浴衣
朝川渉
第1話 それは誰かの為に
木曜日の昼間、がちゃがちゃとアパートのドアの鍵を鳴らして母親がパートから帰ってきた。帰るなり母はわたしたちを「ちょっとおいで」と言って呼び出し、ひとつしかない和室に、置いてあるお下がりの勉強机で絵を描いていた妹と、テレビの前で洗濯物を畳んでいたわたしは、母が帰ってすぐに私達を呼ぶ時は何か良いものを持っているということを知っていたから、その作業を途中で投げ出して、母のいる台所の方まで互いにかけよった。テーブルの上に置いた風呂敷に包んだそれを解くのをわくわくして見ていた私たちは、淡い色味を帯びた布地と濃い紺色の生地が折り重なって現れたのを見て「なに、これ」と言った。
母が「浴衣だよ。新しいのほしいって去年言っていたでしょう」
といい、そんな、叶いもしないことなどいつもなら、無責任に口にする先から忘れていくのにと思いながらも、息も荒いまま互いにそれを風呂敷を避けて手にとり、テーブルの横に立ったままで静かに垂れ流すようにして広げてみた。けど、それを広げてみたところサイズがちょうど良かったのは妹だけで、わたしの方は明らかに、自分の体には一回りも大きな浴衣だった。白い生地を陰干ししてるまに陽で生らされたような淡い色味に、淡い紫色の花の模様が入った生地。
「さっちゃんは去年大学にはいったばかりだからね」
母がそう言い、じゃあわたしは、わたしだけ去年の着るしかないのかいと思い、あれは黒地に淡い花の模様が入ったやつで、わたしは色が黒いから薄暗がりの中で着るとより一層自分の顔が地味に見えるのが嫌だった。はしゃぐ妹を傍に母にそれをいうと、母は片眉だけしかめて「洒落っ気ついて」と言って笑った。わたしは意気消沈した。自分だって、パチンコ店のパートがある朝は真っ赤っかな口紅付けて、スーパーへ行く時とは装いが違うくせに。
七夕のお祭りは公園でやる大きな規模のものと学校で催されるものの二つある。学校でやるのは提灯を持ち、ただグラウンドをグルグル回るだけで教師を満足させるためだけの催しだと皆は感じていて、実際授業が潰れる以外においてはなんの楽しみもない。けど、近所の大きな公園でやるやつは、出店もあるし、おしゃれな音楽もずっとかかっているし、中学生とか、不良とか、カッコいい女の人がいたりして、私たち姉妹も小さい頃から母に手を引っ張られてその中へ入り、母から見守られながらつたなくでもその中の一員として踊るのを楽しみにしていた。
母が浴衣を持ち帰ってから、それからしばらく、家にいる間は妹が、浴衣の入った包みを手に取ったりするのを見ているとなんだか面白くなくて、うるさいなと感じていた。ああ、うるさい。お洒落して、そんなとこでおどんのが、何が楽しいんだか。わたしは自分の去年の浴衣を誰もいない時に取り出して見て、鏡の前でため息をついた。似合う、似合わない、一体これはなんなのだろう。今年いただいた浴衣は、たしかに綺麗だけれどさすがに大人のもので、無理して着たとしても少しずれている感じがした。あれはまるで…後妻がしなだれかかって着るような雰囲気だ。妹はわたしと雰囲気がまるで違っていて小さい頃から喘息持ちで、例えば鬼ごっこや、体育のあとなんかも一人だけぜえぜえしているような子だった。夏でも、冬でも、妹は親戚と会うたびに心配されるほど色が白い。だから紺色の浴衣が似合うとわたしも母も思っていて、母は一度それを身につけた妹を見て褒めそやした。妹は顔を蒸気させて喜んでいて、けどあれは、傍でそれを見ながら、けどわたしにも似合うかもしれない…一瞬だけど、そう思った。
わたしも、妹も、学校では「貧乏っこ」として珍しがられており、それは先生からも生徒からも受ける特別扱いのようだった。たしかに私達の服は古臭いものが多かったし、高学年になってもいつまでもランドセルを背負っている姿は珍しかったと思う。給食袋、ランチマット、それから、体育の時のジャージ、目敏く、同級生はなんとなく皆とは違う私たちのことを嗅ぎ取って指をさし、自分達にとって納得出来るようなその理由を探りだすのだった。その中であった噂のひとつに父無し子というのがあって、父はわたしが幼稚園に上がる前に蒸発してしまって居なかった。そして、それなのに母は頑なに待つと言って再婚したり実家に帰ったりもしなかった。水仕事でもすればいいのに、まっとうに生きたい母はパートをいつくもかけもちして、太い脚で自転車を漕いでパチンコ店、それから病院の清掃に友人の事務の手伝いなどで平日は駆け回っている。同級生がそれをめざとく見つけて、学校の黒板にイラスト入りで書き込んだときはわたしは真っ赤になってそれを消しに行った。妹は、いつもからかわれても黙っていた。わたし達の家に来訪者はほとんどなかったけれど、実家ともほぼ縁のない母の元へ来るのは近所のおばさんや、パートで仲良くしているおばさんくらいだった。そこへときどきくる、母の兄という人は、母よりもずっと若く見えたのにどうしても堅気の人には見えなかった。いつだったか、幼稚園のときに珍しく仲の良い友達が出来たわたしのために相手の母親が車をわざわざ出して互いの家を送り迎えしてくれる日が続いた。わたしたちはいつもどおりずっと無言でお絵かきに夢中になっていた。そこに現れたおじさんのことを見て、友達がわたしに耳打ちして「あのひと、動物園みたいな匂いがするね」と言って、わたしはそんなことをわざわざわたしに、家族であるわたしに対していわなければならない友達にぎょっとしてしまったのだった。兄は見た目は妙ちきりんだけれどいままでおかしな匂いがすることなんてなかったので、友達がそれからわたしに耳打ちしてくるたびに、それから近くへ来ようとする人が現れ、その人の子供くささがふいに匂ってくるたびに、耳たぶから鳥肌が立つような、なんだかぞっとする思いがするのだった。兄は、わたしや妹にアルバイトでもらったという、貧乏くさい駄菓子をいつもお土産をもってきてくれたり、辛抱強く勉強を見てくれたりして、いつも、ジーンズで、上はベストか何か良くわからない、作業着を着ていた。「それ、なんの取り合わせ」とわたしが聞くと、へらへら笑うだけで、母のような女兄妹にもまっとうな自分を説明するような言葉を持たない。いつものように母が帰って来る前のおじちゃんがいるとき、妹が、七夕を楽しみにして浴衣を和室のふすまのあるところに置いてあるのをもってきてまたひらひらさせていて、わたしは、ああまた始まったかと思った。
「なに、それ」
「七夕で着んの」
妹がいい、ニッと笑って、身体に合わせたそれは妹に似合っていて、
「へえ。いいなあ」とおじちゃんは呟いた。
「いいなあって、なに」
妹は声をあげて笑った。おじちゃんも照れて笑った。わたしは、男のくせにこんな素直にいいなあって言えるおじちゃんが、なんだか可愛いと思った。
7月7日、七夕のお祭りの日の昼どき、学校でささやかなお祭りに出たあと、わたしがアパートの古臭い階段を上がり、ドアを開けると、妹がもう既に帰ってきて部屋の中で身を固くしているのを、わたしは居間は入ってから見た。いつも通り母はまだ帰ってきていなくて、早くご飯を食べて、宿題を片付けて出かかる準備をしなきゃいけない、ってわたしは思っていたから、妹のことは放っておこうと思って、すぐそばの勉強机へ鞄を下ろして、母に出すための机やプリント類を整理したあとで居間まで持ってきた宿題のプリントをして、「ねえ、おやつ食べないの」と妹に聞いてみた。母はいつも、わたしたちが買い食いしたり、もう好きなお菓子を戸棚から出すようになってもいつも、テーブルの上におやつを置いて朝出ていくのだった。宿題を終え、わたしはしょうがなく甘ったるいどらやきを食べながら、いつまでも喋り出さない妹にわたしはなんだか苛々してきていた。どうせ、いつまでも自分の身について回ること、慰め合っててもしょうがないし、受け流せるようにならないと、わたしたちが変わらないと、ねえ、どうしようもないじゃん、わたしはいつだったか、妹が目の前で泣くのを見てそんなふうに言って、しまいには自分の方がわんわん泣いたことを思い出して、今日はひときわ、冷たい水で茶碗を洗った。六時すぎて、まだ明るい中で支度をして、早めに出かけることにした。わたしは友達と待ち合わせていたから、普段着のままで鏡の前で髪の毛を整えて、それから玄関から出て行った「また、あとでね」わたしが声をかけると「うん」妹は言い、それから、公園について、わたしは友達と、出店を見て回ったり、踊っている人を品定めしたりしていた。それから一時間後くらいに、妹が公園に姿を現した。友達がわたしに声をかけて「ねえ、あんたの妹来てる」と言い、わたしも「うん」と言い、妹の方をみた。
妹は、紺色の浴衣を着て、友達を探しているみたいにきょろきょろと顔を見回していたかと思うと、わたしの方を見て唐突に走り出した。(あっ!)わたしはなんだかわたしの方を妹が不意に見て、笑ったのかと思いびっくりしてしまって、そのまま妹がわたしの横を駆け抜けていくのを、まるでスローモーションみたいに見ていた。さっきまで黙って暗い部屋にいた妹は髪の毛をきちんと結えて、そのおだんごに百合のクリップを差し込んでいた。いつのまに…昨日も今日も部屋で、泣いていたくせに。
(洒落っ気ついて)
母の言った顔を、なんとなくわたしは思い出した。わたしは同性の母親からそんなふうに言われるのがずっと嫌だった。だから普段はお下がりはあまり着ないで自分で選んだ服を着て、それはなにも言われたくないが故のたしかに反抗だったのかもしれない。口に出さないまま、この時に唐突にその事に気が付いたような気がした。けど、妹がいつも通りにはしゃいでいる顔を見て、ああ、なんだかよかったと感じた。妹は、こんなに綺麗に、それから大きくなったと思った。わたしがわたしのために無理くり押し付けた「我慢しないと、しゃあない」も意地悪な言葉も同級生の目線もひとつひとつ飲み下して、笑うようになった。妹は去年、わたしのお下がりの浴衣を着ていて、それは妹の幼さによく似合っていて可愛かったことを覚えていた。けれど、今日の浴衣はまるで知らない女の人になってしまったみたいで、ただそれは単純に、家族とは関係がないままに綺麗だなとわたしは思った。
「浴衣、やっぱ綺麗だね」
わたしの友達が妹の方を見て言って、もう一人が「ほんとほんと。わたしも、浴衣着てこればよかったー」と言った。
わたしも「ほんとは、わたしも貰ったんだけど、まだ大き過ぎて着れなくって…」と言いながら、その後に続く言葉を本当は、なんだかどうでもいいことのように感じていて、わたしは妹が久しぶりに楽しそうにしているのをいつまでも、遠くから見ていた。
浴衣 朝川渉 @watar_1210
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