八  親ばか      2017年 7月

 生後百十一日目に隼人は声をあげて笑った。「あはっ」と笑った。

 涙がとめどなく流れた。

「どうしたの? 泣いてる」

「隼人が笑った」

「前から笑ってるじゃないの」

「声を出して笑った」

 美子はヨーランの中の隼人に微笑みかけた。

 キャッキャッと声を出して隼人が笑った。

「ほんとだ。笑い声が可愛いね。はははっ。父タンは泣いてるけど、ハヤタンはママタンと一緒にいっぱい笑おうね」

 美子と隼人が一緒に笑った。

「はははっ、ほんといやされるって感じ」

 癒される? 許されるって感じかなと、ふと思った。

 隼人が涙を流して泣いたのは生後百二十日目だった。

 大粒の涙を流して悲しそうに泣いた。

「かなしかったの? 独りにしてたからかな。ごめんね」

 隼人の涙に気が付いたのは、三分ばかり離れていた美子と僕が隼人のスウィングベッドに戻った時だった。

 美子はガーゼで隼人の涙を拭いた。

「独りにしてごめんな」

 僕が同じ言葉を繰り返すと隼人は泣き止み、涙で濡れた目を僕に向けた。

「涙を流した後の目が父タンとそっくりだね。父タンは嬉しくても泣くけどね」と、美子は小さく笑った。

 僕は泣く。悲しい時に泣く。悔しい時に泣く。嬉しい時にも泣く。映画を観ても本を読んでも、少しでも心が動くと必ず泣いてしまう。

 学生時代、自主制作の映画に役者として出たことがあった。自分が話すセリフに感極かんきわまって直ぐ泣いてしまうので、僕が出演するほとんどのカットは使い物にならなかった。演出を担当しても撮影を担当しても、涙を拭くハンカチは手放せなかった。

 涙を拭いてもらった記憶がある。やはり映画学生だった頃だ。カメラを台車に載せて被写体を追いかけた時、ハンカチを途中で落としてしまった。心が大きく動き、涙がポロポロ流れた。撮影が終わって、涙を拭こうとしたらハンカチがない。若い女性が自分のハンカチで涙を拭いてくれた。僕は何を撮影していたのだろう。涙を拭いてくれた人の顔も思い出せない。

 二人が顔を近づけてあやすと隼人は泣き止み、喉の奥からクーという声を出した。機嫌のいい時のサインだ。

「食う? お腹がすいたの?」

 隼人が「ハイ」と返事した。そんな風にきこえた。

「今、隼人、ハイって返事したよ」

 隼人が「アー」という声を出し始めたのは生後三か月の頃だった。喃語なんごといって赤ちゃんにとっては発声練習のようなものらしい。生後四か月のこのときは確かに「ハイ」と聞こえた。

「まだ生まれて四か月だよ。この子、天才かも」

 美子は隼人を抱き上げ、頬擦ほおずりをした。

 隼人はたまたま、「ハイ」という声を出したのだ。僕は「親バカ」という言葉の意味をはっきりと理解した。

 隼人が寝返りを始めたのもこのころだった。

 赤ん坊はうつ伏せのままでいると窒息する。寝返り返しを覚えるまでは目が離せない。親にとって「ちょっと目を離した隙に」という言葉は恐怖だ。

美子は家事に集中できないと言った。寝返りしていないか心配で頻繁に顔を見に行くが、可愛くて可愛くて隼人のそばを離れられなくて掃除も洗濯も炊事もほったらかしにしてしまうのだと、幸せそうに言った。「育児ノイローゼになったらどうしよう」と笑顔で言うので、「その心配は絶対にない」と、僕は呆れ顔をした。

 僕は夜学の教員なので朝昼の家事育児には支障がない。美子が片時も隼人の傍を離れたくないと言うので夕食も夜遅くに僕が作った。隼人が見える場所にテーブルを置き、二人で食べた。平日の夕食を学校の食堂で済ます僕は一日四食を食べる羽目はめになり、三キロも太った。

 生後百八十日、隼人は寝返り返しをした。しかし、僕の体重は元に戻らなかった。

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