夜の国と白銀少女

七狗

第1話 夜の国と白銀少女

濡れた緑のくすんだ香りが強く漂う、光が届かない程の暗闇に覆われた森の奥深く。

 晦冥した世界に佇む大きな洋館は、竜の鱗を思わせる様な黒いタイル張りの外壁と、時を経て銅板がくすんだ緑色に変化している急勾配の屋根が印象的で、二階には円柱を挟んだアーチ型のバルコニーがあり、背の低い欄干が取り付けられている。

 大きな窓枠には細やかな装飾がなされ、中は深淵より深い暗闇に満ちていて、窺う事すら叶わない。

 洋館は背の高い門で森と隔たれていて、微かに淡い緑色の灯火だけが入り口をぼんやりと照らし、鈍色の甲冑を着た兵士が背丈と変わらぬ程の大きな戦斧を持ちながら、ゆっくりと辺りを警戒している。

 狼のような黒い毛皮の獣が時折近づくのを、その厳つい兜の隙間から見える、炎を思わせる鋭い眼光で睨みつけて追い払うが、この屋敷を訪れるのはいつもその程度だ。

 陽の光を拒む魔物達が暮らすこの国——ナァヴは、全体を黒い森に覆われていて、あちこちから獣の唸り声や甲高い嗤い声、金属音が響き、得体の知れない大きな何かが蠢き引き摺る音が聞こえ、立ち込めている空気は湿気を帯び、常に空気が淀んでいる。

 普通の人間であれば正気を保つ事すら難しく、数時間も居れば狂気に呑み込まれてしまう。

 そもそも、彼等は類稀なる身体能力を有しているけれど、その見た目は機械や鎧、植物や動物の角や腕などの身体的な特徴を持っている為か、人々に恐れられ、森のすぐ側ですら、近づく者はいないけれども。

 国と呼ばれてはいるが、実態は国主である男が全ての魔物達を御する事が出来る、というだけで、彼は政を行う事も無く、統治を行う事も無い。

 また、数年前から隣国であるキリシェと争いを続けているが、互いに拮抗を保ったまま決着がつかず、今では冷戦状態を保ったままだ。

 それでも、門番である兵士は大変生真面目な性格な男で、熱心に辺りを警戒しながら見回り、周囲が安全である事を確認すると、満足げに静かに一人頷いていた。

 森の中には数えきれない程の魔物達が蠢き、めいめい思うままに暮らしてはいるが、屋敷にはその魔物達が恐れ慄く程の強さや賢さを持った、十の魔物が住んでいる。

 兵士はその中の頂点である国主に命じられ、門番となり、その役目に誇りを持っていた。

 単純な強さだけで与えられる役目ではない。本能で動くだけの粗暴な魔物達の中でも、国主たる男を崇拝し、彼を守るという使命に誇りを持った者達から選ばれる、大変名誉な事なのだ。

 だからこそ、男はその役目を日々確実に正確に行なっていた。

 けれど、ここ最近は、それを脅かす存在が現れたのである。何かを引き摺る音が木々の隙間から門の方へ近づいてくると、男の顔は鉄で出来ている兜だというのに、苦々しい雰囲気を纏っていた。

 朧げな緑色の灯りに照らされたのは、その薄暗さでさえ眩く輝く白銀色の長い髪をした人間の少女で、穢れを知らずにいると言外に言っているかのような真白の服を着ているというのに、中身の無い鎧姿で動く門番を見たとて悲鳴一つ上げる事も無く、彼の姿に目を背けることも無い。

 彼女は透き通る程の澄んだ青の眼で彼を確認すると、疲れたように小さく息を吐き、先程まで引き摺っていたものを持ち直した。泥や枝葉で汚れた、薄汚い布の塊のような『それ』を見た門番は、益々兜でしかない顔をがちゃがちゃと鳴らしながら、不快感を露わにする。

 それでも彼女は意にも返さず、『それ』を門へと近づかせるので、門番は手にした戦斧に力を込めた。


「待て。何だ、其れは」


 問い掛けに、少女は薄暗く澱んだ空気の漂うこの場に於いても、凛とした響きを以て答える。


「拾った。門を開けてくれ、ギヤン」


 ギヤン、と呼ばれた門番は、数ヶ月前に此処に来たこの少女の事を酷く苦手にしていた。それもそうだ、彼女はこの国にいながら、何故か気が狂う事の無い、唯一の人間である。その少女を連れてきたのが、ギヤンを門番へと任命した国主たる男である事も、彼女を快く思わないでいる一つの理由でもあるのだろうけれども。

 ギヤンは兜を左右に振り、彼女の前に立ちはだかると、改めて彼女の真っ直ぐな瞳を見つめた。彼女からは眼球に当たる部分が煌々と炎が灯っているだけの鎧が話しているというだけ、なのかもしれないが、ギヤンにとっては屋敷に危険を及ばす全てを、自らが跳ね除けねばならない使命がある。


「馬鹿を言うな。そのような事をあの方が許すものか」

「私が説得する。だから、門を開けてくれ」


 幾らギヤンが拒もうと、彼女は全く引く気はないらしい、そもそもその手が掴んでいるものは、ギヤンの気の所為でなければ、『何かしらの生き物』だ。

 それをその細腕で運んできた事は素直に感心するけれど、これ以上この屋敷に危険なものを近づけるわけにはいかない。

 そう、この国にまたしても異分子が! それも、この屋敷に入れるだなんて!

 押し問答を繰り返していると、門の奥、屋敷の大きな扉を開けた音が辺りに響く。

 軋んだ音を立てるのは、大きな鎧姿の男だ。その体躯はギヤンより遥かに大きく、黒い鋼で出来た大きな角を生やし、その手足は大きな爪のように鋭く尖っている。

 兜の間から見える青く光る二つの眼が向けられるだけで、ギヤンの鎧は奥底から震えが湧き上がるようで、慌てて深く頭を下げた。

 中身は空洞である筈の鎧の体でさえ、内側から恐怖心が湧き上がり、震えが止まらない。

 男が肩に掛けた黒い外套を靡かせる、その動作一つでギヤンの身体は更に大きく震え、微かな金属音をその場に響かせている。

 少女は何を気にする事も無く、ただ男の視線を真っ直ぐに受け止めていて、その様を見た国主は金属が拉げ軋むような声で、少女に問いかけた。


「何を、している」

「拾った。中に入れて欲しい」


 少女は戸惑い一つ見せず、平然と男に答える。

 ギヤンには到底信じられない事ではあるが、彼女にとって、男は畏怖すべき存在ではないのだ。

 男は彼女を庇護下に置いているわけではないというのに、何故此処まで対等に話せるのか。

 理解出来ずにギヤンは頭を下げたまま、彼等のやり取りをただただ聞いていた。


「お前には、何も望まない。望まれる事も、ない。憐れむとも、何も、変わらぬ」


 言葉を苦しげに押し出すような、妙に声が途切れながらも話す男の言葉に、少女は唇を引き締めて、俯いた。彼女にそうした言葉をかけるのなら、何故此処に、この屋敷に住まわせているのだろう、とギヤンは思うけれど、決して口にはしない。

 男の言葉をそのまま噛み砕くならば、少女は此処に居ても居なくても構わない存在だ、と言っているようなものだ。

 事実、彼女は屋敷の中に居る魔物達に傷付けられる事も少なくはない。

 けれど、男は彼女を助ける事はない。

 彼女が男に助けを求める事もない。

 歪で、異常で、奇妙な関係。

 それが、正しい見解だろう。

 彼女は緩やかに瞬きを繰り返して彼を見つめ返したまま動く事はなく、男もまた、彼女を見つめたまま動きはしなかった。

 何て恐ろしいのだろう、とギヤンは密やかに思う。

 魔物達を統べる国主は畏怖すらすれ、敬愛するべき方だ、しかし、彼女は明らかに違う。

 あまりにも異質。

 あまりにも異端。

 何故此処まで彼女は眩く、暗闇に染まる事もなく、ありのままでいられるのか。

 男が少女から視線を外し、屋敷の中へと足を向けるけれど、扉は開け放たれたままだ。

 それが、彼女の要求を彼が許した事の証拠なのだろう。ギヤンは漸く緊張感から解き放たれ、がくりと膝を下ろし、そして鎧を軋ませながらも、再び職務を全うする為に、よろよろと立ち上がっていた。


「ギヤン、すまない。感謝する」

「あの方が許したのなら、俺も何も言うつもりはない」


 再び感情を消した彼女がギヤンに向き直ってそう言うけれど、ギヤンには恐怖から逃れた安堵感でどうでも良くなってしまっていた。

 溜息混じりに重々しい金属の門を開いたギヤンは、早く入れ、と彼女を中へと招き入れた。

 少女は小さく頷くと、再び屋敷へと『何か』を引き摺りながら運んでいく。

 屋敷の中から無数の視線を感じながら、彼女がゆっくりと屋敷の中へ入るのを見届けたギヤンは、少女を見つめていたのだろう彼等へと頭を下げた。

 彼女はこの国に住む、たったひとりの人間だ。

 その身に溢れんばかりの光を内包し、暗闇に包まれる狂気の森の中で、正気を保っていられる、唯一の。


「……、気味の悪い娘だ」


 誰にも聞かれる事のない様に小さく鎧の中だけで呟くと、ギヤンは門を静かに閉じた。

 森の木々は屋敷を覆うかのように、ゆっくりと、その枝葉を震わせている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る