第9話
昨日の疲れが残っている中、みっちり四限分の授業を受けて、アウルもアイビスも頭がクラクラしていた。特に四限目の経済学はアウルの苦手分野である。聞いているだけで頭が締め付けられている気がした。アイビスには昨日に続いて今日も真面目に出席したこと自体が苦痛のようだ。
「五限はもう出ない!」
コの字型の校舎に囲まれた中庭の柔らかい芝生を踏み歩いていると、アイビスは約二日の身体の凝りをほぐすように思いっきり背伸びをして言った。
「いいんじゃない?五限といえば…」
アウルが「一日出なかったところで進級に差し支えない教科だろ」と言いかけた時、二人と同じように中庭を歩いたり、中庭に設置されているガーデンテーブルで昼食をとったりしている生徒たちが一同に、ある女性の姿を目線で追いかけた。すらっとして、都会風といった洗礼された服を身に纏い、モスグリーン色でリボンがあしらわれたクロッシェを被っている。ただ視線を奪っているのはただ美人だからというわけではない。誰もが驚くほど背が高いのである。ノッポの女性が颯爽と歩く姿に二度三度振り向き確認するという感じだ。
それに驚かないのは、アウルとアイビスだけだった。
「ああ、いたいた!」
「姉さん」
ナタリーは細い指をピタッとくっつけたまま上品に手を振って、芝生の中央に十字路に敷かれた石畳の道をカツカツと踵を鳴らしながら近づいてきた。アウルは昨日のように洗礼のハグを受けるのかと思って身構えたが、ナタリーは可愛い弟は目に入らないとでも言わんばかりにアイビスの前まで一目散に駆け寄った。
「お久しぶりです。ナタリーさん」
アイビスは挨拶のハグとキスをした。それだけでなくナタリーの手を取って甲にキスを落とした。
「相変わらず綺麗なお顔」
「ナタリーさん程ではありませんよ」
会うたびにこうである。ナタリーは本気で褒めているに違いないが、アイビスはそれに付き合っているだけのようだ。冗談めいた褒め合いを冷めた目で見ていたアウルは、二人が満足するまで黙ってようと思った。しかし早く終わらせてほしかった。アイビスとナタリーの組み合わせは酷く目立っていた。特にアイビスの女癖悪さは有名で、アウルに限らず周囲が「またか」と冷ややかな視線が降り注がれている。
アウルは我慢できなくなりナタリーに冷ややかな口調で問いかけた。
「姉さん、一体どうしたんだい?こんな時間に何の用?」
「やだ、勿論デートの約束を取り付けにきたのよ」
そんなことでわざわざ学校にきたのかい。と呆れた声が出そうになるのを飲み込んでアウルは「ふーん」とだけ返した。
ナタリーはお構いなしに手帳を取り出しスケジュールを確認した。
「十日後…この日の夜、レストラン・リュシークで予約が取れたの」
「オッケーオッケー。必ず開けておきますよ」
二人の逢引の約束を聞かされているアウルは疎外感で一杯だ。姉と級友のデートなんて一ミリたりとも興味はないが、なんとなくつまらない。かかとをトントンと地面で打ちながら待つしかなかった。
「約束出来たんなら、もういいだろう?僕たちもランチに行くんだから」
「すねちゃって可愛い」
ナタリーはアウルの鼻先を指で突いた。アウルは子供扱いされていると口を尖らせる。無意識に出た子供っぽい仕草はナタリーがもう一度唇を突いた時に気付きアウルは恥ずかしくて目を伏せた。
「勿論デートの約束を取り付けにきたわけじゃないのよ。昨日マーティン伯爵のことを少し調べてみたんだから。と言っても人づてに聞いた話だけど」
そう言ってデートの約束が書かれた手帳の後ろの方を捲っていく。アウルは視線をあげた。
「あったわ。これこれ。伯爵は仕事柄、あちこちに出向くことは珍しくなかったんだけど———おかげで地方毎に恋人がいるっていう噂もあるわね…っとそれはどうでもいいか。三年程前にコードリー島に遠征していたようなの。同じ地域に数か月も滞在することは珍しくて、ロンが取材しに行ったって言ってたわ。あ、ロンっていうのは同僚よ。昨日会ったでしょう?」
アウルは昨日のことを思い出した。ドアを開けた瞬間に目の前に散乱した紙を拾い上げていた男性———優男っぽいあの人のことだろう。
そういえば彼もファーストネームで呼んでいたけれど、まさか付き合っているとか?いやいやアイビスに今デートの約束を取り付けたばかりだ。でもアイビスとは明らかに冗談というか遊びだろうし…などと下世話な考えがぐるぐると頭を駆け巡る。そんなアウルにお構いなしにナタリーは言葉を続けた。
「結局取材は受けてもらえなかったわ。伯爵がなんの目的でそこにいたのかは明かさなかったそうよ。でもロンは何かあると踏んで、暫く追い回していたんだって。まぁ…いつも追い払われてしまって、仕舞にはモース新聞社を訴えるって言われたから引き下がるしかなかったって言っていたわ。伯爵は頑固なところはあるけれど、取材を頑なに拒むのは珍しいから、コードリー島に何かしら伯爵の秘密があるんでしょうね」
コードリー島といえばエーデル皇国の端っこにある小さな島である。漁業が盛んな田舎町だ。確かに新鮮な海鮮が楽しめるが、それ以外に取り留めのない普通の田舎町だ。サンタナルは遠すぎて交易も殆どやり取りがなかったはずとアウルは記憶している。マーティン伯爵が足を運ぶ理由が思い当たらない。
アウルが考えていると、中庭がまたざわめきだした。ナタリーが来た時より尋常ではない。ちらちらと横目で見るというよりも、目を合わせてはいけないと言わんばかりで、中庭から去ろうとする生徒もいるくらいだ。
一体何事かときょろきょろと見渡すと、複数の黒服を着た男性に囲まれて、白いスーツを身に纏った髭の男性が杖を突きながらこちらに向かってやってくる。いち早く嘘でしょうと声に出したのはナタリーだった。そして次にまずいと後ずさりしたのがアイビスだった。アウルはというと、二人の動揺が全く理解できず威圧的な老人から目が離せずにいた。
「間違いなくあの男です。あの金髪で間違いありません」
黒服を身に纏った男の内一人が声をあげてアイビスを指さした。アウルは声を聴いて漸くその人が昨日アイビスを追い回していた男だと気付いた。
老人はふーっと息を吐き、灰色の目玉を三人にそれぞれに向けた。三人の中で一番長く鋭い眼力を向けられたアウルは、そこから一歩も動けなくなった。老人はアウルから目を離し、一度向けられたアイビスに視線を戻した。
「貴様が儂のことを嗅ぎまわっていたと報告を受けている」
杖を使いながら歩みを進めて近づいた。老人はアイビスの前で杖をあげて鷲の形に掘ったグリップをアイビスの前に突き出した。
「何を嗅ぎまわっていたかはすでに報告を受けている。しかし…」
老人はそう言うと鷲の嘴をゆっくりと動かして、それをアウルに向けた。
「一緒に来てもらおうか。スウェインくん。孫を唆した理由を聞かせてもらおうではないか」
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