十四 記念日
僕が勤める定時制高校には食堂があり、僕はそこで教え子たちと一緒に夕食をとる。給食の時間は第二校時が終わる午後七時から三十分間しかないので、七十人ほどの若者たちの食事風景はあまりのんびりとしたものではない。今日の献立は、散らし寿司、魚の
昔は生徒全員が食べていたが、現在は希望者のみとなった。希望者は一食三百四十円の給食を週初めに予約する。教師も生徒と一緒に食べる。
「先生、一緒していい?」
「昨日、ヨシちゃんから電話もらったよ。卒業のお祝いをしてくれるって」
卒業式は七日後だ。
「卒業した後も家に遊びに来てって、ヨシちゃん言ってくれたけど」
綾は探るような眼で僕を見た。
「毎日来てくれていいぞ。家事育児の手伝いがいないとうちも困る」
綾は
「あっ、あの曲だわ」
卒業式間近になると、食堂では毎晩『見上げてごらん夜の星を』を流す。
「仕事が終わった帰りに学校の前を通ったら、生徒たちの歌声が聴こえてきたの。空を見上げると満天の星だった。星がすごく綺麗で心が軽くなった気がして、私、この学校でもう一度勉強しようって決めた」
歌声の流れの中に立ち星を見上げる若い女性の姿を僕は思い描いてみた。人は星空の中に
「この曲を歌っていた歌手の人、飛行機事故で亡くなったんですってね」
「うん」
『見上げてごらん夜の星を』を歌った
誰かが曲に合わせて歌い出した。
……見上げてごらん夜の星を
生徒たちは箸を置いて歌い始めた。僕も、綾も歌った。
……ぼくらのように名もない星が、ささやかな幸せを祈ってる。
「人は亡くなると星になるんだわ、きっと」
歌い終わると目を潤ませた綾はそう呟いて上を向いた。
食堂での綾の言葉が気になり、僕は帰宅後、美子にきいた。
「綾の両親、綾が
綾は父方の叔父夫婦に引き取られ実の娘同様に育てられた。十七歳の時、高校を中退して上京したという。退学や上京の事情は聞いてもいないし訊くつもりもない、と美子は言った。
「綾は何故あの歌が好きなんだろう」
美子は綾が入学を決めた星空のエピソードを話した。
「それは本人から聞いた」
「それ以外に綾があの歌を好きな理由なんてないと思うわ」
僕は自分が何を知りたいのか巧く説明できず口をつぐんだ。
夜間部卒業生総代に僕は重原綾を推薦した。
「彼女、
同僚の女教師がそう言って笑った。
「それも好いかもしれない。彼女が大泣きしたら、みんなで貰い泣きしよう」
教頭も笑った。
教頭は毎日朝早く出勤する。にも拘わらず、週に少なくとも三日は終業時刻まで夜間部に付き合う。自分も大学は夜学だったから夜の学校の方が
「実は昨日、重原さんと話したんだ」
職員会議の後、教頭が僕の傍に椅子を持って来て座った。
「彼女、通信制の大学に進学するんだって? 教師になりたいと言っていた」
綾をN大の通信教育課程に推薦したのは僕だ。N大は僕の母校で、そこの教授や校友会のお偉方を僕は何人も知っている。学費免除試験も受けさせた。合格している。
「私も夜学に通って教師になったんだと言ったら、いろいろ訊かれてさ。彼女聞き上手だね。あまり人に聴かせたことのない昔の話を三十分もしてしまった」
「どんな話をしたんですか?」
「先生も聴いてくれるかい?」
僕が頷くと教頭は
教頭が二十歳の頃、乗客乗員合わせて五百二十人が亡くなるという大きな航空事故があった。当時空挺部隊の隊員だった教頭は山中の墜落現場にヘリコプターから降下し仲間とともに被災者の救助にあたった。
「惨状という言葉の意味がはっきりと解ったよ。地獄という言葉の意味もね」
……当事者じゃなくても死は痛みだ。ただ、畳の上でむかえるような穏やかな死なら、その穏やかさが残された者の痛みを多少和らげてくれる。あの現場には痛みを和らげてくれるクッションは何もなかった。猛烈なパンチを続けざまにくらってボコボコにされたような痛みを私は感じた。泣き叫びたい衝動を抑えながら、私たちはご遺体を
教頭は潤んだ目を僕から隠すように頭を下に向けた。
「私が隊を辞めたのは、その事故の半年後だ」
「何故、教師になろうと思ったんですか?」
「夢を見たんだ。事故の現場で不思議な夢を見た」
隊員たちは山中の各所に分散して
「地面に座って泣いている幼い子供を、
教頭は呟くように言った。
「重原さんが今日、その夢の解釈をしてくれたよ」
……大人たちは泣いている子に何かを教えているのかもしれませんね……
「目から
同じ構図の夢を僕も見たことがある。二十代の頃だと思う。
床に座って泣いている幼い子供を車座になった縫いぐるみたちが囲んでいる。プーさん、ピングー、ミッキーマウス、スヌーピー、ムーミン、ミフィー、そして、パピプペンギン。パピプペンギンは昔、ビールのコマーシャルに使われていたキャラクターだ。僕の夢の中ではパピプペンギンが松田聖子の『スウィートメモリーズ』を歌っていた。『スウィートメモリーズ』は僕が好きだった曲だから、輪の中心で泣いている子供は僕自身かもしれない。縫いぐるみたちは僕に何を教えていたんだろう。
「先生は何で教師になったの?」
教頭の質問に僕は
大学で映画制作を専攻した僕は、卒業後フリーの助監督になった。しかし僕はわずか二年ほどでその仕事を辞めた。父が亡くなったのだ。経営していた織物会社が倒産した半年後だった。フリーの助監督の不安定な収入では独り暮らしさえままならない。弟は父の会社が倒産した一か月後に大学を中退し、田舎で就職している。借金の返済と母の面倒を弟に任せたまま
大学在学中、親の命令で無理矢理とらされた教員免許のおかげで僕は今の仕事に就くことができた。
教師になったのは生活のためで本当は映画の仕事を続けたかったのだと、昔の仲間の前で見栄をはったことが何度かある。でも、生活のため以外にも教師になろうとした理由があったような気がする。
「教頭先生と同じような理由だったかもしれません」
僕は顔を上げて答えた。
教頭は何も言わず僕の目の奥を見た。
全日制との合同卒業式で、
美子は夜間部の卒業式に綾の家族代理として出席した。美子に抱っこされていた隼人は
夜間部の学生はほとんどが社会人で、中にはかなり年配の生徒もいる。もちろん制服はない。卒業生のほとんどがスーツ姿だった。振袖を着た女性も何人かいた。平日だったので、仕事を終えて先輩たちの卒業式に駆けつけた在校生はみな普段着のままだった。
ずいぶん前から全日制との合同卒業式では『仰げば尊し』も『蛍の光』も歌わなくなっていた。しかし、夜間部の卒業式では歌う。何らかの事情があって昼間の高校に通えなかった学生にとって、卒業式はただの儀式ではない。夜学の卒業生にとって、『仰げば尊し』も『蛍の光』も彼らが勝ち得た卒業証書と同等の重みをもつ。
誰かがピアノで『見上げてごらん夜の星を』を弾き始めた。ピアノに合わせ、卒業生も在校生も教員も、みな歌った。
僕らの歌声を聴き満天の星空を見上げる若者がいたかもしれない。
卒業式の翌日、我が家で綾の卒業祝いをした。
「凄いご馳走だ。美子さんも綾さんも料理の腕をあげたね。まるでプロの
昼過ぎにやって来た青木は座卓の上に所狭しと並んだ料理を眺めわざとらしく感心
「先生、皮肉を言わないでよ。トトのマスターが勝手に作って持ってきちゃったのよ」
話を聞きつけたトトのマスターが、綾の卒業祝いの料理は一品残らず自分に任せろと、昨日の夜遅く電話を寄越したのだ。
「卒業式の時期は忙しいでしょうに。明日、私、店のお手伝いに行くわ」
綾が済まなそうな顔をする。
美子も綾もトトの常連だった。カウンターに座って陽気に話す二人をマスターは気に入っていて、コーヒーしか注文しないのに、二人の前にはいつも山盛りのビスコッティが置いてあった。
これがインサラータ、これがカッサータと、料理の
「富山のお父さんとお母さんよ」
美子が綾に受話器を渡すと、聴き手を失った青木は蘊蓄話をやめた。
……卒業おめでとう。仕送りありがとね。あんたのおかげで父ちゃんも私もまめで暮らいとるちゃ……
綾の叔母の声が受話器からもれて聴こえた。泣き声だ。
「仕送り?」
僕が青木に顔を向け小声で言うと、彼は小さく頷いた。綾もカウンセリングルームの常連だった。青木は綾の事情を一番よく知っている。綾が受給していた奨学金の保証人も青木だ。
……父ちゃんは泣いとるさかい電話にでられんちゃ……
……泣いてなんかおらん。早く電話かわれ……
「父ちゃん何言っとるのかわからんちゃ」
綾は電話を切るまで笑い通しだった。美子がそばにいて、泣き笑いする綾の涙をティッシュで拭いていた。
「卒業おめでとう」
青木が持参したワインで、四人は乾杯をした。
「ありがとう。ハヤちゃんもね」
リビングの奥でお座りしている隼人に綾が言うと、隼人はキャッキャと笑った。
「本当の両親のこと、全然おぼえていないの。赤ん坊だったから」
両親は九十四年の飛行機事故で亡くなったのだと綾は言った。
「九十四?」
青木は僕に顔を向けた。
「お前の夢によく出てくる数字だよな」
青木は僕の夢に出てくる数字を全て記録していた。
……九十四年、何年前だろう。
「ねえ、ヨシちゃん、ハヤちゃんが歩こうとしているわ」
「えっ」
隼人が二本足で立っていた。
「はやタン、こっちにおいで」
僕は美子の隣でカメラを構えた。
隼人が一歩あるいた。
「はやタン、えらい」
美子が拍手をした。
隼人の記念日を、僕は全て憶えている。妊娠がわかった日、名前を決めた日、生まれた日、初めて声を出して笑った日、涙を流して泣いた日、ご飯を食べた日。僕は忘れない。
記念日は祈りの日だ。過去に感謝し未来の幸せを想って祈る日だろうと僕は思う。
今日は隼人が初めて歩いた記念日になる。
隼人が二歩あるいた。一歩あるく度に皆が歓声をあげて拍手をする。
「がんばれ」
僕は自分自身を励ますように、声を出さずに言った。
三歩、四歩、五歩、隼人の笑顔がカメラに迫る。僕は心底から笑っている自分に気づいた。何の戸惑いもなく笑っている自分に気づいた。
カメラにぶつかる寸前、美子は隼人を抱きとめた。
「ねえカメラマンさん、そんな涙目でちゃんと撮れているの?」
「えっ?」
美子が僕の涙を拭いた。
記憶が、
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