あやめの折り紙
「学年が上がって、エリとはまた同じクラスになった。わたしをよくからかってきた男子の一人も、名前は忘れてしまったけれど、同じだった。……あの日も、今日みたいなゴールデンウィークを控えた最後の登校日だった気がする。道徳の授業かしら、内容は端午の節句、子どもの日について。教えられたことはもうほとんど記憶にないのだけれど、どんな感じの授業だったかはおぼろげに憶えている」
小学校低学年で何を習ったかなんてほとんど憶えていないや。基礎的なことなので何を習ったかは忘れても習ったことは身についているので不思議だ。
「その一環で、写真を黒板に貼ってそれが何かわかるか手を挙げさせていたわ。柏餅や粽、鯉のぼりはもちろんあったでしょう。そこに並んで紫の花の写真があった。何かわかる?」
子どもの日に紫の花、関係あったっけ。首をかしげる。
「あのときも誰も答えられなかった。小学生だから花の名前なんて知っている人のほうが珍しい」
「そうだね」
僕はいまでもあまり知らない。
「端午の節句っていまでこそ男の子の行事だけれど、昔は田植え前の女性が身を清める行事だった。そのときに芳香のある
初めて聞く。
「いまでも残っている風習だそう。武家社会になって『ショウブ』の音が武を重んじるという意味の『
「へえ、なるほど」
そんな背景があったなんて、なかなか行事は深い。
それをわかりやすく説明できる千日紅さんにも感心するけど。
「つまり写真の紫の花がその菖蒲ということになるのだけど……ここから複雑で、その紫色の花にはよく似たものが三つあるの」
「三つも?」
「ええ」
千日紅さんは人差し指から順に指を立てながら名前を挙げる。
「あやめ、
あやめとかきつばたは聞いたことがある。
「全てアヤメ科だから似ているのも納得で、『いずれあやめかかきつばた』なんて区別がつきづらいという意味の言葉があるぐらい」
それほどとは、ぜひ見てみたいね。
「でも、本来端午の節句に使われる菖蒲ってあやめでも花菖蒲でもかきつばたでもないの」
「えっ、違うんだ」
どういうこと。
「また別に葉菖蒲とも呼ばれる『菖蒲』があって、厄除けに使われるのはそっち。葉はあやめによく似て細く真っ直ぐ伸びている。けれど花は似ていないどころか、およそ花らしくない実のような素朴なものなの」
「へえ。じゃあ授業では間違えてたの?」
千日紅さんは首を傾けて唸る。
「間違っているとも言えない。難しいところ。いまではかなり混同されて捉えられてしまっていて、花菖蒲を端午の節句の『菖蒲』として飾ることがある。だから黒板に紫色の花、花菖蒲の写真が貼られることになったのでしょう。そうなるのも仕方ない。だって名称が紛らわしいもの」
「どちらも菖蒲って名前にあるもんね」
「そればかりか菖蒲という漢字は『あやめ』とも読むの。そして花菖蒲を『花あやめ』または『あやめ』と言うこともある。昔は、端午の節句の『菖蒲』も『あやめ』と言っていた。実際わたしの知っている平安時代の和歌でも『菖蒲』を『あやめ』とよんでいたわ」
頭がこんがらがってくる。花菖蒲は菖蒲でないがあやめで、菖蒲はあやめでもあって……。ああ、紛らわしいことこの上ない。
あと僕の記憶にあやめの和歌なんてないのだけど、ひょっとして千日紅さんは和歌にも造詣があるのか。
「長々と話したけれど、大丈夫? 上手く説明できたかしら」
「うん、わかりやすかったよ」
とてもややこしいということが。
「相変わらずよく知ってるね」
「季節の本とかよく読んだから」
「そうなんだ。やっぱり、季節が好きなんだね」
「……そうみたい」
千日紅さんは笑みを含んだ声で認めた。
「そして菖蒲の花のことだけど、その授業で折り紙を折ったわ。端午の節句に関係のある、兜や鯉を」
千日紅さんがバッグからメモ帳を取り出し、薄い紫色の紙を一枚切り離して折り始める。実演してくれるのか。
「エリが先生を呼んで折り紙を見せた。先生はすごく褒めて、みんなの注目が集まった。エリが持っていたのは、花の折り紙」
そこで繋がるのか。
「菖蒲の花の折り紙。折り紙の本では『あやめ』として紹介されていた。子どもの日の折り紙として乗っていたから、花菖蒲を指して『あやめ』と呼んでいるのかも。三つの花の見た目の違いは少し模様が違うぐらいの些細なものだから、折り紙になればどの花でも同じだと思うけれど」
「まあ折り紙で細かい違いを出すのはなかなかできないよね」
神業みたいな折り紙を折る人もいるにはいるけど。
「ええ。あやめは立体的で工程が多くて、折るのは簡単じゃない。小学二年生が憶えて折るのは難しいでしょう。折り方をよく見ないと」
そう言いながら、千日紅さんは器用に小さな紙を折っていく。
「そしてエリは、わたしのところに折り紙を見にきた。席が近かったのかしら、わたしをよく冷やかす男子も来て、机の上の青い兜の折り紙が男っぽいわたしに似合ってるって、いつもの感じで冷やかした」
千日紅さんは青い兜が似合うという感じではない。赤紫色とかが似合いそうだ。
「でも、端午の節句は女性のための行事でもあったんだよね」
「その子にとっては男の子の行事でしかなかった。ううん、そんな歴史があることを知っている人なんて大人でもほとんどいないと思う」
「そっか」
僕も全く知らなかった。
「そのあと、その子が騒ぎ始めた。自分の折った兜がなくなったって。青い兜の折り紙が」
「あっ」
千日紅さんの同じ色の折り紙。その先どうなるか察しがつく。
「エリが言った。『そういえばアヤ、おりがみわすれたっていってたけど、どうしたの』と。それを聞いた男の子がわたしに、お前が盗んだんだなって詰め寄ってきた」
千日紅さんはペンを取り出して、花の形になった折り紙に絡ませる。
「男子とのやり取りはもう忘れた、エリとのことだけ憶えている。エリはわたしに盗ったことを謝るように諭した。『ともだちとしていってるんだよ』と付け加えて。わたしはエリに『あなたなんてともだちじゃない』と言った。そして、エリとは縁が切れた」
千日紅さんは反応を窺うように僕を見た。
「わたしのこと酷いと思う? 友達じゃないなんて」
「いいや」
不自然に、彼女はまだ真偽を明らかにさせていない。
「千日紅さんは、盗ってなんかないんだよね? 折り紙」
彼女は物憂げに笑みを浮かべて、「これ」と手に持っている折り紙を見せた。
「完成した」
「おー」
拍手する。
「それが?」
「ええ。あやめの折り紙」
逆さ向きの四角錐に四枚の花びらがついたような立体的な折り紙だ。確かに折るのは難しそう。
「……どうして、そう思ったの」
千日紅さんがぽつりと呟くように言った。
どうして盗っていないと思うか。
まず千日紅さんがそんなことをする人とは思えない。あらぬ疑いをかけられたのだとしか思えなかった。しかし根拠はない。さらにそれはいまの彼女を見てのことで、人は変わる、昔は違ったかもしれない。
よく考えた。僕は千日紅さんや慧ほど想像力はないけれど、必死に頭を回した。
千日紅さんはエリにむっとするような「ともだち」の使われ方をされてきた。それでも友達でい続けられた。そんな彼女に友達じゃないとまで強い言葉を吐かせたのには、よっぽどの理由があるはずだ。
そして気づいた。
兜の折り紙を盗んでいないと証明できるわけではない。ただ千日紅さんの潔白を傍証するものにはなるだろう。
僕は言った。
「エリって子は、自分であやめの折り紙を折ってないから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます