十  歯磨き      2017年10月

 下前歯二本の生え始めを確認したのは昨年十月だった。

 育児書とネットの動画を参考にイメージトレーニングをしたうえで、僕は隼人の歯磨きを開始した。ミルクや離乳食の後、抱っこして湿らせたガーゼを使い拭くように磨く。

「本当に器用ね」

 美子が感心する。

「父タンは貧乏だから自分で何もかもしなくちゃいけなくて器用になっちゃったんだよね」

「違う。何回も言ったけど、器用だから貧乏なんだ」

 歯を磨いている間、隼人は泣かない。やはり僕は金持ちには成れないなと思った。

 歯磨きが終わると隼人は僕の膝から降りようとする。床に下ろすと、ハイハイで母親のもとに向かう。

 隼人がハイハイを覚えた頃から、フローリングは乾拭きをするだけで、ワックスはかけていない。掃除機で何度も掃除する。床に敷くラグを洗うため洗濯機は大型に買い替えた。衣類乾燥機も買った。電気代は大人三人分になった。ダニ対策も必須だ。布製品は高温で乾燥機にかける。床が汚れると嫌だと言って、美子は一日二回、靴下の洗濯をする。環境を清潔にし過ぎると子供の免疫力が弱くなるから、あまり神経質になるなと佳子さんにアドバイスされた。

 隼人はハイハイで美子の後追いをした。僕の後追いはしてくれなかった。

 美子が視界から消えると、すぐに泣き出す。僕が視界から消えても泣かない。

「バー」や「ダー」のように母音が「あ」に近い濁音を発し始めたのは九月頃だった。

 十月の初めには、美子に顔を向けて「マー」という声を出した。美子は歓喜した。

 僕を呼ぶときは「ダー」という声をだす。隼人の「ダー」は命令に近い。「速く来い」か「抱っこしろ」である。

 歯磨きの気配を察すると、隼人はハイハイをして部屋の隅に行く。そして「ダー」と僕を呼んだ。

 十二月には上の前歯二本が生えた。

「ダー」の発音は明瞭になり、さらにそれは二音節の「ダダ」にバージョンアップした。

 ただ、ママは? ときくと、隼人は美子を見るが、ダダは? ときいても、隼人は知らんふりだった。美子は「ママは?」と言っては隼人を振り向かせ、僕に向かって得意げな顔をした。

 美子は五種類の赤ちゃん用歯ブラシを買った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る