交戦
@lostinthought
第1話
今は、激しい音楽が聴きたかった。
レッチリのアルバム『カリフォルニケイション』なら、僕の内面をどこかで支えているこの体の深い場所までどうにか降りていき、この胸のざらつきを何とかしてくれたかもしれない。
そう思い、記憶を頼りに頭の中でレッチリの曲を再生しながら、右の肘を外側に突き出した格好で右肩だけを上下に動かした。
右肩に掛けたベルトの位置が首に近すぎる気がしたのだ。頑丈な黒いベルトが狙いより少しだけ外側にずれる。もう一度肩を動かしたが、やはりベルトはどこにあっても落ち着いた感じがしなかった。
この三ヶ月間、毎日同じような動きをしてきたものの、しっくりくる位置みたいなものは未だに見つからない。
スマホは携帯が許可されていたが、充電が出来ない状況なので、昨日の夜バッテリーがすでに落ちている。昨夜、やはりインターネットに接続出来ないことを確認したあと、残量がついにゼロになった。
充電ができたなら、ネットを使ったストリーミングは無理でも、スマホ本体にダウンロードしている好きなアルバムが聴けたはずだ。
そうすれば、この胸の内側のザラザラとした嫌な不安も、多少紛らわすことができたかもしれない。
ぼんやりする頭で僕はそう考え、またベルトの位置を調整するために肩を二、三度同じように動かした。
僕が今着ている服は肩だけでなく、全身の動きやすさを考えて合理的に作られていた。生地も市販のものとは異なり、数秒は火に耐えることのできる難燃性の素材が使われている。
着心地は、まあ悪くなかった。
もっとも、その上に装備した着慣れない五キロの防弾チョッキと、これもほぼ同じ重さの自動小銃を肩に掛けて自分自身の体で支えなければならないのが、音楽以外にやってこなかった身にはかなり堪えた。
約八ヶ月前、当時はまだ日本の交戦国でなかったある大国の軍隊が、突如その隣国を侵略した。
当初はしかし隣国の首都陥落を目指す地上部隊も、あっけなく撃退されていた。
戦況が変わったのは侵攻が2週目に突入したときだ。
大国側がそれまで温存していた精鋭部隊を投入したことで、それまでは首都に迫る侵略軍を撃退してきた小国側も兵隊の降伏や撤退が続いた。じりじりと防衛戦が首都まで退り始めたのだ。
首都が大国側に完全封鎖されそうになった時、それまで静観していたヨーロッパの複数の国とアメリカが自国の安全保障を理由に参戦を表明した。
24時間後には米軍を中心にした応援部隊が侵略されている小国に到着した。
応援に来た欧米の戦車隊の列を、すでにほとんどが残骸になってしまった古都の沿道で歓喜して迎える大勢の国民の映像が、繰り返し様々なメディアによって報じられた。その映像がとても印象的だったのを覚えている。戦争映画の凱旋シーンのようだった。
その報道を僕のバンドのメンバー達と一緒にスマホで見ていて、僕らのギタリストで父親が元自衛官の和田がぽつりと言った。
「こんだけ軍隊の派遣が早いってことは準備してたんだろうな。ギリギリまで躊躇はしてたんだろうけど」
僕はただ彼の端正な横顔を横目で見ながら、なるほど、と口の中で呟いただけだった。
その一週間後。
侵略国の大統領が直接交戦している欧米各国だけにではなく、自国の安全保障上の理由と日米の同盟関係を理由に日本にも宣戦布告した。当時の僕にそのことはあまりにも意外だった。
世界地図上での正確な場所もよく知らない外国が侵略されて始まった戦争が、僕にはどこか理屈めいた理由で日本を巻き込で、大国の交戦国にしたのだ。
開戦後すぐ、北海道の北東部の沿岸地帯が大国の軍隊に占領された。
日本への宣戦布告の前に、あらかじめ上陸のための部隊を用意していたというのが現在の通説だ。
大国側は北方領土の択捉島はもとより、上陸部隊を乗せた上陸用の軍艦で海岸を襲い、その地域の複数の町をあっという間に支配下に置いた。
網走、羅臼、根室の都市をはじめ根室空港も陥落した。
すぐさまツイッターやYouTubeに地元住民が自ら撮影した動画が相次いで投稿された。ほとんどが市街に立つ兵や戦車をスマホで写した映像、恐怖を訴える書き込みだ。数日後にはその地域のネット回線が切れた。
大国側の「住民は無事」と一方的に告げる発表の他に支配下の住民の情報が途絶えた。
その頃、世論は抗戦と交渉で解決策が割れた。どちらかというと外交で解決すべきだという非戦の論調のほうが優勢だったと思う。
政府は世論を汲んで慎重に外交を進め、一月後に敵国の支配地域に残る日本人を解放してもらうための会談の場が設けられたが、交渉は上手くいかなかった。
そうこうしている間に、睨み合ってはいたものの、まだ一度も交戦していなかった自衛隊が釧路駐屯地にミサイル攻撃を受けたことで世論が大きく動く。日本はその二日後、本格的な抗戦に入った。
その年の七月にはじめの徴兵が行われた。戦後初の徴兵令だった。
予備役の自衛官がすでに招集されていたが上陸している敵兵が予想より多く、網走と根室を解放するために進攻した自衛隊はかなりの損害を受けていた為だ。
僕のバンドのメンバーは全員が徴兵されることになり、僕らの出演していたライブハウスが内輪の送別会として、開戦以来ずっと自粛していた店を開けてくれた。世間の自粛ムードでしばらくバンド活動ができていなかったから、和田に会うのも久しぶりだった。
どこまでも不安にしている僕らや、徴兵が決まっている他のバンドのメンバー達に対し、先に予備役で召集された元自衛隊幹部のお父さんの言っていたことだと前置きしてから、
「俺達みたいな素人は、北海道以外の沿岸地帯の警備に回されるから心配ない。前線に投入しても足でまといだから」
和田は笑って見せた。
僕達は半信半疑だったが、その言葉をできるだけ信じようとした。
その後、徴兵と、三ヶ月間に短縮された厳しい訓練があった。
寝る間もほとんど与えて貰えない、身体より先に内面が壊されそうな兵隊になるための徹底した訓練だった。それが終わるとバンドのメンバーでは僕だけが、北海道に展開する陸上自衛隊の部隊に配属された。
和田の予言は見事に外れたことになる。
こうして僕はこの十月、今いる北海道にやってきた。
北海道の十月と聞いて、どれだけ寒いのだろうと想像していたけど、あまり僕の実家のある神戸と変わらないのに驚いた。
こっちのほうが多少涼しいのかもしれないが、もっと格段に寒いと思っていただけに、未だに北海道にいる実感が湧かない。
緑と都市化のバランスの良さが何となく神戸っぽくて、油断すると自分が北国にいることを忘れそうになる。
制限はあるが隊員にはスマホの所持が許可されていた。自由時間にはイヤホンを使いそれで音楽を聴く。ミリオンセラーバンドのシステム・オブ・ア・ダウンは特に好きだ。
暇さえあれば好きな音楽を聴くのは僕だけでなく、多くの隊員がそうだった。
同じ隊の中江という一つ年上の隊員は徴兵前は、僕の知らない福岡のインディーズバンドのドラマーをやっていたらしい。徴兵令は男だけが対象だったから、当然同期の隊員は男ばかりで、僕ら二等陸士の男子寮には常に体育会系の部室みたいな濃い男臭さが漂っていた。
箱館の駐屯地にいた頃はスマホも難なくネットに繋がった。
が、敵軍の南下作戦が始まり、日本の世論が抗戦に転じるきっかけとなったミサイルで格納庫が攻撃を受けた釧路駐屯地に緊急配備されてからは、なぜかネットの接続が悪くなった。
その頃の釧路は一部を除いて民間人は完全に退去していた。ゴーストタウン。一歩基地外に出たら、昼間でも不気味なくらいに静かだった。
釧路に侵攻する敵国の部隊に応戦するべく、僕らを含む自衛隊の大部隊が展開した。十月中旬のことだ。
ここに来てようやく和田の予言が当たったのかもしれない。
僕のいる小隊は本隊よりかなり後方の市街地で、釧路川に架かる三つの橋(旭橋、久寿里橋、弊舞橋)を防衛する任務を与えられたのだ。
戦力は僅かに小隊48名と装甲車一両、それに加えて特科の扱う榴弾砲という大砲が川の右岸に四門。そして万が一、橋を爆破する場合のための施設科の隊員。
施設科は外国では工兵と呼ばれる建築集団のような専門部隊で、特殊な爆弾の設置などもこの部隊が担った。
もしも敵国の部隊が本隊を突破して橋を越えそうになった時は、防衛が不可能なら、釧路川を渡らせないために敷設科の仕掛けた爆薬で橋を破壊せよ。そういう命令だった。
十月半ばの北海道の正午は、夏の名残で日差しがまだ強めだが、吹く風はどこでも涼しい。釧路川を吹き降ろす風は、水面に触れてさらに冷やされるのかなおさら冷涼としている。
腕を上げ、脇を無防備にすると、戦闘服の脇下に空けられた通気孔から風が吹き込む。まるで小動物でも迷い込んだようにさっと背中に回り、警備で立っているだけで日差しと緊張で汗ばむ身体に心地よかった。
この重苦しい防弾チョッキを脱げば、もっと涼しいはずだった。
自分の上半身を守ってくれる大事な装備であることはわかっているものの、予備として保管されていた旧式の中古品だ。おまけに中に追加できるセラミックの板が調達できないと言われると、御守りとしては心もとない気がしてしまう。
もっともセラミック板を入れれば防弾力が上がる代わりに計12キロの重量になるらしいから、それではいざという時走ることも難儀しそうで、どちらのほうが望ましいのか僕にもよく分からない。
鉄帽の下に右手をかざして目を細め、僕の立っている右岸のぬさまい広場から、じっと川向こうを見る。
おおかわ広場があり、その後ろには釧路の市街地があり、そのずっと向こうで本隊を含む大部隊が敵軍と交戦しているはずだった。
交戦は確実に始まっている。
二日前の夕方4時23分、釧路の空に何度も爆煙が上がるのを、距離と建物にへだてられてはいるが小隊の全員がその目で確認した。本隊からも遅れて戦闘中を報告する無線が来た。
昨日の夜には釧路駐屯地のある方角の黒い空が赤く燃える中、追加支援に来た装輪装甲車隊の車列がこの橋を越えて行った。
釧路の語源とされるアイヌ語のひとつクシルは「越える」の意味を持つ。
しかし前日の朝から小隊の無線機には、本隊からの連絡も、北部方面隊の司令部からの連絡も何故か入ってこない。
はじめは皆、無線機が故障したかと思った。その予想を裏切って無線機周りを細かく点検した防衛大卒で敷設科の前田三尉が、
「壊れてるわけじゃないな」
難しい顔で告げた。
「さっきも無線試したんやけど、やっぱりノイズしか入らんわ」
さっき交代で摂ることになっている昼食を食べ終えて持ち場に戻りかけた際、すれ違った上官の大野三尉に尋ねたが、わずかに焦りの窺える硬い表情でそう教えてくれた。
彼は地元が神戸から近い宝塚市だった。何度か神戸の繁華街の三ノ宮の美味い店が前に流行ったウイルスの影響で閉まったとか、まだ閉まってないとかいう世間話で盛り上がった。
そういう話をしている時の余裕は、今の顔には微塵もない。
焦りを滲ませているのは大野三尉だけではなかった。今、僕を含めてこの隊の全員が、自分たちの置かれている状況を把握できていない。あたかも僕らだけが作戦中に遭難してしまったような雰囲気だった。
自分達の戦いのことなのに誰も大雑把な状況さえ知っていない。
こんなことがあるのだろうか?
二日前、交戦が始まって約十分後、今度は釧路駐屯地の方向のまだ夏の色の濃い青空に、はじめのものよりも規模の大きい真っ黒な柱が立ち上った。
それに先立って大気をびりびり震わせる爆音がこの橋まで伝わって来、ほとんど同時に足下を小刻みな地響きが揺らした。煙が見えたのはその直後のことだ。
僕はその時、それまで感じたことの無い感覚──不快な、全身の皮膚の細胞を紙ヤスリで撫であげられているような、肉と肌の間がぴりぴり痛む異常な感覚に襲われた。
これが死の恐怖というものなのだろうか。
遠い爆煙を見上げる僕は、巨大な真っ黒の煙が強い意思を持った生き物のように常に形を変えながら青空にぐんぐん伸びる光景が、ただただ恐ろしかった。
僕が警戒のために立つのは、釧路川の右岸の幣舞橋のたもとにある広場、ぬさまい広場だ。
大きな町の中を北から南へ流れる釧路川に面した公園で、見るからに造設にそれなりの費用がかかっていそうな感じだった。
隊員の持ち場となる場所は数カ所あり、それが午前と午後で変わる。昨日の午後の配置で偶然見つけたのだが、この広場の一角にはタレントの美川憲一のモニュメントがあった。平時ならその前に立つと「釧路の夜」という歌が流れるらしい。美川憲一の本業が歌手だということをはじめて知った。
今は広場の川に面した場の担当だ。
右肩にベルトを掛けて右手で64式自動小銃を持ち、銃口は安全のために常に下向きにしている。
ベースより重いものなんて自衛隊に入ってはじめて肩に掛けた。
「真木名はさ」
不意に右側から苗字を呼ばれた。
顔を向けると、僕と同じ日に徴兵された同期の二等陸士、伊藤がこっちを見ていた。陸自の階級では二等陸士が一番下になる。
二人ともこの右岸で歩哨任務中だ。互いの持ち場は距離が10メートルほど空けられている。
「何?」
と僕は少しだけ声を張った。
今日になってからは釧路の空に新たな爆煙があがらず、地鳴りのような砲撃の音も聞こえてこない。聞こえてくる音といっては僕らの小隊の出す音を除けば、釧路川の流れる静かな響きと鳥の鳴き声ぐらいしかない。
10メートルの距離があっても、神戸みたいな騒音に包まれた街中のように大声を張る必要もなかった。
聞き返した僕に向かって伊藤は真顔で、
「その苗字、一発でマキメって呼ばれたことあるの?」
僕は今聞くことなのかと呆れながら、
「マキナが多いかな。高校でも、バンドやってた時も、そう呼ばれてた」
「えっお前、訂正しなかったわけ?よく卒業まで騙し通せたな」
伊藤が本気で驚いた顔をしてくる。
「そんなわけないだろ。あだ名がマキナだったの」
僕はちょっとイラッとして必要以上に大きな声を出してしまう。
慌てて小隊の装甲車が止まっている橋の方を見上げた。
広場からはすぐ階段で幣舞橋の入口付近に出られる。ここからは角度的に見えないが、橋の右岸の入口に停められてある無線機を積んだ八輪装甲車(クーガー装甲車)が現在の僕らの小隊本部だ。
小隊長の海部二尉や前田三尉達の士官は特別な用がなければ橋の上にいる。
僕ら二等陸士も岸に立っているだけとはいえ任務中には違いない。それに不意に戦況が変わるかもしれないのだ。
だから立ち話をしていて怒られないわけがなかった。
もっともその現在の戦況そのものが何も把握出来ていないのだけれど。
「びっくりした。あだ名かよ」
言って伊藤はまた川の方を向く。
僕はしばらく伊藤の横顔を見ていた。徴兵される前はIT企業で営業をしていたというけど、本当にこれで仕事ができたのかと、ちょっと疑ってしまう。
伊藤はよくズレたことを言うのでウチの小隊では有名だ。返し方の上手い大野三尉と喋っていると勝手に漫才のようになるので、僕も二人のやり取りを見るのは好きだったが、彼と二人で話すとこっちの頭が混乱しそうになる。
左岸の方を向いている彼のその右肩には僕のように銃ではなく、濃いグレーの筒が掛かっていた。
LAMという名前の対戦車ロケット弾。
その名の通り、敵の戦車を攻撃し破壊するための装備だ。
肩に担いで発射するバズーカ型の武器で、狙いをつけて引き金を引くと、銃でいう銃口に装着されているボトルに似た部分がロケットのように飛ぶ。
僕は訓練でも撃ったことがなく、座学でその発射手順と発射映像を見せられただけだった。
「伊藤」
今度は僕が呼んだ。
「何?」
「それ、撃ったことあるの?」
振り向いた伊藤にそう尋ねると、
「俺は訓練でやったから。お前はやらなかった派?」
聞き返してくる。
短期間の訓練だったので、すべての普通科の装備を学習することはカリキュラムから除かれていた。僕は装甲車の機銃や、他の個人携行できる銃器類の訓練を集中的に受けた。
そう教えると、
「でもお前、それ64式じゃん」
と笑われた。
僕は眉をひそめる。
確かに僕が手にしている自動小銃は64式といって古い型で、今の自衛隊の主流の自動小銃は89式だ。
だとしてもこれは防弾チョッキと同じで、僕が選んだのではなく支給されたものだ。伊藤が僕を笑うのは理不尽でしかない。
僕はいま僕のいる小隊が置かれている状況と自分の装備を重ね、すべてが理不尽の手で決定されているように思った。一刻も早く無線が復旧してくれることを祈るしかない。
腕時計を見る。
午後2時を回ったところだった。
誰かの喋り声が時々風に乗ってかすかに聞こえてくる。内容までは分からないのが、夢の中のようで余計に眠気を誘った。
僕は頑張ってあくびをかみ殺す。
釧路川に架かる三つの橋の右岸側の入口にはそれぞれ榴弾砲が並ぶ。ウチの小隊の属する普通科とは別の特科から専門の隊員ごと来た榴弾砲が、旭橋と久寿里橋に一門ずつ、最も大きなこの橋には二門並んでいた。
ここからもその砲の先端が見える。
青空に向かって斜めに伸びた砲塔を長く見ていると、不思議なことに次第に距離感が曖昧になった。遠い喋り声よりも強い催眠術で僕を眠たくする。
僕は眠気を追い払うため首と肩を大きく回した。立ちっぱなしで固まった関節がパキパキ鳴る。脳に新鮮な酸素を送るため頭の中一杯に空気を満たすつもりで鼻から息を吸っては止め、口から細長く吐くを繰り返した。
そうしていると橋の上から、さっきとは別の誰かが必死に笑いを噛み殺す引きつった声が降ってきた。
声からして、どうやら僕と同期の中江が、特科の榴弾砲の隊員あたりと立ち話をしているらしかった。
見つかったら上官に怒られるだろうが、暖かい日差しと心地好い風に恵まれたこの陽気に会話もなしに眠気と戦うのも難しい話だ。
本当に戦闘は続いているのだろうか?
ひょっとしたらまた静かな睨み合いに戻ったのではないのか。
疑問がふと湧き、伊藤をチラと窺う。彼は右肩にベルトで約14キロあるLAMを掛けたまま大きなあくびをひとつした。
隠そうともしない。
形状のせいで遠目にはLAMがケースに入ったバットに見える。着ているものが戦闘服じゃなければ、帰りのバスを待ちながら疲労と戦う野球部員そっくりだった。
そういえば伊藤は高校や大学では何の部活に精を出していたのだろう。
僕はずっと音楽一筋で、大学卒業後は地元の楽器ショップで働きながら和田達とバンド活動を続けていた。レッチリのフリーの演奏スタイルに影響を受けたベーシストだった。
不意に訪れた退屈のせいだろう。就職するまで伊藤は何をやってきたのか興味が湧く。
気になった僕は、眠気に抗う目的もあって彼の名前を呼んだ。
「なあ、伊藤はさ」
凄まじい地響きが声をかき消した。
体が咄嗟に川の向こう岸を向く。
左岸の一角から爆煙が立ち上っていた。ここからはまだ距離があり、どこで何が爆発したかまでは認識できない。
「報告しろ!」
すぐに橋の上から小隊長の海部二尉が僕らに向かってそう怒鳴った。
僕にも何が起きているのか分からない。頭が混乱して言葉に詰まっていると突然、落雷に似た、大気を強引に引き裂く音が広場の頭上をかすめた。
次の瞬間、こちら側の岸に建つ商業施設の三階側面が爆発とともに吹き飛んだ。
地面の揺れと爆音が僕らを襲う。爆散した建物の細かな破片がここまで降り注ぎ、橋の上の車両に当たる金属音が辺りに響き渡った。
僕は咄嗟に目を閉じ両腕を曲げて重ね、肘の内側に顔を埋めて飛散物から防護する。鉄帽にも小さく硬いものが命中した音と衝撃がし、同時に焼けたコンクリート独特の薬品臭を含む灰色の靄のような煙が広場を包んだ。
「ミサイルだ」
咳き込みながらそう思った。
でも着弾したのは100メートル程後方。直撃にはまだ遠い。
「戦闘に備えろ!」
小隊長がぬさまい広場で警備をしていた隊員全員に叫び、間を置かず無線が使えない代わりの信号弾を頭上に発射する。
釧路川の空に赤い閃光が瞬く。赤い信号弾は臨戦態勢の合図だ。
僕らは階段を駆け上がった。橋の上に出ると、すでに配置に着いている隊員達の緊張した顔があった。
「大丈夫や、落ち着け。ミサイルは誘導弾やからここを狙ったんなら着弾してんと逆におかしい」
大野三尉が89式自動小銃を手に僕たちに言う。その姿が何故か一瞬、和田とだぶった。
僕は緊張と恐怖で呼吸が乱れるのを抑えようと、鼻から何度も深く息を吸っては、口からゆっくり吐き出す。
「いざとなったらお前らが頼りだぞ」
坂本三曹がLAMや、米軍から供与されたカールグスタフなどの対戦車装備を担いだ隊員に呼びかける。
「はい!」緊張した顔の伊藤が自衛隊員らしく鋭い声で返事をした。
僕らはまだ誰も口には出さなかったが、もしここに飛んできたミサイルが敵側のものだとしたら、その時は味方の釧路防衛の本隊が突破されたことを意味する。
ありえるのだろうか、あの大部隊が負けることなど。
自衛隊屈指の特殊部隊がいくつも投入されたのに。水陸機動団や精鋭中の精鋭と呼ばれる特殊作戦群まで。
僕はまだ半信半疑だった。
橋の向こうでは何も動かない。
ただ静かに遠くの市街地で黒煙が十月の青空へ、特撮映画の怪獣が立ち上がるようにぐんぐん伸びあがっている。
「え?」
突如、背後からバラバラと機関銃が掃射される音が耳に届き、振り向くと、50メートルほど後方から自衛隊では無い戦闘服を着た集団がこちらへ攻撃と前進を仕掛けていた。
十字路の角を左から次々と曲がって、敵の歩兵が湧き出し、あっという間に僕らの小隊の倍程の人数になる。
僕ははじめて目前に見る敵の存在に、手足の関節の動きがコンクリートに浸されたように突然鈍くなった。
体が、銃を構えたまま思うように動かない。呼吸と鼓動だけがどこまでも早くなり、乱れていくのを抑えられない。心臓が内側から激しく胸を叩き続ける。
完全な奇襲攻撃だ。
「敵襲!」
誰かが今さら悲鳴のように叫んだ。
「遮蔽物に隠れろ!」
大野三尉の怒声でやっと体が動く。
咄嗟に装甲車の背後に隠れようとした僕は、
「離れろ、装甲車が前に出る!」
89式で応戦する金澤分隊長に怒鳴られ、敵と味方の両方の掃射音が止まない中を死に物狂いで手近なトラックの陰に飛び込んだ。
橋の上は遮蔽物がほぼない。
長く戦うよりも敵の戦力を見て、敵が優勢と判断すればすぐ橋を全て爆破する手筈だったからだ。戦闘は本来の目的ではなかった。
装甲車には小隊長の海部二尉が車長として乗っているはずだ。
僕は、僕ではなく海部二尉が今、分厚い鉄の装甲で銃弾から護ってくれるクーガーの中の一席を占めている事が心の底から羨ましかった。
「ロケット弾で攻撃後、装甲車に続く!」
別のトラックの車体で弾を防いでいた大野三尉が声と手の動きで命令する。
大野三尉と同じトラックを遮蔽物にしていた小隊の三名が対戦車ロケット砲を肩に担いだ。後方に噴射される爆風を避けるため他の隊員が距離をとったのを確認した大野三尉が、再び合図すると、一斉にロケット弾を発射した。
弾は遮蔽物を上手く使いながら約30メートルの近距離にまで攻撃前進していた敵のど真ん中に命中する。
轟音と共に灼熱色の炎が歩兵を巻き込み、凄まじい爆風で引きちぎられて上半身だけになった兵士が自動小銃を手にしたまま、アスファルト片と一緒くたになって二階程の高さまで吹き飛ぶ。
遅れて、路上に、顔面の左半分が欠損して血塗れになった伊藤の死体が倒れていることに気付いた。LAMは他の隊員の手で回収されたらしく何も担いでいない。
伊藤の死体を見ても彼の死が信じられないのに、同時に僕の頭の冷静な部分が、「今はそれどころじゃない」と呟く。
「小隊長の装甲車に続け!」
大野三尉が叫んだ。
装甲車を盾に僕らから敵の方へ前進するのだ。
その命令が撤退ではなく積極的な戦闘を意味することを理解した瞬間、僕は、何か圧倒的な者の手で首根っこを鷲掴みにされた気がした。
思わずまた伊藤の死体を振り返る。
体が何かに凄い力で抱きつかれたみたいに硬くなる。
仲間が次々と両方のトラックの陰から飛び出し、すぐ僕の番が来た。
「何してる!行け!」
僕の背後で飛び出す番を待つ中江が、僕の肩を後ろから掴んで突き飛ばすように押す。
「早く行け!」
「何で」
僕は中江達が分からなかった。
何でお前はそんなに動けるんだ?
伊藤みたいになるのが怖くないのか?
「真木名!」
中江が叫んだ。
「俺だって死にたくない!でもここにいてもこれ以上後ろに退れない!」
その言葉で振り返る。
この橋の上にはもう、他に遮蔽物は何もなかった。
走れば辿り着けそうな距離に、さっき登ってきた階段がある。でも橋の下に逃げたところでそこにも遮蔽物になるものは何もなかった。
「なんだよ」
力が抜け、乾ききった口が開く。
前進する以外に道がなかった。
装甲車に続くより他に僕らに与えられた生き残る術はない。それが銃撃戦の中をあえて前進する唯一の理由だった。
鼻の奥に、塩辛い味が垂れてくる。
当たれば肉も骨も破壊される弾を撃ち合いながら進むことの恐怖を前に、僕は堪えきれずに泣いていた。
自分の防弾チョッキにセラミックのプレートが入ってないことが、あまりに理不尽に感じられた。たとえ重くてもいいから僕の分も調達して欲しかった。
そう思った時、釧路川の川上で巨大な建造物が崩落する音と大きな波の立つ音が続けざまにする。
僕も中江もその後ろの隊員達も、一斉にそちらを振り向いた。
爆破された旭橋と久寿里橋がいくつかのブロックに分解し、爆風に見える白波を巻き上げながら釧路川に沈むところだった。
巨大な建造物の崩壊が僕らの敗北を告げていると直感し、呆然としていた僕に、
「敷設科が上手くやった!これですぐに残りの隊員と特科が援護に来るぞ!」
中江が満面の笑みで告げる。
「本当だ」
僕は自分の錯覚を心の中で笑う。
あの二つの橋の崩壊は、そこを守っていた隊員達が助けに来るということだ。
敵の側面から攻撃を加えてくれたら、僕達はあの倍近い敵に勝てるかもしれない。
そう思った時、装甲車の重機関銃が掃射を開始する音がした。
空気を切り裂く鋭い重低音の連続。この音なら分かる。僕らのクーガーの12.7ミリ重機関銃のものだ。
続けて特科の榴弾砲がようやく撃たれたことを示す鋭い発射に続き、命中した敵兵と道路のアスファルトを粉々に吹き飛ばす力強い爆音が響く。
出るなら、今しかなかった。
僕は恐怖をかき消そうと可能な限り大声で叫びながらトラックの陰を飛び出した。
その瞬間、
「来るなッ!」
装甲車に続いていた隊員の誰かがそう叫んだ。
咄嗟のことに僕は反応が遅れる。一瞬立ち止まってしまい、体を反転させて引き返すことも、その場に伏せることもすでに手遅れだった。
目の前で真っ白な閃光が炸裂する。
直後、誰かに下半身を乱暴に後ろへ引っ張られた気がした。
「真木名!真木名!」
大声で呼びかけられて目を開く。焦点の上手く合わない視界に、大野三尉と中江の顔があった。
その向こうには黒煙の上がる青空が広がっている。
全身を打ったらしく、手足が痺れて言うことを効かなかった。
ゆっくりと焦点が結ばれる。大野三尉も中江も顔が煤にまみれていた。中江の頬からは血も出ている。
名前を繰り返し呼ばれ、それで意識がはっきりしてくると、自分の戦闘服や防弾チョッキが焦げ臭いことに気付いた。
「ロケット弾で攻撃してきやがった、二発同時に。先に榴弾砲に当たって、その爆風で装甲車を狙ったのがたぶん外れて」
力なく中江が教えてくれる。
僕は無事だった方のトラックの陰に横たえられていたらしく、車体と路面の間から、爆風で横転したトラックと榴弾砲の一門があったはずの場所が激しく炎上しているのが見えた。
クーガーはまだ重機関銃と共に前進している。吹き飛ばされてからいくらも経っていないらしい。
交戦はまだ続いている。
路上には他に三、四人の隊員の焼け焦げて動かない体が見えた。腹が裂けて溢れた内臓がこぼれている者もいた。
死んでいるようだった。
「あ・・・・・・」
中江が咄嗟に後ろに引っ張ってくれなかったら僕も今頃ああなっていたはずだ。中江に礼を言いたかったけど、今僕の目以外は、舌も唇も上手く動かなかった。
「諦めろ」
大野三尉は険しい顔付きで中江の肩を叩き、立ち上がる。そしてトラックの陰を出ていった。大野三尉のものだろう、銃撃の音がひとつ増える。
(諦める・・・・・・?)
そう思って僕は自分の体を目だけで見回した。
鉄帽をかぶっているので仰向けの状態でも頭が少し高くなっている。目を下に向けた時、自分の体の下半分がへその辺りから無くなっていることを知った。
信じられなかった。
失われるはずのない体の半分が、どこにもない。
いや、おかしい。
痛みを感じない。
体のどこにも感覚がなかった。
ただ、どす黒い血と真っ赤な血が混ざった不気味な色の血が、下半身があったはずの場所からこんこんと湧き出している。
「真木名、俺、お前になんもできない。本当にごめんな」
中江が妙に冷めた声でそう呟いた。
何度見ても、自分の体の下半分が無い事実が僕には信じられなかった。
死ぬ?
痛みも感じないのに・・・・・・?
死と痛みとが結びつかないのが騙されている気がした。
痛くないのに死ぬなんて受け入れられなかった。
何かにすがりつきたくて、何も考えられなくて、ただ呆然と中江を見る。
さっきまで合っていたはずの焦点がぼやけ、顔が全然見えなかった。
気付くと銃撃戦の音も隊員の叫び声も聞こえない。
あたりが信じられないほどの静寂に浸されていた。
戦闘はもう終わったのだろうか?
目の前には霞んで表情も分からない中江だけがいる。
と、彼は膝をつき、僕の顔をぐっと覗き込んでくる。
なぜそんなに近くで僕の目を見るのか分からなかった。
中江がふらりと立ち上がり、そのままどこかへ行ってしまう。
まだ本当は交戦状態が続いていて、彼もそこに戻ってしまったのだろうか。
敵の攻撃で負傷した僕を放って。
音も何も聞こえないのに。
僕の目には十月の青空の暖かい日差しだけが残っている。
新しい黒煙がひとつ、空に向かって静かに上っていく。
戦いはまだ続いているようだ。
もう何も感じないはずなのに、時々頬を撫でていく風だけが慰めのように優しかった。
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