後、先にある扉を開け、更に続く廊下を歩きながら、フィーネはアステリアスの声に耳を傾ける。

 けれど、決して言葉を返す事はない。

 彼は魔物達がいようといまいと、声に変化を齎す事はない。

 それはとても健やかで、とても異常な事のように思える。


「なあ、フィーネ、怒ってるのか? 悪かったよ。もうしない。だから、こっちを見てくれよ。頼むから」


 まるで幼い子供のように懸命に謝り、名前を呼ぶアステリアスに、フィーネは立ち止まり、小さく息を吐き出した。

 フィーネよりも年上の筈なのに、眉を下げて困り果てたと言わんばかりの表情をアステリアスは浮かべている。

 情けないその顔に、フィーネはすっかり絆されてしまって小さく笑みを浮かべると、緩やかに頭を振った。


「アステリアス。あの男は本来、誰彼構わず危害を加えてくる。今回は偶々運が良かったが、あのように私の目の前に出てはいけない」


 その言葉に、アステリアスは意味を噛み砕けないらしい、腕を組み、暫く考え込むと、は、と何かを思いついたように顔を上げた。


「ごめん。心配をしてくれたんだな」


 そうも素直に謝られてしまえば、フィーネもそれ以上の非難は出来かねた。

 納得したように小さく何度も頷いて息を吐き出せば、もう彼は無邪気に笑っている。

 何故、彼が突然魔物達を怖がらなくなったのかは、解らない。

 どうしてそんなにも、穏やかで健やかでいられているのか、も。

 それはとても正しい事の筈なのに、どうしようもなく不安に駆られてしまう。

 けれど、彼に危害を加えられるのだけは、どうしても許せなかったのだ。

 それも、あんな風に、まるで自分を盾にするように、目の前に出てくるなんて。

 お願いだから、もうこれ以上、自分を犠牲にするような真似をしないで欲しい。

 そう言ってしまいそうな己が、まるで自分自身ではないかのようで、フィーネは俯いて、唇を噛み締めた。

 自分自身を証明する事すら出来ない自分が、歯痒くて、もどかしい。


「俺は大丈夫だよ。フィーネが一緒に居てくれるから」


 酷く優しい声でそう言ったアステリアスは、伸ばした指先でそっと頭を撫でてくれている。

 フィーネにとって、彼は初めて出会った唯一の同胞であり、今まで与えられる事の無かったあたたかさや優しさを呆気ない程に簡単に差し出して与えてくれる。

 だから、彼が傷ついてしまうのを恐れてしまうのだろうか。

 わからなくて、フィーネは胸に両手を当てて、俯いた。

 深く長く呼吸を繰り返し、瞼を閉じると、胸の奥底からあたたかい光が溢れてくる。

 薄暗い筈の廊下で、二人の周囲だけが眩い光に包まれるようで。

 アステリアスが息を呑む音がして瞼を開けば、フィーネの両手には短剣が一つ、握られている。


「……、これを、貴方に」


 金の装飾が施された白い鞘に包まれた短剣は、この場所に連れて来られる以前から、フィーネの身の内にあったものだ。

 自らの一部とも言える程に馴染むそれだけが、記憶を無くしたフィーネにとって自己を証明する唯一のものだった。


「この短剣には光の力が込められている。きっと、貴方の事を、守ってくれる」


 そう言うと、フィーネは彼に短剣を差し出した。

 これを手にしていれば、彼に害が及ぶ事はないだろう。

 オブリクアの言葉に従うようで些か腹立たしいけれど、と考えて、フィーネは彼を見た。

 彼は眼を見開いたまま短剣を見つめると、震える喉で吐息を零して、いて。

 時が止まったような彼の表情に、不安になったフィーネが言葉を発しようと口を開くと、突然、身体を引き寄せられた。

 フィーネが驚いて身を竦めると、しっかりと抱き締められる。

 ゆっくりと力を込める彼の腕が、自分と彼の境目を曖昧にしていくようで、目眩がしてしまいそうだ、とフィーネは思い、そして、何故か胸の奥底から急激に押し寄せてくるような不安から、慌てて彼の名前を呼んだ。


「……、アステリアス?」

「ありがとう。大切にするよ」


 もう絶対に、手放したりはしない、と。

 彼が呟いた言葉に、ありもしない既視感を覚えながら、フィーネは静かに目蓋を閉じていた。

 彼の身体から伝わる体温は、ゆっくりとフィーネの身体へと浸透している。

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