第110話 ※心が三つ、動き始めます。

 プールサイドの中では珍しく人気ひとけの少ない一角。



「石徹白さんっ……!」



 そこにぼうっと佇んでいた少女の背を視界に捉えたトオルは、僅かに息を切らしながら声をかけた。



「さ、さっきの答え、いいかなっ──」



 もちろん、彼女──石徹白さんから伝わってきた想いに対する回答を返すためである。



「ひ、日並くんっ……!?」



 まさか追いかけてくるとは思っていなかったのか、こちらを振り返った石徹白さんは目を丸くしながら驚いていた。



「答えって……な、何のこと……?」



 とぼけた様子で尋ねてくる彼女だが、露骨に目を泳がせているあたり、全く心当たりが無いというわけではないだろう。


 トオルはゴクリと唾を飲み込むと、



「俺だって、あれだけされて気づかないほど、鈍感じゃないからっ……」

「っ!」



 細かいことは何も考えずにそう言い切った。


 石徹白さんは、これまた驚いたように口を開くと、顔を赤くしながら視線を逸らす。



「だからっ、あれは、からかってた、だけでっ……」



 素直では無いのか反論を試みてくるも、その言葉は途切れ途切れで、まるで説得力はない。



「石徹白さん……」

「うっ……その、あのっ……!」



 好意を向けられていることを確信しているからか、慌てる彼女もどこか愛おしく思えてきてしまう。


 トオルは未だ緊張しながらも、暖かい目でその焦りっぷりを眺め、



「だ、だったらっ、なんなのっ……!?」



 やがて、逆ギレするかのごとく観念した彼女に、思わず苦笑しそうになるのを堪えると、



「そりゃ、もちろん……」

「ぴ!?」



 一歩、足を前へと踏み出した。


 必然、彼我の距離は縮まり、石徹白さんは情けない声を漏らす。



「待ってっ……」



 彼女は呼応するように後ろへと下がっていくが、



「あ、ぅ……」



 少しすれば壁際へと追いやられ、ただただ可愛らしい呻き声をあげることしかできなくなっていた。


 ここまで来たら、後はトオル自身が勇気を振り絞って、このもどかしい時間に終止符を打つだけだ。



 ──よ、よし、やるぞっ……!



 両手を前に上げようとした瞬間、石徹白さんは目を閉じ、プルプルと震え始める。


 つまり、選択権は委ねられ、その小さな身体を抱きしめるのも、柔らかい唇を奪うのも、トオルの漢気次第になったと言えるだろう。



 ──ついに、俺にもこの時が。



 苦節十数年、恋人ができる気配などまるで無かった自分に、こんな可憐な美少女と付き合える機会が訪れるとは。


 きっと、ここを逃したら一生ご縁など無いに違いないと、さらに距離を詰めたトオルは彼女の白い肌に触れようとし、



 ──あれ。



 しかし、文字通りのゼロ距離まで迫ったその時、不可解にも指一本動かせなくなってしまう。



 ──なんで。



 突然の事態に自分でも何が起きたのか分からず、中途半端な体勢のまま固まるトオル。



「日並、くん……?」



 当然、不審に思った石徹白さんは恐る恐る目を開くと、心配そうにこちらを見つめてくる。


 何かを言わねばと心は焦るも、中々言葉が思いつかず、



 ──ああ、そうだ。



 さらに少しして、ようやく原因に当たりがついた。



 ──友戯が、いる。



 頭の中に浮かぶ、トオルにとって一番と言ってもいい親友にして、決して放って置くことのできない寂しがりな少女の姿。


 今こうしている間も、どこかで一人しょぼくれているのかもしれないと思うと、とても穏やかではいられなくなる。



 ──やっぱり、駄目だ。



 もし、このまま衝動に身を任せて石徹白さんと恋人になろうものなら、きっとあの子のことを不幸にしてしまう。



 ──いいじゃないか、彼女なんかできなくったって。



 ほんの一瞬、かといってここで諦めるのは勿体ないという感情が湧き出てくるも、すぐに振り払った。


 一緒に趣味を楽しめる可愛い友達がいて、それだけでも自分のような人間には充分過ぎると、そう思ったからだ。



「あ、えっと──」



 そう結論づけたトオルは申し訳なく思いつつも、断りの言葉を伝えようとし、



「ふーん……やっぱ、そうだよね」

「──えっ」



 直前に、石徹白さんが先手を打ってきたことで遮られてしまった。


 もう何度か見たジトッとした視線によってたじろがされるトオルに、



「遊愛ちゃん可愛いし、ゲームも得意だし、毎日家に来てくれてるみたいだし、小学校からの付き合いだし、そりゃそっかって感じ」



 石徹白さんは止まることなく、追撃を加えてくる。



「い、いやっ、友達が異性として好きだからとかじゃないよ!?」



 これに、何か勘違いをしていることを悟ったトオルは急遽反論に出ると、



「ただ、もし石徹白さんとそういう関係になったら、友戯が落ち込むような、そんな気がしたからってだけでっ……」



 告白を断る理由としては怪しいのではないかという理屈で答えた。


 とはいえ、実際そう思っているのは事実なので、どう罵られようが受け止める覚悟をしたのだが、



「うん、分かるよ。たぶん、当たってるし」

「え」



 石徹白さんは怒るどころか、まさかの同意を示してくる。


 予想外の事態に困惑するトオルだったが、一方の彼女はそれを見てくすりと笑うばかり。



「というか私だって……ううん、私の方が遊愛ちゃんのことずっと大好きだし、そのくらい分かってるよ。もちろん、私たちが付き合っても上手くいかないだろうなーってことだって」



 そして、そんなトオルのことを置いてけぼりにするように、彼女は少し皮肉げにそうぼやくと、



「だからさ──」



 改めて、真剣な表情で目を見据えてくると、



「──今日のこと、忘れて……?」



 何ともないような顔で、でもどこか寂しげな声色を滲ませながら、薄く微笑みを浮かべるのだった。









 真っ暗な視界に、こもった音。


 膝を抱えながら水中へと沈んだ少女は一人、思考という名の海へと潜っていた。



 ──私、あんな風に思われてたんだ。



 大切な友達の会話を盗み聴きして得られた情報に、この場に来た頃の高揚はすでにない。


 ただ、今自分がそうなっているのと同じく、心は深く沈み、周りを取り囲む水と同じように冷えきるばかり。



 ──でも、その通りだ。



 ただ実際、彼らの言葉が間違っていないことは、自分自身が一番理解していた。


 二人が密会していただけで、心がささくれ立ったのだ。


 もしあのまま、日並が抱きしめ、二人が結ばれるようなことになっていたら、きっとルナに対して嫌な感情を向けていたことは想像に難くない。



 ──最低。



 なぜ彼女がここにいるのかだとか、日並の本心はどうなのだろうかとか、気になることは山ほどあった。


 しかし、そのどれよりも、今は自身の中にある独占欲や嫉妬心に対する気持ち悪さが勝ってしまっている。



 ──もし、私がいなかったら。



 きっと、二人は何を迷うことなくプールへと出かけて、仲を深めた後、結ばれていたに違いない。


 その先がどうなるかに保証は無いが、あの二人のことだ。


 多少のいさかいはあっても、上手くいくことだろう。



 ──ごめんね、ルナ……。



 そして、何より遊愛を傷つけていたのが、親友であるはずの少女に対する自身の扱いがあまりにも軽すぎたということだった。


 彼女は遊愛のことをあんなにも大切に思ってくれているというのに、自分は口を開けば日並日並と、彼女のことをないがしろにしていた事実に今さら気付かされたのである。


 きっと、彼女の好意に甘えていたのだろう。


 彼女なら無条件に愛してくれるに違いないと、そうたかをくくっていた自分に酷く罪悪感を覚える。



 ──変わらなきゃ。



 鬱屈とした感情に一通り苛まれた遊愛は、そこでようやく目を開くと、このままでは駄目だと眉を釣り上げて今までの自分を叱った。



 ──日並から、卒業する。



 これまでが依存しすぎだったのだ。


 友達として、節度のある付き合いを心がけるべきだろうと、自身の浮かれっぷりを拭い去る。



 ──ルナへの恩返しも、する。



 貰った分を返すのは当然のことである。


 今度からは彼女のことも遊びに誘って、たくさん構って、そして日並との恋路も応援してあげようと、そう心に決める。



 ──うん、そうしよう。



 決意を新たにしたところで、ちょうど息の限界がやってきた遊愛は、水面へと浮上し大きく呼吸すると、



 ──大丈夫、きっとできる。



 心の奥に走った痛みに蓋をして、再び彼を探しに戻るのだった。








 かくして、楽しく賑やかになるはずだった、プールでの一日。


 そんな、ひと夏の思い出が刻まれるべき大切な日は、思春期の複雑な思惑が入り交じった結果、それぞれの心に大きな波紋を残して終わった。

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