第二話
「よう、真山。どした? なんかいつも以上に目が死んでっけど」
――HR前の教室。横の席から話しかけられて、恭二は視線をそちらに。
朝っぱらから失礼な物言いの主は、クラスメイトの青柳寅彦。通称はトラ……といっても、そう呼んでいるのは、恭二が知る限り一人だけだけれども。
染めた髪に着崩した制服。吊り目気味の目付きも相まって、見た目の印象はシンプルに怖そう。そしてガラ悪そう。
とはいえ、不良っぽいのは外見だけで、話してみれば普通にいい奴なのだった。
その証拠に、
「……ひょっとして体調悪いか?」
律儀に潜めた声は『体が弱いことをあまり知られたくない』という恭二の意を汲んだもの。
寅彦との付き合いは、入学当初まで遡る。恭二が保健室で休んでいたところに、怪我をした寅彦が来て、偶然鉢合わせたのだ。
以来、隣の席のよしみもあって、寅彦はちょくちょく、恭二に声を掛けてくるようになった。
とはいえ、今日のように体調を心配されることはむしろ少なく、大半はどうでもいい雑談が占めるのだが。
「……別に、いつも通りだよ」
「あ、そ。なら、いいけどよ」
あっさり会話を終わらせて、寅彦はスマホを弄り始める。「じゃあ最初から聞くな」と言いたくなる雑さだが、そのほうが、恭二にはかえってありがたい。寅彦が変に気を遣わないからこそ、こうして友人付き合いを続けられている節もあるのだ。
体が弱いからと、だから親切に『してあげなくちゃ』と。そんな風に、腫れ物に触るように遠巻きにされる生活は、中学で懲りた。
だから高校では、体質のことは誰にも知られるまいと決めたのだ。担任にも口止めを頼んでいるため、しょっちゅう教室からいなくなる恭二は、クラスメイトから不良だと思われ、それとなく距離を置かれていた。おかげで寅彦以外に声を掛けてくる人もいないけれど、むしろ好都合だと思っている。
何もかも、普段通り。代わり映えのしない、いつもの教室、いつもの朝。
……でも、不意に思い出してしまう。いつも通りでなかった昨日のことを。きっかけになったのは、横にいる寅彦だ。
(そういや……体のこと、トラに話す羽目になったのも、先輩のせいだったっけ)
恭二は風邪で済ませようとしたのに、寅彦が恭二のクラスメイトと知るや、居合わせていた柚月がお節介を焼いてくれたのだった。『余計なことを』と恭二は結構本気で文句を言ったものだが、柚月は微笑んで、動じもしなかった。
その、思い出の中の笑顔が、昨日の真っ赤っかに塗りつぶされる。こうして思い返しても、夢でも見たんじゃと思うほど、柚月らしからぬ顛末。
それが気にならないかと言えば、もちろん大嘘だったが。
(……でも、俺には関係ないしな。どっちみち)
気になるからと言って、あれこれ詮索できるような間柄でもない。
自分と彼女は、ただの先輩と後輩。部活や委員会が同じわけでもないのだ。彼女にとってみれば、恭二なんて、たまに保健室で顔を合わせるだけの、その他大勢の一人に過ぎないんだろう。
だから――忘れたほうがいいのだ。余計なことは、全部。
「……おい、真山。おいって」
ぼんやり窓の外を眺めていたら、ちょいちょい、と寅彦に肩をつつかれた。『今度はなんだよ』と、恭二は投げやりに振り返ろうとして、
「おはようございます、真山くん」
にっこりと、花綻ぶような優雅さで、目の前の顔が微笑む。ここにいるはずのない人が。
『は?』と、思わず声が出そうになった。というか出た。
「……何してるんすか、先輩」
「決まっているじゃありませんか。……会いに来たんです、真山くんに」
ふふ、と、露骨に思わせぶりなトーンで、柚月は笑ってみせた。教室のざわめきがひときわ大きくなる。クラス中の注目を集めていることに今さら気付いて、居心地の悪い汗が背筋を垂れた。
どう考えても目立ちまくっているのだが、柚月は気付いていないのか――それとも、わざとなのか――ゆっくりと、恭二に顔を近付けてきた。そして。
「……ここではなんですから、二人っきりで」
わざわざ顔を寄せてきたくせに、その声はちっとも潜められてはいなくて、周りで聞き耳立てているクラスメイトにはきっと丸聞こえだったろう。さすがに焦って、恭二は飛び上がるように席を立つ。
「ちょっ……! 妙な言い方やめてくださいって……! 別に、用があるってんならここで……」
「あら。いいんですか、ここで話してしまって」
とん、と指先を唇に添えて、柚月は優雅に大人の微笑。さらにざわつく周囲。止まらない背中の冷や汗。
「わ、わかりました……! じゃあ、ほら、早く行きましょうって!」
「急かさないでください。心配しなくても、時間はまだありますから……ね?」
『お騒がせしてごめんなさい』、と、柚月は周りのクラスメイトに一礼。自身に集まる視線を気にもせず、悠々と教室を出て行く。
一人で残されてはたまったものじゃない。急いで、恭二も後を追いかけた。
◆◆◆
柚月に連れられて、やってきたのはいつもの保健室。
都合のいいことに、養護の先生は不在だった。部屋に入ってドアを閉めて。誰にも聞かれる心配がなくなったところで、教室では言えなかった不満をぶつける。
「あのですね、先輩!! なんなんですか、さっきのは!! 人をからかうのも大概にしてくださいよ!!」
「人聞きが悪いですね。からかったつもりなんてないのに」
「どこが!! あからさまに悪意あったでしょうが、あの言い方! どうすんですか! 絶対変な誤解されましたよ、あれ!!」
「構いませんよ。私は、真山くんとなら。……なんなら、誤解ではなくしてしまいましょうか」
微笑む柚月は、心なしか満足げに見えた。その余裕たっぷりの態度に、恭二もようやく気付く。なんか思ってた流れと違うことに。
「いや、あの……それはどういう……」
「『本当に、付き合ってしまいましょうか?』と、言っているんですよ」
くすくす、と笑う柚月の顔を、間抜けに見返す数秒間。その言葉が昨日のやり取りを指していると理解して、『はぁ!?』と心の底からの驚きが漏れる。
「……そんなに驚くことですか」
「いや驚くでしょう!? 普通は!?」
「あら、意外ですね。昨日は、あんなにねちゅれつに告白――」
「……噛みませんでした?」
「噛んでいません。幻聴です」
なんか食い気味に言い切られた。
恭二が疑わしげな目をしていることに気付いたのか、柚月は「やれやれ……」みたいな顔で、ファサッ、と髪を一払い。
「あら? 昨日は自分で言い出したのに、今さら取り下げるんですか? ひどい人ですね……女心をもてあそぶなんて」
「そ、そういうつもりじゃ……っていうか、先輩こそいいんですか。俺と、その……」
「私は構いませんよ? そう言っているじゃないですか」
「か、構わないって……そんな簡単に」
「ふふふ、考え方が固いですね。むしろ古いですねー。まあ? 真山くんは私と違って未経験のお子様ですから? いざとなったら尻込みしてしまうのも仕方がないかもしれませんけど!」
何がおかしいのか、柚月はそりゃもう機嫌良さそうに『うふふふー』と笑う。
明らかに、かつ唐突に、全力で小馬鹿にされていた。
そうなると、恭二としてもさすがにカチンと来るわけで。
「いいですよ。そういうことなら、私が手取り足取り、オトナの階段というものを――」
「へー。じゃあ、モテなくて可哀想な俺のために、先輩がキスとかしてくれるってことですか? わー、先輩ってばちょー優しいー。大人ー」
「えっ」
すごい勢いで両目を見開いて、柚月がこっちを凝視してくる。今にもぐるんぐるんとその目玉が回り出しそうなほど、顔中に焦りと困惑が見て取れた。
……別に、今のはただの売り言葉に買い言葉的なもので、恭二だって本気じゃない。
でも、さすがに子供っぽすぎたとは思った。我に返ったら急速に後悔と恥ずかしさが襲ってきて、恭二は気まずく目を逸らす。
「いや……すみません。今のは冗談みたいなもんなんで――」
「い、いいでしょう! わ、わた、私はオトナですから!! ま、ままま、真山くんがそこまで頼み込むのなら、お願いを聞いてあげましょう!」
『ぐい!』と襟を引っ張られて、「ぐえっ!?」と思いっきりよろめく。
「ちょっ、何す――」
文句は、口にできなかった。
目の前に、柚月の顔があって。
ガチ、と、わかりやすく全身が固まる。慌てて身を引こうとするけれど、柚月がこっちの制服の襟をがっちり握っているせいで、身動きが取れない。
何より――あまりにも、近すぎるから。下手に動くと、目の前の綺麗な顔に、触れてしまいそうで。
「な、なん、ですか……!?」
「暴れないでください!! 狙いが定まらないでしょう! 口を閉じて! じっとして! 大人しく! いいですね!?」
叫ぶ柚月の顔は文字通り真っ赤だった。肌をほてらせる熱が、こっちにまで伝わってきそうなほど。『ヒーターみたいだな』と、ラブの欠片もない思考が脳裏を過る。こんなラブコメみたいなシチュエーションなのに。
というか。
「大人しくって……ちょっ、なんすか!? 何しようとしてんですか!?」
「だ、だから“きちゅ”を――ちが、じゃなくて“きしゅ”! き……きっ……! ああ、もう……!!」
今にもキスしそうなほどの至近距離で、柚月の愛らしい顔が猛烈に歯噛みする。顔の火照りはいよいよ増して、爆発寸前の溶鉱炉を思わせる赤さになっていた。
「とにかく『きしゅ』です! きしゅするんです! 真山くんがそう言ったんでしょう!」
「いや、そんなことは一言も――ぐふっ」
冷静に指摘したら首を絞められた。プロかと思うほど鮮やかな手捌き。あれ、『経験がある』ってそういう?
しかも。こともあろうに、そのままの体勢で顔を近付けてくるものだから、恭二は色んな意味で、色んなことに抵抗する。
「ちょっ、やめっ……襟、せめて襟を離してくださいってば……!」
「うぅぅ……なんですか! さっきからうだうだと! きしゅしてほしいと言ってきたのは真山くんのほうでしょう! そ、それとも……私ときしゅするのは、そんなに嫌だとでも言うんですか……!?」
じわりと、柚月の目の縁に光るものが滲んだ気がして、恭二は動きを止めた。藻掻くのをやめて、瞬きすらも忘れて、思わず、柚月の顔を見つめてしまう。
でも、何かを考える余裕を、柚月は与えてくれない。これまで以上の力で襟を引っ張られて、ただでさえ近かった顔がより接近する。
それは。その瞬間だけを見れば、きっと。いかにもな、キスシーンに違いなくて――。
直後。そのいかにもな空気を叩き壊すように、予鈴が鳴った。
「……今日のところは、このくらいにしておいてあげましょう」
「……好きですね。その台詞」
「ですが! 大目に見てあげるのは今日だけですから!」
づびし! と鼻先に指を突きつけられて、後ろにひっくり返りそうになった。
仰け反る恭二を見据えて、柚月は言う。態度だけは堂々と。しかし、顔は真っ赤にしたままで。
「いいですか、真山くん。昨日のあれは、何かの間違いですから。べ、別に、真山くんにしゅしゅしゅ……」
ぷしゅぅ~、と、柚月の頭から煙が噴き上がった(ような気がした)。
「しゅっ、好きと言われたから、照れていたのではありません!!」
「は、はぁ……」
「あ、あんなことで動揺なんて、普段ならしないんですから! 勝った気にならないでくださいね! いいですね!?」
どこからどう見ても限界ギリギリの赤面顔で『キッ』と見据えられ、他に答えようもない。
「私が、ちゃんと『オトナ』なんだということを、きっちり証明してあげます! 明日から、覚悟しておいてくださいね!」
それは多分、宣戦布告とか、そういう類いのものだった。
肩で風きって――というにはそそくさと。逃げるように去って行く柚月の姿は、普段の落ち着き払った態度とはまるで別人。おかげで、告げられた言葉も、つい先ほどの顔の近さも、何もかも現実味がない。まるで、夢でも見ていたみたいだ。
だから恭二はまだ気付かない。明日から自分の身に何が起こるのか。柚月が告げた『覚悟しろ』という宣言の意味を。
――ちなみにその後。柚月に置いて行かれる形になった恭二は、無事HRに遅刻した。
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