桜餅
「あっ、そういえば」
桜餅で思い出した。
僕は鞄から筆箱を取り出し、そこに付けたものを見せる。桃色の球体が葉でくるまれた、それ。
「桜餅?」
「の、ストラップ」
直径二センチほどの小さい桜餅にボールチェーンがついている。
「道明寺」
「……ドウミョウジ?」
何のことだかわからず、首を傾げる。
「道に明けるにお寺、関西風の桜餅を道明寺と言うの。生地に道明寺粉が使われているから、そういう名前。道明寺粉は、もち米を蒸して乾燥させて粗く挽いたもので、道明寺で供えられた糒ほしいいで作られたことから来ているわ」
千日紅さんは流暢にそう語った。桜餅にも別名があるとは、初耳だ。
「関西風ってことは、関東風もあるの?」
「ええ、関東風は長命寺、長い命にお寺。小麦粉生地を薄く伸ばして焼き、餡に巻いたもの」
そんな桜餅があるのか。
「どちらもお寺の名前なのは意味があるのかな」
偶然にしては対照的だ。
唇に人差し指を当て少し考える表情を浮かべたあと、千日紅さんは答えた。
「そうね……最初に桜餅が作られたのは長命寺の方で、それが次第に伝播していって、関西では道明寺生地で作られるようになった。そういう地域性が生じるのはよくあることね。お雑煮に赤味噌と白味噌、丸餅と角餅の違いがあるようなもの。そして遠い昔、和菓子は多く寺社門前で販売されていた。いまと同じように参詣には娯楽に通じるものがあって、交通の大変さから憩いの場が必要でもあった。だから和菓子のルーツが寺社にあるというのは珍しくないわ。むしろ大福やお団子といった庶民的な和菓子は、そういった門前菓子から発展してきたと言われているぐらいだから。桜餅もその一つね」
滔々と壮大な背景が出てきて、僕はしばし呆気に取られた。
「……そうなんだ」
和菓子もなかなか奥が深い。そして真面目な顔つきでそれを語る彼女も興味深い。
「わたしは食べ慣れているからかもしれないけれど、道明寺のほうが好きね。長命寺も悪くないけれど、粒々した食感があるほうがいい」
「関東風の桜餅、食べたことあるんだ」
「ええ。一度だけ。関西にある和菓子屋さんでも、関東で修行した職人さんが作って売ってあるお店があるの」
「へえ」
「関東の方では、半々くらいだそうよ」
デパートやスーパーでよく物産展が催される昨今、完全な地域性が保たれる方が珍しいのかもしれない。
「それにしても、随分詳しいんだね。花見団子に、桜餅」
まるで事典でも脳に飼っているようだ。
「わたし、和菓子が好きなの」
彼女はそう言って顔を綻ばせた。
「いいね」
千日紅さんのお茶目な一面を知れて嬉しい。
「話の腰を折ってしまってごめんなさい。そのストラップがどうかしたの」
言われるまで完全に忘れていた。
小さな道明寺を指で持ち上げる。
「ああ、これね、実は今朝姉さんに貰ったものなんだ。入学祝いだって」
洗面所でのことがあったあと、自分の部屋で身支度を整えていると、姉さんが来てこのストラップを手渡された。これが『いいもの』とは。
「これ、千日紅さん的にはどう思う? 入学祝いに桜餅のストラップ」
和菓子好き、それも豊富な知識があるらしい彼女なら、何か言ってくれるかもしれない。
「入学祝い……桜餅は着色していない白い生地のままのものもあるから、そういう意味では紅白饅頭のように扱うことはできる、かしら。強引に」
歯切れが悪い。
僕からしてもちょっと強引だとは思う。でも感心する。
「本当に理由がつけられるなんて。これにその白い本物の桜餅をセットにしたら、紅白饅頭的な桜餅だね」
千日紅さんが小さく頷く。
「あとは、お餅は神饌、神様へのお供え物としての鏡餅や、誕生日を祝う……
そう締める声は、少し低く尻すぼみになっていた。
素晴らしい解釈にささやかながら称賛の拍手を送ろう、としたところに、廊下のほうから女子の大きな笑い声が聞こえてきて意識がそれた。
気を取り直して、音を立てずに手を叩く。
「すごいよ。本当によく知ってる」
「…………」
自信がないみたいだったけど、僕からすれば充分納得できた。
お餅がつきものってところは上手い言い方で気に入った。
しかしながら、姉さんにそんな深い配慮があったわけではないだろう。おおよそ面白いもの好きの性格が、ふと見つけたおまけつきのお菓子でも買わせたのを寄越したに違いない。何個か買って被ったとか、そんな理由で。
結果的にそのおかげで面白い話が聞けたので『いいもの』になった。ありがとう、姉さん。
なんだかますます和菓子が食べたい気分になってきた。帰りにどこかで買おうか。
「あっ、今日入学式だから、紅白饅頭貰えるかな?」
この間、中学の卒業式では貰えたのだ。入学式に甘味を当てにするなんて罰当たりかな。
しかし和菓子好きの千日紅さんからは何の返答もなかった。黒板の上にかけられた時計をじっと見上げている。
「どうしたの?」
時刻は八時を過ぎた。もうそろそろみんな来始める時間だ。
「……何も」
千日紅さんは少し困ったような顔をし、机に置いてある巾着の口を握った。
それで訊きたかったことを思い出した。
「そういえば千日紅さん、珍しいもの持ってるね。その巾着」
「…………」
千日紅さんは押し黙り、うつむいてしまった。垂れた髪で表情が隠れる。
「……千日紅さん?」
様子がおかしい。話しづらそうにしている。まるで、会ったばかりのときのような。
長い沈黙のあとに一言、告げられた。
「もう、わたしに構わないで」
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