第13話

「とりあえず読んでみたらどうだ。望んでいたのだろう」


 見覚えのない手帳に困惑しているジャックに伯爵は言った。ジャックはどれから読むべきから悩んだが、投書の目的であるダニエルが行方不明になる前に持って行った手帳を恐る恐る開いた。随分草臥れている手帳を見てアウルは違和感を覚えた。他の手帳に比べて膨らんでいるのである。それをすぐに指摘するのはあまりにも無粋だと思いジャックが読み終わるのを待った。

 暫くページをめくる紙ずれの音だけがした。待っている間、アウルは別の本棚に目を向けていた。人気作家の仕事部屋にいても心は落ち着かなかった。どんな気持ちでその手帳に目を通しているのだろうとジャックの様子が気になって時折横目で伺うと、笑うでも泣くでもなくただ真顔で手帳に書かれている文字を黙読していた。伯爵は微動だにせずそんなジャックをじっと見つめていた。


「おじい様」

「なんだ」


 ジャックの呼びかけに自分が呼ばれたわけではないがアウルはどきりとした。その声は怯えているような恐ろしいものでも見たかのようで、か細く震えていた。


「ここに書かれているのは本当なんですか?」


 部外者の自分がかかわってもいいのかと少しだけ躊躇ったが、好奇心が勝りジャックの傍に寄った。ジャックはどうぞと手帳を伯爵とアウルの方へ向けて指さして見せた。決して綺麗とは言えない崩れた字で抱えている内容にアウルもジャックと同様に驚愕し息を飲む。伯爵だけが落ち着きを払っていた。「ああ」と吐息程の小さな声で呟いた。アウルは詳しく読みたくてジャックに頼むと彼は手渡した。


 ジャックが開いていたページより数ページ遡ると、仕事の内容と思われる旅行先の風景や人々の暮らしなどが記されていた。読んでいるだけでアウルが見たことのない情景が鮮やかに眼に浮かぶようである。細やかなところも読み込みたいところをぐっと堪える。そして問題のページに至る直前に書かれたと思われる走り書きに目をやった。そこには慌てて書いたのかギリギリ読める字が羅列されている。


『船がもうすぐ沈没する。生きては帰れないかもしれない。誰かこのノートを見つけたら家族のもとに届けてくれ。エミリア、ジャック愛している。永遠に』


 アウルとジャックが驚いたのは船の事故にあったことではない。死を覚悟したダニエルの手記には愛する妻子への最後のメッセージの続きが書かれていたのである。この手帳も最後のページまできっちり記されており、更に新たに三冊のノートが追加されているのだ。


「伯爵はご存知だったんですか。ライゼン氏が生きていることを」


 そこまで言ってはっとした。ナタリーが言っていたことが蘇った。伯爵は三年ほど前から伯爵がコードリー島へ足を運んでいた。アウルはページを手元の手帳に目を落とす。ページをめくるとそこにはコードリー島という名前がはっきりと書かれていた。漁で生計をたてる島民の活発さと、自然の美しさ、田舎ならではのゆったりとした時間、全てを失った自分を受け入れてくれる懐の広いおおらかな島がコードリー島だと。


「ダニエルが行方不明と知り、儂は持ちうる権力と金銭を使って捜索を試みた。規模の小さい船に乗ったことを知り足を運んだ。乗り合わせていた乗客は皆死んだと知ったが、ダニエルの遺体は上がらなかった。もう死んだとも思ったがこの目で遺体を確認するまで諦められなかった。儂は地元の学者やら船で生業を立てている者たちに片っ端から話を聞き、もし遺体が海流に流されればどのあたりに辿り着くか尋ね回った。調査には時間がかかったが、コードリー島に新参の男がいることを知った。小さな島で観光客も多くなく新しく住み着く人間が珍しいそうだ。話を聞いたときはダニエルのわけがないと思ったが僅かな希望でもすがりつきたかった儂はすぐに島へ向かった。小さな希望は確かにそこにあった。しかしコードリー島に辿り着いた時にはすでに五年の月日が経っていた。時間をかけすぎたのだ」


 伯爵は眉根を寄せて次の言葉を探すように目を泳がせる。


「ダニエルはコードリー島にいた。漁師見習いとして生計を立てていた。元々肌は焼けていたが、もっと濃くなっていたのが印象的だったから一瞬本人とは思えなかった。それだけじゃない。儂が知っているダニエルがもう別人なのだと悟ったのは、彼にはすでに新しい家庭があると知ったからだ。新しい奥さん、そして小さな子供———女の子が一人いた。最初はダニエルがこれまでどういう人生を送って、愛する女性と子供がいるかを説得しようと思っていたんだが、幼子を見ると迎えに来たとはどうしても言えなかった」


 名前も知らない女の子が布製の人形———恐らく母親の手作りだろう少し不格好なものを大事そうに抱いていた様子が伯爵の脳裏に鮮明に蘇る。そんな女の子を愛おしそうに抱き上げるダニエルは、紛れもなく父親の顔だった。自分がそうであるように彼もそうだと心が叫んでいた。


「エミリアやジャックのことを思うと記憶を失っていたとしてもダニエルに本当の家族がいるんだと伝えたかった。しかし娘の父親で孫の祖父としてではなく、父親としてそれが出来なかった。おまえにとってもたった一人の大事な父親だと判っていても、儂にはあの子から父親を奪うことは耐えられなかった。結局儂は自分がどうしてコードリー島にやってきた理由も告げることなく帰るしか選択肢はなかった。そしてせめて残された娘と孫のために出来ることを考えた結果、ダニエルの代わりにおまえたちを守ってやることしか思いつかなかった。父親代わりになれるとは思わないが、不自由なく暮らす場所を与えてやろうと。それがおまえたちに対するせめてもの贖罪だ」


 ジャックに向かって頭を大きく下げた。腰の弱い伯爵は痛みに耐えられず小さいうめき声をあげた。低姿勢のジャックならすぐに頭をあげるように促すかと思ったが、そうしなかった。父親が生きていたことの驚き、そして喜び、それをひたすら隠していた伯爵への怒り、悲しみ、それらがスコールの様にジャックの心を一気に打ち付けた為呆然と立ちすくむしかなかったのである。ただただ頭をさげる伯爵を見下ろしていた。


「母は…」


 時間は幾ばくか経ってジャックが口を開き、漸く伯爵は頭をあげた。その時もジャックの顔色を伺うようにゆっくりとあげた。


「母すでに知っていたんですか」

「いいや。話していない。しかしあの子は昔から好奇心旺盛で勘のいい子だ。儂が普段しない行動に目を付ければ何かあると踏んで自ら調べる。それも愛する夫の事なら猶更じっとしてはいないだろう。すでに知っている可能性は充分にある」


 ジャックの母親は息子がエーデル皇立学校に入学する同じ時に外で働き始めたという。初めこそは反対していたが、そうしたところで言うことを聴くような娘ではないと伯爵は誰に似たんだかと自嘲気味に笑った。結局自分で働き口を探して毎日仕事に励んでいるそうだ。それは彼女にとって父親の力を借りなくても自分で育てられるという彼女なりの反抗なのだろうと伯爵は呟く。


「あの子は儂の権力の下で生きているのが許せないのだろう。お前たちを迎えに行ったあの日も、酷く不服そうな顔をしていたのを思い出す。帰るなり、息子と自分の生活くらいは自分で賄うようにすると息まいておった。ただおまえの学問のチャンスを奪うことはしたくないと言って帰ることを了承したんだ」

「それでは、母は俺に学校へ行かせるために、この家を離れたっていうんですか。俺のために…」


 ぴくりと瞼が痙攣したのを抑えるようにジャックは右のこめかみを強く指で押した。子供だったとはいえ自分のためにエミリアが我慢をしているのだと思うと、ジャックは自分の無力さに心が押しつぶされそうだった。なにより自分がどれだけ恵まれているのに、どこかで家族の思い出であるこの家から引き離されたことを恨んでいた。無理矢理連れ出した祖父を、そして父のように自由に生きることを諦めた母を。


「ジャック」


 ジャックはまた目を丸くした。そして伯爵もジャック以上に目を見開いた。アウルがジャックの名前を呼び目が合った次の瞬間、額を指で打ち付けたのである。「いたっ」と思わず声をあげて、打ち付けられて赤くなった額を擦った。


「なにするんですか!?」

「一人で思い悩んで考え込むのは悪い癖だな。君がどんなに考えたってお母さんの考えは本人にしかわからないんだ。それは帰ってから話すといいさ。おじいさんと向き合えた君なら容易なことだろう」


 そう言うと翳っていた目に光が戻った。ジャックは口をきゅっと結び何度か細かく頷いた。


「そうですね…母には直接聞いてみます。どちらにしても父がもう戻ってこないと判った今、俺にはどうすることもないですし、母と———おじい様と三人でこれからのこと話し合います。父とちゃんと決別するために…」

「それなんだけど、ここを見てごらん」


 ダニエルが船の事故の続きを指さした。


「この日から三年位してから続きを書いているみたいだよ。読んでみて」


 そこには人気作家の面影のない文章で、また記憶がなくなる前の書きなぐったような文字は一字一字ゆっくり丁寧に書かれたと思われる程固く変化している。

 父の面影が残らない文章をジャックは指で撫ぜながら読み上げた。


『これは僕の記憶の手がかりだ。記憶がなくなって僕はそれを読むのが怖い。妻と息子と思しき名前は記憶のどこにもひっかからず、それが僕だという保証は僕自身が持っていない。でも彼女が言うんだ。いつか記憶が戻った時の為に、記憶がなくなってからの生活の記録を残した方がいいと。僕にはそれに意味を成すかは正直わからない。僕はただ怖いのだ。生涯記憶が戻らないかもしれないことも、逆に記憶が戻ってしまって今の生活をなくすことも怖い。それでも書いた方がいいと言った。更に彼女は言った。例え記憶が戻らなくても共に生きる。そして記憶が戻って私たちの傍を離れる日が来ても構わないと。欲を言えばあなたの家族と会う日が訪れたら、きっと仲良くなれる。あなたの愛した家族は私にとってもかけがえのない人たちだから』


 ジャックはぽとりぽとりと涙をこぼしながら読んだ。ついに嗚咽が止まらなくなった頃にアウルはジャックの背中を擦った。


「これはコードリー島で出来た家族が、将来記憶が戻ることで迎えに来る家族にあてた日記に代わったんだよ。君のお父さんがどのように過ごして来たか、記憶のない自分とどうやって向き合ってきたかを記すことで、元の家族の元に戻った時に戸惑いなんかを軽減させるためにね。向こうにいる女性は君たち家族のことを慮っているんだ。決別する必要なんてないだろう?」


 かつてのダニエル・ライゼンの仕事部屋はジャックの泣き声が響いた。そして小さな声で心の底にしまっていた本音が開いた。


「父さんに会いたい」

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