百合について

朝川渉

第1話 花の香り

 女性が服を脱いでいくのをわたしは凝視していた。白いシャツがめくれて彼女の肌が露出していくのは未だ痛々しくて、目の前で、何かシーツが裂けていくような音が聞こえてきそうだった。

彼女と同じ部屋にいる私は今すぐにやめて、と言ってしまいそうになる。けれどそれを見ているとき、自分のなかで刻一刻と変わる感情がまるで何かのアトラクションのように目まぐるしくなっていくことに、もう既に興味津々で身を委ねてる心地が確かにあった。そうして、あっと思っているうちに背中が現れてしまう。わたしは自分の姿も、ここへ来た理由も忘れてしまってただその可哀相なままで出現させられた肌に見入っていて、なぜかそれをきれいだと感じていた。


女の人は、きれいだ。誰かが置き忘れていったのに、未だ輝くのをやめないナイフみたいだ。それにこんなに、居るだけなのに可哀想な存在だった。


さなさんのすぐ近くでベッドに腰掛けて、横目でなのにそれをしっかりと見つめていたわたしは多分、すこし広い社会に出たばかりでその開放感にすぐ陶酔してしまう、明るさと素直さだけしかない大学生の男の子みたいで、未だ愛とか、恋とか、何も分かってないままで自分の感情に圧倒されかかっていて、…それなのに向こう見ずにも今すぐに彼女を抱いてあげたいと感じている。でも、ベッドの正面の壁についている鏡を覗きこむとそこには化粧気のない女の顔があった。わたしはなんだか、おかしな気持ちになる。






わたしがさなさんに会ったのはインターネットのブログが最初だった。


そこはいろんなブログが集約されている場所で、わたしがその場所を知ったのは大学2年生になってからだった。そこにはアクセス数を稼ぐものや物語調のもの、いろいろなものがあり、わたしはそこでダイエットのブログを書いていた。まったくアクセスなどがつかないまま、それはすぐにわたしにとっての日常を確認するだけの場所になり、そのうち普通の日記なんかも書くようになったが、わたしは知らなかったのだが、そのサイトにはあらかじめいろいろな機能が付いていて、たった一つのその機能さえ知れば自分の知りたいことを、知りたいと感じる以前から手元へと飛び込んでくるようになっている。気付くと、たったひとつの日常が、碁盤の目のような可能性を持ち、それが色んな場所へ繋がっていくのだということを知った。

そこで知ったさなさんという女性が書いていたのは普通の日常をつづるブログで、「sata」というハンドルネームを使っていた。特筆すべきは、男性とも女性とも取れるような感じでさなさんは居たことだった。さなさんは、他の人とコメントを交わす時もはじめから女らしさを感じさせなかった。数カ月経ちわたし達がメールを交わすようになってからさなさんの正体がやっとわかった。離婚歴のある、40代の女性。でもそう分かった時にはもう既に遅くって、わたしの中にはたっぷりと異性としての他人の感情が染み付いていた。


「今日、◯に行って◯を食べてきました」


さなさんはほぼ毎日、日記に写真を載せる。その写真で初めて見た彼女の手も綺麗だった。今思えば腕にも指にもアクセサリーだって付けていたし、月のものの話も出ていたようなのにそれでも同性だと思わなかった自分はどうかしていると思う。

さなさんは最初わたしに名前を教えるのを渋った。さすがに会うとなったら本名を知りたいと思うのが普通だが、わたしがかたいっぽうからそれを理由に押し切って知ったのは「早苗」という名前で、それはどう考えても女でしかありえないし、考えるとずっと不自然にその箇所を避けるような言い方しかしていなかったさなさんは自分の正体を受けわたすことでわたしの興味がなくなるのが怖かったに違いない。へんな人だ、と思う。さなさんは無意識で、女も男も常時誘ってるように思えていた。


わたしが、今もさなさんに抱くイメージはこうだった。たとえば、広くて深い、昼間でも暗い森。その森は水分をはらんでいて、草地はいつも濡れている。なつかしい感じがするのに、普通の人ははじめはそこへ入ろうとはなかなか思えない。その中にはたくさんの見たことのない生き物がいて、ここからは見えないが一度はまると帰ってこられない異世界への扉が開いている。それを、普段はだれも感じ取れないのだが、例えば仕事で打ちひしがれてるとき、親戚が死んだ時なんかに足を運ぶようなとき、ひとは人生を反芻しながら歩く。・・・ただ、自分のためだけに歩く。そうすると感情はいつのまにか深々と重みを増していて、自分はもしかすると死んだんじゃないか、と思えてくる。ー感情の最果て。そんなふうになって知ることがごくたまに、大人になってからはある。孤独になりたいけど、本当は一人では、いやで。そんなふうにして来た場所で辺りを見回すと、なぜか、そのなかである場所だけ光っているようなのが、いやに目に付くのである。(おや?)とわたしは思う。これは何だろうと。ここには何かある。「わたし」でなくて、「ここ」が誰か、何かを引き入れようとしているーーーー


さなさんの、ブログに書いてあるのはこまごまとした日常のこと、それからさなさんがそれに対してどう感情を変化させたのかということで、誰かに投げかけているようなものではない。そこにいつも控えめに写真が載せられていた。別に誰かの心を掻き立てるようなことを書いてるわけじゃないけれど、それなりにアクセスもあったみたいだ。さなさんはそれをいつもなんの感慨もなさそうにあしらう。

実際、さなさんは現実世界でも引く手数多なんだと思う。なんだかそんなにおいがする。皆勝手に摂らされるもの、ではなくて、こういう自然に漂ってくるようなものが好きなのだ。思わず、奪いたくなるようなもの。


わたしがさなさんと会うと決めてから数日間、わたしたちはずっとメールをし合っていた。そのときにそれとなく、さなさんが男だと思い込んでいて、しかも好意を抱いてたことを告げてみた。今思えばそれは気まずさからした暴挙だったし、完ぺきに自分のキャラクターを逸脱していたと思う。「もう絶対、きれいな人なんだと思ってます!期待しておしゃれしていきます☆」わたしはメールを打つ。すぐに「やめてください笑」とメールが返ってくる。ばかみたいだと思う。わたしは全てこの、寂しそうな人にあてつけようとしていたのだ。

さなさんはどう思っているんだろう。好意を抱いてた過去のわたしをどう処理しようとしてるんだろう。そう考えると、ウインドウの向こうのわたしの心の奥底で意地悪な気持ちが湧いて来ていた。


五月にしては肌寒い、明るい日曜日に駅前で待ち合わせて会ってみると、さなさんは万人から美人と言わせるほどではないけど、でも充分均衡のとれた姿をしていた。いや、というか始めは「ふーん」と思ったのにだんだんときれいに見えてくるのが不思議で、さなさんは多分そういう特徴をしていた。鼻と顎が細くて、他は丸っこいのにそこだけ尖っている。染色するまえの人形みたいな雰囲気がある。もっと化粧をすれば華やぐのにしないのは、どうしてだろう。何か幸が薄そうに見える。

「もてるでしょう」

わたしはふざけて言う。本心からだった。多分、男の人だったら五人に三人くらいはこういう人をセクシーだと言うのだろう。


「まさか」さなさんは答える。「わたしそんなにきれいじゃないし」


「絶対、もてると思います。男の人が好きそうな感じがする」


飲むために入った店でわたしはチューハイをぐいっと飲み干す。またやってる。さなさんは遠慮するそぶりを見せる。わたしは高校生のころに男性経験ももう終えていた。たぶん、容姿にもまあまあ自信があった。大学生のころはやりまんとも言われていた。本当にそれを望んでいたわけじゃないけど、否定をするのも面倒くさいままノリでそういうことになっていた。

わたしはあまり化粧をせずどっちかというと女らしくない感じの出で立ちで来ていた。ベージュのコートに、短くカットした髪の毛。それからピアスを片方だけ、鏡の前で自分の耳に付けて来た。さなさんは髪の毛を長く垂らして、会社帰りのOLみたいな格好をしている。わたしも普段はどっちかというとそうしているんだけど、それはファッションというものに対して特にテーマを持ち合わせていないからというだけだった。

今日、こんな格好をしてきたのはさなさんの反応を見たいからだった。案の定さなさんは初めて会ったわたしのことを凝視していた。きっと「勘違いしてる、かわいそうな子」と思ったに違いない。

わたしは会話が止まった時なんかにさなさんの口元を見つめて黙ってみたりする。さなさんは、ばつが悪そうに下を向く。

わたしはまた自分が意地悪な気持ちになってることに気付く。


さなさんとメールするようになってから次第に話題は趣味のことに及んだ。さなさんが好きなのはわたしの聞いたことのない外国のミュージシャンが演奏する曲で、わたしはその名前をいそいそとYouTubeで調べて、教えてもらった翌日にCDを借りに行った。それから次に本や画集なんかもわたしは手が届くかぎりその知った名前を検索ボックスに自分で打ち込み、それを探しにいった。さなさんはわたしの好きな日本のロックバンドの曲を聴いてくれたみたいだった。こんな風にしてお互いを知っていくのは、海の手前の干潟の砂地で何か、おたがいに途方も無い部分を探り合うみたいで、いつも楽しい。わたしは恋人が出来たり、誰かに入れ込むといつもそうすることに夢中になった。ふわふわとした職場の女の子たちや仕事、テレビ、日常の中で、時々どうしてもそんなふうに何かを、もっと自分より硬くてどうしようもないものを、ぼりぼりと噛み砕きたくなる。そうしないと身体ごと、どこかへ流されてしまいそうな気持ちになる。

いつもなら、わたしにとってそれは男の人だった。わたしがはじめに付き合った人は、バイクを買ったばかりだったからその本を一緒に読んだ。部屋では、仕送りされながらアルバイトして生活をするとどれくらい疲れるのかを聞いたりした。そして一緒になってするのは決まってセックスで、それが終わると少しだけ関係性がガタッとずれるような気がした。何か、深く愛するというのは多分何かに目を瞑ることが多くなることなのだとわたしは思う。男のはだか、済んだ後で片付けること、その付け足しみたいにどこかへ遊びに行ったりすること、そのどれもそれほどわたしはわたし以上に愛していなくて、何か邪魔なものを消し去るみたいに片付けにいそしんだ。


わたしは自分のスマートフォンのメモアプリに保存してあるさなさんから教えてもらったCDをレンタルCDショップから借りてきて、そしてそれを音源から流した。そういった思考回路を辿って他人の知るその音源に触れるとき、わたしはあの時、まるでさなさん自身になったような気持ちになっていた。耳から、ざあっと溢れ出す曲。そうしていると、まだ会ったことのないさなさんの匂いがするように感じていた。わたしはほとんど会わなくなった前の彼氏の聞いていたパンクバンドの曲なんかもほぼ、CDを揃えてしまったあとで全く聞かなくなったことなんかを思い出しながら、いつものようにベッドに潜り込み、毛布をたぐりよせる。そしてふたたび、毎日のようにイヤホンを耳に突っ込み、iPodに入っている「Fireflies」というその中でも一番気に入ったタイトルの曲を繰り返し聞いた。

さなさんのブログは毎日更新されていた。ある日は仕事の誰かがこぼした家庭の話にちょっとした感想を書き加えているものだったり、新しいレストランで食事をしたものだったりした。さなさんは匂いを消すのがうまい。わたしはそれをさなさんが故意にやってるのだとその時、不意に気がつき、それから目を閉じて、もっとその音楽に没頭しようとする。写真に映っていたのは料理でも、誰かの顔でもなくて、道行くときに見つけた看板や草花みたいな訳の分からないものが多かった。きっとさなさんの頭の中ではこんなふうに、どこへも行けないような音楽がいつも流れているに違いないと思う。そんなふうにしていると心地よかった。布団に潜り込み、ひとりの頭のなかはもう、さなさんが何を見て、どう感じて、どう言葉を漏らすのかということしかなかった。


「え、女性…なんですか?」


さなさんはそれに対して特に何も言わなかった。ウインドウが一瞬、明度を保てなく揺れたような感じがして、絶対にこいつ、確信犯だと思った。けど、考え直してみるとそれはそうであったにしても、積極的に引っかかったのは自分の方だった。メールを初めて送ったのもわたし。ブログやツイッターのアドレスをコメント欄に貼り付けたのもわたし。そのひとつひとつにさなさんはどうしてかきちんと答えてくれる。わたしのなかで育ってしまった、愛情、でもないけど、相手を必要以上の特別な立場で受け入れたいと思う気持ちは、たしかに「ここ」から発せられていた。さびしい、かなしい、ひとりでいたくない…けどそんなこと、一言も書いてなかったのに、どうしてわたしはさなさんが誰かにそう言いたがっていて、わたしのことを呼んでる、とかそんなふうに思い込んだんだろう。わたしは夜ごとに聴いていた曲やどうしてもアクセスしてしまう手を止められなかった自分の挙動を思い出して恥ずかしくなった。わたしは、もっと知りたい、もっとさなさんに一日何度でも会ってたいと思っていた。そんなふうに何かどこかで勘違いして、ずっと同じ場所へと手を伸ばしてしまった。最初は迷いながらも。けどこんな風になってから明かしたさなさんをもう深いところでは、なぜか憎んでいた。


明るい照明の下でわたしはいそいそとさなさんに料理を取り分けてたりする。自然にやってるのか、思い込もうとしてるのかもうよくわからなかった。


「るみちゃんはどんな曲が好きなの?」さなさんはわたしの手を見つめながら言う。


「え?あ、ええと、サカナクションとかです」


「ふうん。名前だけ聞いたことあるなあ」


「ふふ」

わたしは笑い、さなさんが不思議そうな顔で見る。


「・・・そんなことより、さなさんが洋ロック、ていうかowl cityが好きってことが意外。はじめ、さなさんだったら家でショパンとかわたしが聞いたことないようなクラシック聞いてそうなイメージだった。」


「そう?でもわたし結構、ライブで遠征とかするのよ。一人で」


「え、一人で?」


「うん、そう。転勤で、海外へ行ってたから、わりとそっちの方が普通に。会社に居ても、ちょっとわたし浮いてるんじゃないかってたまに思う」


なるほど。わたしは、さなさんの話すことも服装もシンプルなのは海外へ居た経験があるからなのかもしれないと思う。ちょっとだけ意外だった。さなさんの周りにずっとうっすらとみえていた、顔のない沢山の男たちの虚像が、そのときはじめて消えたような気がした。

「ブログにはそんなこと書いていなかった」そういうとさなさんは微笑む。それが一瞬、何かをごまかすように見えて・・・ああ、やっぱりわたしは、さなさんのことがもっと知りたいと思う。


「るみちゃんは野外ロックフェスティバルとか行って、野宿とかしてそうな感じ」


「いえ、ぜんぜん」


「いえいいえい!って踊ってたりしないの?」


「一体、どういうイメージでわたしのこと見てるんですか!?」

わたしはにやにやとしてしまう。


「だって、なんかそんな感じ。はじめからそんなイメージでるみちゃんのこと見てるもの。」


「野外も、遠征も前の彼と一緒に行ったことはあるけど、とくに楽しんではいなかったです。だいたい、テレビでも見れるようなのに、これ、何の意味があるのかなーって思って。あまってるんだと思いますよ。血の気も、自由も」

さなさんは笑う。


「普段は、そういうことしてる人を見て、わたしは違うぞって家で一人で信仰してるタイプです」


「へえ、意外。じゃあその彼とは、どれくらい付き合ってたの?」


「ええ~。・・・三年前なので、しかもバイト先の人だし、顔も覚えてないです。

もう過去の人ですよ」


さなさんが笑う。わたしはリアクションをちらっと伺う。


「さなさんの趣味って、何か男みたいですよね。わたし最初男の人だと思ってました」


「そう?たしかにそんなこと言ってたね。」


「だってこんなにひとつのこと深掘りしないですよ。」


「そーかな。年取ってるからじゃない?」


「ううん、、」


「るみちゃんは社会出たてで何かに固執する必要がないんだよ。それに自由だし。だからオタクみたいのが珍しく感じるんじゃない?」


「お、オタクですか・・・そうですか?」


「うん。」


「あー、でも、このCD。よかった。ちょっとキモいって思われるかもしれないけど、あのブログに書いてあった、その…決戦前夜の記事、あるじゃないですか…あれと重ね合わせて聞いてました。」


さなさんはちょっと黙ってから、微笑む。


「るみちゃんおすすめの本、読んでみたよ」


「そうですか。でも、もしかするとさなさんの趣味と合わなかったんじゃないですか?」


「そんなことないよ。何でも見るし、何でも聞くよ」


ふうん、さなさんはもっと、洗練されたものが好きなんだと思ってた、と言おうとするけど、流石にそれは嫌味かもしれないと思いやめておいた。けど興味を持ってくれたのがちょっとだけ嬉しい。


「平野啓一郎好きなの?」


「あ、はい」


「ふうーん。もしかすると誰かの趣味?」


「あ、どうだったかな。忘れちゃいました」


「ふうん。るみちゃんはまだむかしのわたし達にとってのヒツドクショ、みたいなの読んだことないのね。」さなさんはそう言ってわらう。わたしはそれを聞いて、さなさんの言っているのは夏目漱石とか谷崎潤一郎みたいなやつだろうかと思う。

「昔付き合ってた彼氏って、もしかすると髪ツンツン立たせて、耳にいっぱいピアスしてるような人?」


「ええっ…まあ、ライブ行くときはそんなふうにしてたかな。でも普段は普通の会社員でしたよ。」


「フツーのヒト?」


「…普通のひとが好きなんです、わたしは」

そこだけ切り取って、さなさんが見つめるのでわたしは何故かあわてて応える。

「普通のひと」


「はい」


「無個性な人?」


「じゃなくて…うーん。なんていうのかな。さなさんも普通の人じゃないですか」


「わたし?わたしって普通?普通にみえる?」


「あの、突然まくし立ててくるのやめてくれませんか。」さなさんは笑うが、わたしは未ださなさんのつぼが分からなくて戸惑う。


「ええと、そういうテツガクがあるんです。一応。


わたしもフツーに見えているかも知れないけど…例えば、こういう場所には普通にシャツとジーンズ履いてくるような、それから会社に行くときはダサいくらいスーツ着こなしてるような、オリジナリティを皆の前で出そうと思わない、っていうか、なんていうか普段は、社会に抑圧されたような人のことです」



「ふうん。なるほど…」

わたしが言い終えると、さなさんは黙って考えていた。「なんですか。」

「だって。・・・るみちゃんってなんだか思ってたよりもエッチ」


「は?!」


「違うの…フッフッ…」

さなさんが、グラスを持ったままでそれを揺らしているように笑っている。

「何かそんな目で、わたしのこと見てたんだなあって思うと…」


思わぬリアクションに、わたしはちょっと慌てる。

「いや、じゃなくって…」


「いーの。わたしも普通に結婚して普通に一年くらいで離婚して、その後、仕事辞めて海外へ行ってたんだ。」


「・・・」


「フツーでしょ?」

「・・・いや」

「ほんとに。うそじゃないの。何かここまで生きてきて、わたしってなんのドラマにも当てはまらないような気がしてるんだよね。ただ、やりたいことやって、すぐに辞めて、その理由も、お母さんにも説明すらしてないのよ。ただ、あっちこっち目移りして、普通のお茶汲みしてる女子とやってること変わりないんだなあって最近思うの。」


「・・ああ、そうなんですね。」


「うん」


「・・・やっぱり。わたしと経験値が違いすぎると思った。」


「経験値?」


「いえ…。だって、」


と、わたしは自分のつつましい男性経験を披露しようとして、けど多分むなしくなるだろうから辞めておいた。


「わたし結婚したことないですし。それに旅行も友達と行ったグアムくらいしか。日本しか知らない」



なんだか、自分のかぶってきた化けの皮が剥がれおちそうになってきた。さなさんは40手前。わたしは二十三歳で、いまもひーひー言いながら入社して二年目の会社の仕事を教え込まれてるところだ。

(憧れ…)そんなふうに思い直そうとする。自分に持ってないものを持つ女の人に、パーっと熱をあげることはこれまでにも何回かあった。部活を見学しに行った高校生のころ。それから入ったばかりの会社の営業社員はいずれも女性だったけれど、てきぱきした話と誰にも公平に注がれる笑い方にうっとりしたりした。どちらもわたしとはまったく違うタイプで、多分頭も良かった。

そんなの、よくある事だ。さなさんは外国に行って一体何を見てきたんだろう。わたしが夢を見たり、怒られたり、誰かと付き合って別れて、もう二度とこんな抱かれ方したくないと思ったりしてた時に。


さなさんは、不意に「かわいい」という。わたしはびっくりして、既に大分酔いが回っていることに気がついた。

ああ、そうか。なるほど。そんなふうにして正当化すれば、わたしもかわいい女の子になってしまえるんだ。

何にも知らない、ただ自分へもイイコトがご褒美のように公平に降ってくるのを待っているだけの女の子。わたしは妙ちきりんな格好で来てしまった自分をふと思い出して、また、さなさんは変わっている、と思った。


わたしの迷いを別にすれば、その席は単なる会話としてもすごく楽しかった。多分これは、わたしが打った分をさなさんがちゃんと返して来てくれるからだ。さなさんがきちんとわたしの方を見て向かい合ってくれていることを、丁寧にそれをすくい上げて、気持ちの届くところまでわざわざ来ることを、言葉の端々に感じるたびにわたしの胸は膨らんでいった。わたしはというとその度にさなさんのはだけてる鎖骨のあたりとか髪の毛とか、袖から出ている細い腕に絡みつきたい衝動が湧いてくるのだった。

さなさんは不意にわたしの手を取って「耳以外、アクセサリーとかはしないの?」と聞いてくる。ちょっとどきどきした。

・・・いえ、どっちでもいいんです。特にそんな信念を持ち合わせてるわけじゃなくて、欲しい、と思えば付けるし、うっとおしい、と思えばそれを靴下であっても取り払いたくなるし。けど、さなさんがプレゼントしてくれればわたしなんても、喜んで付けると思う。

そんなふうに言うと、さなさんは笑った。


「その、指輪綺麗」

わたしは言う。


「そう?」


「・・・結婚指輪?」


「まさか」さなさんは笑う。「買ったの。自分で自分に」


「ふうん。すごい、きれいです。似合ってる」


「えー。そうかな。」


「うん、だってさなさん指が細長いから、そういう華奢なのすると何かちょっとだけエロく見える」


わたしはちょっとだけホッとする。


酒を飲みまくり、自分のしたいことを進ませていく。自分がもし男だとしたら、こんなふうに女を口説くんだろうなあと思いながら、けどそれはまるで今まで会ったことのある男のコピーみたいに思えた。


口説く…ていうのはまるで、欲求を丸出しにして迫ってくる動物みたいに思える。わたしは自分がどれだけむき出しになっているのか、鏡で確認したいような気持ちに時々させられながら、けど半分は本心で会話のはしはしにさなさんへの褒め言葉を忍ばせていった。さなさんは、あからさまにそうされると困ったみたいに笑った。そしてわたしの素の部分に対してはびっくりするくらい優しくなった。そうされるたびに何か悪い事をしているような、幼児に戻った気持ちにさせられる。


どうして、女の人と男の人はこんなにも違うんだろう。わたしはそこに居るだけで何かえさを与えられて、戦う気を失った牛みたいに、ほだされ、だめになっていく。わたしはさなさんを組み敷いてると思うのに、本当はまったくの丸腰で抵抗する気もなくなったうえでさなさんへ近づいて行っているだけで、その最後に自分がどうなるのかまったく分からなかった。




わたしは居酒屋を出るなりさなさんの手を握って、昔の男たちと言ったことのあるラブホテル「武蔵玄米」へと歩いて来た。入り口で部屋を選んで、エレベーターに載ってる間、さなさんは一言も喋らない。わたしは緊張しているので、煙草に火を付けてふかしていた。わたしは心の中で言い訳をするようにつぶやく。どうして、なぜ事態が転んだのかわからないまま、けど多分二人ともどうなるかなんてメールをしていた時から分かってたんだと思う。エレベーターの中でさなさんのシャンプーの香りを嗅ぎながらそう言い訳を考える。

女の人の匂いというのは、多分髪の毛と、それから胸を中心に噴き出してくるみたいで、暖かい部屋にいるとそれが自分の方へ絡みついて来るみたいに思える。それはまだ、わたしにとってむせ返りそうなくらいに濃かった。(わたしもこんな匂いさせてたのかな)一瞬思い出そうとするけど、さなさんがわたしの方に頭を寄せてくるので現実に戻らされる。

こうしてみると案外わたしよりもさなさんの方が強い気持ちを持っているように思えてきた。わたしはというとただこの後の展開を考えながら異常なくらいに心臓が鳴ってるというだけで、本当に大学生がはじめて大人の女性と相対させられたみたいにどぎまぎしているだけだった。くらくらする。

エレベーターが空き、部屋の前へ行き中へ入り、そこでお互いに服を脱ぎ合うーーーーー





気付けば、さなさんは眠そうな感じでわたしのことを見上げていた。


わたしは、それから、キスしようとしてさなさんの顔を見つめるんだけど、一瞬、怯む。(なんでわたし、こんなことやってるんだっけ)さなさんの口、それから目、肌はきれいで、さっきまで蛍光灯の下で、今日はじめて見たその流線をわたしは何度も目線でたどっていた。近づいてみると、おなじようなファンデーションが塗ってある。欲情、って一体、なんだったっけ。さなさんがそんなわたしの迷いをじっと見つめている。わたしは目をつぶって、とりあえず唇と唇を重ねてみようとする。けど、それは思いのほか、興味が優っているかのようで。

それなのに、さなさんの方はわたしに絡み付いてくるみたいで、ぎょっとしてわたしは顔を離す。目を見つめる。見られてる。わたし。さっきまで、わたしの方がさなさんを見ていたのに?でも、やっぱりどうしても、分からなくなった。


さなさんを見下ろすと、口を少しだけ開いたままわたしのことを責めるみたいに見つめていて、わたしが酔っ払ってさっきまできれいだとか、男だったら絶対やりたいとか言った言葉を忘れてないはずがなかった。わたしは、まるで立たせられない男みたいな情けない気持ちになって、目を逸らし、身体を起こして自分のはだけてた部分を隠そうとする。


「あの、」


「…」


「ごめん、やっぱ…」


「うん」


さなさんは感情を抑えた口ぶりで答える。わたしはそれから、勢いでやったことをどう処理すればいいか分からない。


「いいの、べつに」


わたしはさなさんの方を見る。

さなさんはやっぱり、全身から寂しさを発散させていて、きれいだった。わたしは自然と、これまでの男たちのことを思い出そうとした。むさくるしい、毛むくじゃらの声だけ大きい、自分意のままにしたがる人たち。さなさんも、そんな人たちに抱かれて来たの?


「帰るんですか?」

なんとなく気まずさを感じていたくなくて、自分からそう言う。


「・・・どっちでも。」


「・・・」


「じつはわたし、」


「…」


「こういうこと初めてじゃなくて」


「え?」


「ううん。これがふつうだから」


「…どういうこと?」

さなさんは間接照明を少しだけ明るくする。そうすると部屋に置いてあるものの輪郭がさっきよりも浮かび上がり、自分が動物から人間へ戻っていくような気がした。もう酔いもさめかかっていて、アルコールを注ぎまくったあとのだるさとエレベーターが上昇していくようなわけもないような高揚感、それから罪悪感と自分に対する不可解の感情がはっきりと手に取れるように思えた。さなさんの方を見る。わたしは水を出してこようかとふと思う。


「わたしのこと、バイだと思い込んだ女の子と、会ったことがある。わたしもその子のこと嫌いじゃなかったし、それでOKして・・・待ち合わせで会ったときに、ああ、合っちゃったんだと思った。」


「え…それって」


「ん?」


「その子のこと好きだったんですか?」


「多分」


「…」


「それとも、試そうとしたの?」


「ちがうの」


「…わたしのことも」



「そうじゃないの」


そ・・・んなの、何とでも言える。わたしは頭がくらくらとしてきた。さなさんの吐露はわたしの気持ちなどまったく考えていないまま向こう岸に向かって投げつけられているようにひびく。

ふと、自分が一人な気がしてきて、悲しくなった。


「わたしなんでこんなことしたんだろう。こっちこそ、ごめんね」


「どうして・・・」

わたしが悪いのに、と言おうとする。さなさんの口ぶりのせいで、もうそこに、女同士特有の、連帯感のような感情が漂ってきていた。さっきまでの雰囲気も、勢いも嘘みたいに消えてしまっている。

わたしはさなさんに同僚や姉、友達の姿を重ね初めて、ああ、やっぱりこれがただしいんだと思い始める。間違えてた。・・・わたし、間違えちゃったんだ。どうして間違えたんだろう?期待?同情?それとも、ただの興味?

さなさんは、わたしのことをじっと見ている。

ーどうして?

わたしは嫉妬と不可解さ、それから後悔が絡み合って、さなさんの言っていること自体もいま、なぜそんなことを言おうとしたかもわからないまま、ぐしゃぐしゃになりそうだった。

部屋は静かで、テレビはビデオ停止状態になっていて、ここが広くてきれいな場所だということを思い出した。わたしはいつのまにか泣いていた。もうこんなふうになってしまったあとでは好きだった、気にかけてもらいたかったとは言いたくなかった。

でも、涙が止まらない。どうしてかわからない。わたしが手を伸ばしてしまったところにあったのは、たしかにさなさんの中にあるもので、それはわたしの深いところを掴んでなかなかもとのわたしには帰らせてくれない。

そうして泣きながら、わたしはわたしの中で死んでく感情にまだ浸っていたかった。


「わたし、…その子とはすぐ駄目になっちゃったんだけど、るみちゃんなら何か、ちゃんとした関係になれるのかなあって思ってたのかもしれない」


「…」


「その子とは喧嘩別れしちゃったのよ。でもるーこちゃんと合ったときは、ああって思った。」


わたしは、自分のしてきた格好を思い出そうとする。

「でも、さなさんて」


「ん?」


「確信犯ですよね?」


さなさんはンフッと笑って、ずっとはだけてた胸を隠すためにシャツを着始める。


室内には間接照明しかなくて、だからさなさんの痩せたからだの凹凸がくっきりと浮かび上がっていて、何かそれがさっきまでの居酒屋の現実感と噛み合わなく見える。

さなさんはきれいだ。きっと男だったらなんのためらいもなく、その白いおっぱいを吸うのに違いない。でもわたしは、なんだかそれが何かを壊してしまいそうで怖くなる。それが自分のことなのか、関係性のことなのかが、よくわからない。わたしはこうなる前のことを思い出そうとする。どうすれば、正しいところに収まっていたんだろう?わたしがさなさんを知っていく過程をー

あのブログも、きれいに化粧した顔も、本当はそれをして欲しがってるさなさんが誰かを誘い込む罠だ、と思う。さなさんが今、わたしのことを見つめている目ではっきりそれは確信に変わっていた。わたしはそれに引っかかった。さなさんはきっと愉快だったに違いない。それに、騙されやすい可哀想な子と思ったはずだ。


ホテルはまだ十五分しか経っていないからこの後の時間を一体どう過ごせばいいのかな、とぼんやりと考えたりする。飲んでしまえばいいかもしれない。冷蔵庫には多分お酒も入っているから何事もなかったみたいに、さっきの店でしてきた話をするようにして…わたしはさなさんがどんな人と結婚して、それから離婚に至ったのか聞き出そうとする。それからどうしてブログにもっと、わかりやすい写真をあげないのかを問いかける。いつもしてきたみたいに、全て冗談ぽくごまかして。そうやって、元の自分に戻って、普通の関係を築けばいい。それとももう、全部辞めるべきか。ふと、そう考えると胸が針を刺したみたいに痛んだ。今までずっと普通に生きてきて、男の人と恋愛してきた。嫌だと思ったことはあったけど、それが自分の人格を揺るがすようなことはなくて、次から次へと同じような恋をした。さなさんは、じゃあ、一体なに?わたしがけしかけて、さなさんがわたしの何かを盗んで、こんなふうに人を好きになるわけがないのに、もしかすると執着が自分をおかしくさせてるのかもしれない。けどそれがどちらから始まったことなのかもよくわからない。ぐんぐん、絡み付いてくみたいに互いの感情を追っているうちに、離れるのが怖くなっていく。他の人のところへ行ってしまうのも、自分がそうするのも、もうこんなに怖い。けど恋って、そんな形だったっけ。

さなさんが、さっき言っていたわたしの前に会ったという子のことを思い出す。一体、何処まで行ったんだろう。それから、何をさせようとしていたんだろう。さなさんは、ズルい。

閉じかけてるシャツのボタンを見ながら、わたしは、どうしてこの女はわたしにだけ汚れ役を被せて綺麗でいようとするんだろうと思う。(女ってのはそういう生き物だ。)わたしは思う。自分だってそうしてきたじゃないか。でも、だったら、今のわたしは?わたしは一体何なんだろう?

わたしは、けど、目の前でわたしを置いてけぼりでまた元のかたちに戻ろうとするさなさんを見ていて、中でまた、意地悪な感情が噴き出してくる。綺麗ぶるなよ。本当は、わたしのこと滅茶苦茶にして、自分だけ気持ちよくなろうとしてたくせに。だからあの時から嘘ついて、わたしのこと騙して、こんな所まで連れて来させて。従順なふりしてさなさんは、ずっと確信犯だ。それに、わたしのことを歪みながらも本当は好きなんだろう、となぜか思う。もしそうでなければ、いつもいつも含みのあるような言い方をしなければいい。それに、シャツを脱ぐ手を止められたはずなのに、そうしないでわたしをドギマギさせた。いつも、そうだ。さなさんはわたしに自分を変えたくさせる。


わたしの中では育ちきった感情がまた、わたしに何かをさせようとする。

「ねえ」わたしの声が部屋に響く。

でももう、迷いも消えていて、それを聞いたさなさんは、わたしを見つめて何故か微笑む。まるで全て分かってたみたいに。わたしのことを、操ってるみたいに。居酒屋でのやさしそうな笑みとは違う、共犯者みたいな笑い方で。わたしはそれをみて、本当にこいつを、滅茶苦茶にしてやりたいと思う。





部屋じゅうに広がっていた香りを吸い込み、わたしはまたむせ返りそうになる。

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