第2話 狭間の蝙蝠
「信じられない。とても信じられないわ!」
形の良い眉を跳ね上げた彼女は、まるで言い聞かせるようにそう言った。
質の良い革を使用したウイングバックチェアに流れる、緩く巻かれたストロベリーブロンドの長い髪は、生意気そうなベビーフェイスによく似合っていて、長い睫毛に縁取られた黄金色の瞳は気怠げに少女——正しくは、少女の引き摺っている大きな布袋の様なものだが——を横目で見ては、大袈裟に溜息を吐き出している。
部屋の中は銀の燭台に灯された明かりのお陰でこの国の何処よりも明るく感じられるけれど、置かれてあるのは彼女の座るチェアと、こっくりとした色のアンティークのテーブルセットだけだ。
細やかなレースやリボンで飾り付けられた漆黒のミニドレスを身につけている彼女は、不満げに眉を顰めて側に置かれた真白のティーカップを持ち上げている。
その背中には蝙蝠のような小さな羽があるけれど、それ以外は人間と違いは無い。
魔物にしては魔物らしくなく、人としても人らしくもない、その中途半端な容姿から、彼女は何処にも属してはこれなかった。
属してこなかった、のではなく、属してこれなかった、のだ。
孤独が故に、拾い集めた書物に依って詰め込んできた膨大な知識と、それに伴う魔法の力だけで、彼女はこの屋敷に住めるだけの権利を与えられた。
だからこそ、彼女は誰にも従わず、誰にも靡かない。
けれど、白銀の髪の少女が此処で生きて来れたのは、間違いなく彼女のお陰である。
午後三時にしか現れない、彼女はメイシアという名の魔物だ。
普段は書庫室と呼ばれる膨大な書籍で埋まった大きな部屋に入り浸っていて、午後三時の間だけ、紅茶を飲む為にこの場所に現れるのである。
人の暮らしや生態についても知識として知っている彼女は、此処へ連れてこられた少女に興味を持つと、衣食住に必要なものは元より、フリルやレースがふんだんにつけられたワンピースや細やかな装飾のついた花の髪飾り、しっかりとしたヒールの靴、清潔で柔らかなベッドを覆うような天蓋、花の蕾の様な形をしたティーカップまで与えたのだ。
どれもが白で統一されているのは、彼女の趣味でもある。
その白いワンピースや揃いの靴が泥や森の枝葉で汚れている事も、メイシアの機嫌を損ねる原因の一つでもあるけれど、それを少女は知る由もない。
少女が森で『それ』を拾ってきた事、手当をしたい事、此処で休ませたい事を伝えると、彼女は苛立ちを隠す事無く顔を歪め、直ぐ様首を振った。
「馬鹿を言わないで。そんな汚いものを此処に連れてくるなんて、何を考えているの?」
「しかし、安心して休めるのは此処だけだ」
この部屋の中だけは、彼女以外の魔物は絶対に入ってこない。それは、彼女がこの部屋に魔法をかけているからだ。
本で読んだのよ、人間には『睡眠』というものが必要なのでしょう、だから、此処は誰も入れないように魔法をかけてあげるわ!
そう言った彼女の誇らしげで楽しそうな顔を、少女は今でもはっきりと思い出せる。
メイシア、頼む、と少女が懇願するのも、普段ならば全く感情を表す事のない少女がこうしたとばかり悲しげな顔をするのも、メイシアの前だけであり、彼女もそれを自負している。
少女がここまで心を許すのは、此処で世話をしてきた自分だけなのだ、と。
だからこそ、メイシアは少女が連れてきたその人間を、易々と受け入れるのは憚れた。——けれど。
「……、此処には埃一つ入れないよう、綺麗にしてきて頂戴」
この少女の面倒を見ている内に、いつの間にこんなにも情が湧いてしまったのは何故なのか……、解らないけれど、メイシアは彼女のそうした表情を見るのを酷く嫌った。
妥協案としてそう伝えた内容に、少女はいつもの無表情よりほんの僅かに柔らかな表情をするので、メイシアは心の内だけでそっと胸を撫で下ろす。
「あの魔女か鳥女にでも頼めば良いわ。どうせ暇を持て余しているもの」
ついでに服も貰ってくれば、と言えば、すんなりと彼女は頷いていて。
「成程。メイシアは矢張り頼りになる」
嬉しそうにそう言うと、音を立てずに少女は部屋を出ていった。
部屋の中はしんと静まり返り、メイシアは入り口の側に置かれた、汚れた布の塊を見て眉を顰めた。
厚いヒールの爪先を床に三度当てると、大きな布の塊から、ゆっくりと中身が露わになる。
薄汚い布に巻かれていたのは、赤髪の青年——人間のようだった。
少女よりも少し上の年齢だろうか。
体つきは細身だが、逞しく鍛えられた身体にぼろぼろになった服、傷ついた手足と、耳には幾つもの宝石で作られた耳飾りがついている。
その耳飾りは隣国であるキリシェの人間達が身につけるものだ、と以前何かの本で見た知識をメイシアは思い出し、深く長く、肺の中に溜め込んだ息を全て押し出すように吐き出した。
「……、始まらないのなら、いつまでも終わりはしないのに」
いつだって此方が裏切られるのね、と、彼女は両手で顔を覆って項垂れた。
こんな真似をしたって、涙ひとつ零れないのに、と口内で呟きを転がしながら。
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