PM 17:15 ~その頃の柚月~


 ――白瀬柚月は、高校二年生ながら、既に一人暮らしをしている。

 別に両親と折り合いが悪いとかそういうことはなく、単に、実家が高校から遠く、こうでもしなければ通うのが大変だからだ。人に言うと大抵驚かれるけれど、姉も高校時代、同じ理由で一人暮らしをしていたのもあって、柚月にとっては、そんなに特別なことをしている意識はない。

「ただいまー」

 『せめてお母さんだけでもついていこうか?』と心配する両親を説得し、学校近くのマンションに越してきてから一年。

 誰もいない家に帰ってくるのも、『おかえり』の言葉が返ってこないことにも、もう慣れた。さしたる感傷もなく、靴を脱いで中に上がり、自室に入ってカバンを置いて、それから。


「――あーああああー!! あああ、うあああー!!」


 壊れた。


 誰もいないのをいいことに、柚月は奇声を発しながら床に倒れ込んだ。頭を抱え体を丸め、じったんばったんゴロゴロビターン! と部屋中を転げ回る。制服のスカートがめくれて下着が丸出しになるが気にしていられない。今はパンツどころではない。

「あー、いや! もーいや!! なんであんな反応しちゃったの私はああああ!!」

 思い出したくもないのに、今日の放課後の出来事が脳裏に蘇ってきてしまう。恭二の前で、あっさり真っ赤になってしまったこと。


 ――本当は、男子と付き合ったことなんてないって、それどころか親しく話をしたこともないんだって、バレたかもしれないこと。


「だめ、だめよ、それだけはだめ……!! この三年間、苦労して築き上げてきた私のイメージが!!」

 床に這いつくばったまま、柚月は『あー!』と頭を掻きむしる。散々転げ回ったせいで制服はしわくちゃの髪はボサボサ。これはこれでイメージが崩壊しそうな絵面だったが、ここには誰もいないので別にいい。

 問題は。

「うぅぅ……! なんで!? なんでよりによって真山くんなの!?」


 ――恭二は覚えていない様子だけれど。本当は、柚月は彼を知っているのだ。高校で再会する、ずーっと前から。


 柚月にとっては、何年経っても忘れられない……初恋の相手。


 出会いは小学校低学年。その日、柚月は体調を崩して、保健室のベッドを借りていた。

 『彼』は。柚月の使うベッドの隣、気持ち良さそうに、すやすやと眠っていたのだった。

 最初は、よく寝てるなーと思って見ていただけ。気分は悪くてもなかなか寝付けなくて、退屈だったというのもある。

 でも、眺めているうちに、その子が目を覚ましたのだ。しっかり目が合ってしまって、なんだか、ものすごく恥ずかしくなってしまったのを覚えている。あの時の自分は、さぞ真っ赤な顔をしていたろう。

『君も、具合悪いの? 大丈夫……?』

 それが、初めて交わした言葉。

 彼は、生まれつきあまり体が強くないらしい。あまり授業も出られなくて、大抵は保健室にいるのだと言っていた。……一人で、寂しいのだとも。

 だから、柚月は休み時間、暇を見付けては、保健室にお見舞いにいった。名前を聞いて、学年もわかって――聞いてみたら一つ下でびっくりした――色んなことを、話すようになった。

 彼と話していると、柚月は妙に、ソワソワした。他の誰とも違う、ふわふわと落ち着かない感覚。でも、決して嫌じゃない気持ち。


 つまり……恋心、的な。


 何よりもドキドキしたのは、一緒にいると、恭二も同じ気持ちでいることが、なんとなく伝わってきたからだった。目が合うと、赤くなって、逸らす。でも顔を見ていたくて、何度も視線をやる。ちょっとでもそばにいたいのに、隣にいると、近付いた肩がとっても熱い。


 初恋だった。はしゃいでいた。浮かれていた。


 ――要するに、自分はとんだお子様だったのだと、今となってはよくわかる。


『えっと……ご、ごめんね。僕も、君といるのは楽しいけど……僕たちは、まだ、子供だし。す、好きとか、そういうことは、まだ早いんじゃないかな……』


 忘れもしないあの運命の日。『話したいことがあるの』って、約束したとおりに足を運んだ保健室。「好きです」、と目一杯の勇気で告白した柚月に、あの男は無情にもそう言ったのだった。


 柚月は生涯忘れはしないだろう。あの日の怒りを、悔しさを。生まれて初めて、他人様の顔面を思いっきりぶん殴りてえと思ったあの瞬間を。

 しかし、柚月がちょっとショックで不登校を煩っている間に、にっくき真山某はなんと転校してしまったのだった。柚月の怒りを察して逃げたのかもしれない。本当に最後まで腹立たしい。

 その屈辱の体験が、幼かった彼女を一つ『オトナ』にした。

 以来、柚月はそれまで以上に猛勉強に励み、同時に、苦手だった運動を克服するべく努力を始めた。地味そのものだった見た目にも人一倍気を遣うようになり、大嫌いなピーマンだって食べられるようになった(好きになったとは言ってない)。全てはもう二度と、あんな屈辱を味わわないために。


 そうして高校生になった現在。努力の甲斐あって、もはや柚月を侮る人間はどこにもいなくなった。誰もが彼女を褒めそやし、尊敬の眼差しで見つめる。男子から告白されたことだって数え切れない(たまに女子からも告白される)。

 ……とはいえ。もう、恋だの愛だので一喜一憂するほど子供ではなかったから。そういうのものは、全て断ってきたけれど。


 これぞ、ずっと目指し続けた完璧な自分。理想通りの毎日に、柚月は大いに満足していた――あの男が、同じ学校に入学してくるまでは。


「つーかあいつ、なんで私のこと覚えてないのよおおおお!! そりゃあ確かに!?  あの頃の私は地味で目立たなくて勉強しか取り柄がないダッサイ眼鏡の小娘だったけど!? だからって名前言っても思い出さないってどゆこと!? 私、告白したじゃない! 告白したのに!! なのにあいつにとっては、覚えてるほどの出来事でもなかったってわけぇぇぇぇ!?」

 うああああ、と。激情をぶつける先もなく、その辺のクッションをひとしきりこねて、ねじり回して。

 そこでパタッと、柚月は勢いを失った。座り込み、さっきまで散々無体を敷いていたクッションに顔を埋める。亀のように小さく丸くなって、ぽつりと声を零す。


「………………初恋、だったのに」


 言葉はクッションに吸い込まれて、誰の耳にも届かない。

「ま、まあ!? 昔の話だけど、所詮は!? あんな地味で特徴なくてなんかいつもクールぶってでもたまに見せる笑った顔が妙に優しかったりなんかしてよくよく見たらちょっとカッコイイかもしれないと思わなくもない奴、どうだっていいけど!!」

 訪れる沈黙を振り払うように、柚月は再び顔を上げた。自分の言葉に自分で煽られるように、萎んでいた怒りがぶり返していく。あるいは意識して、そうする。

 だって本当に、もうあんな男のことなんて、どうでもいいのだ。好きだったとか言ったって、そんなものは遙か昔の黒歴史。もうとっくに、破いて丸めてゴミ箱に叩き捨てた記憶だ。だからこそ、高校で再会してからも、柚月は知らぬ存ぜぬを通して、初対面の体を装っていたのだし。

 ……別に、向こうが全然覚えてない様子だったから、言い出すのが躊躇われたとか。いざ言ってみて、『誰だっけ?』とか言われたらどうしようとか、そんな理由で黙っていたわけじゃない。決して。断じて。

 自分とあの男は最早他人。ただの先輩と後輩。それだけなのだ。そういう設定で行こうと、そう思って。


 ――――――――でも、あの一言は無視できなかった。


「そもそも何よ、あの言い草は!! なーにが『告白って勇気がいるものだと思う』よ!! 人のことは振ったくせに!! 私の告白は断ったくーせーにー!!」


 だから、やり返してやろうと思った。


 あいつが自分にそうしたように。自分もまた、彼の告白を綺麗さっぱり断ってやろうと。『そういうのはもっとオトナになってからにしましょうね』って、鮮やかに優雅に微笑んでやって。精々恥ずかしい思いをすればいいと。


 そのはず、だったのに。


『――先輩、好きです。俺と付き合ってください』


「きゃー!!!! きゃーあ!! きゃああああ!!!」

 突然、わけがわからなくなって、柚月は叫んだ。とにかくじっとしていられなくて、手の中のクッションにボスボスボス! と拳をねじり込む。

「違う違う違う! 別に照れてなんかない照れてなんか!! うみゃああああ!!」



 ボロ雑巾と化したクッションを壁に叩き付け、柚月はなおも唸る。吠える。このままでは済まさない、と、暴れ猛る感情のまま。

「見てなさいよ、真山恭二……!! もう私は、あの日の私とは違うんだから!! 完璧な美人に成長したこの私を見て、自分がどれだけもったいないことをしたか思い知ればいいんだわ!!」


 ――そう。こうなったらもう他人の振りなんてしてやらない。

 吠え面を掻かせてやる、今度こそ。

 そのためのプランは、もう、考えてあるのだ。

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