第8話
数時間滞在して空腹を感じ始めた頃に、宇宙図書館を後にした。自室の扉を開けると、そこはあの階段下の狭い路地ではなく寮の自室だった。宇宙図書館に入る時と同じように、出るときもアウルは自分たちの部屋を思い浮かべてドアノブを捻ったからである。頭の中で思い浮かべた場所に出入りできる司書の能力にアイビスは感嘆した。
「便利だなぁ。これがあれば図書館を経由してどこにでも行けるんじゃないか?」
「司書の先輩にそういう使い方する人もいるよ。渡航費も時間も節約できるってさ」
アウル自身も司書の説明を受けた時かなり便利だと驚いた。同時に怖くもなった。具体的に想像しなかったときは、どこに繋がるかわからないからである。場合によっては海原や空に繋がることも有り得るのだ。だから大抵は思い描ける場所を指定する。だから帰る場所は殆どが寮の自室と決めていた。
「草臥れたなぁ」
そう言ってアイビスは自分のベッドに寝転がると、二、三度呼吸をしている間に寝息に代わる。慌ててアウルはアイビスの肩を揺さぶった。
「夕食はどうするんだ?」
「んー…もういいかなぁ。お腹空いてないし…眠気の方が強いし…」
「それじゃぁ一人で行くけど、着替えてから寝ろよ」
アウルが離れるとアイビスは手を振って送り出した。ちゃんと起こして着替えさせたほうが良かったかなとアウルは思ったが、母親でもあるまいしそこまでするのは流石に気分も良くないだろうと部屋を出た。
夜の九時、つまり今日の営業を閉める直前に滑り込んだ。利用している人は誰もおらず、バイキングのプレートは殆ど残っていない。片づけを始めている調理服を着用した若い女性スタッフの睨みつけるような冷たい視線に気づかないふりをしならプレートに目をやった。乾ききったパンと、プレートに辛うじて残っていたサラダをかき集め、蒸し鶏の欠片を皿にのせた。そして適当な席に座る。それを見計らって彼女は再び片付けを始め、調理場へと重ねたプレートを持っていく。アウルは肩身の狭さを感じながら俯いて、硬くなったパンをちぎって食べ始めた。とにかく早く食べきってしまおうと咀嚼するが、酷く乾いたパンは口の中の水分を吸収し上手く飲み下せない。焦れば焦るほど喉に引っかかる気がした。
ことんと何かをテーブルに置いた音に反応して顔をあげる。そこにはさっきまで片付けをしていた彼女が、ティーカップを置いたのだ。アウルはきょとんとしていると彼女は無言のままソーサーをスライドさせてアウルに近づけた。
「あ、ありがとうございます」
ティーカップを手に取って口を付けようと近づけると淹れたてのようで湯気が顔を撫でた。もう一度お礼を言おうとしたが、すでに彼女はそこには居らず、すぐに調理場へと引っ込んでいた。
しかしまた暫くするとこちらに戻ってきて、今度は皿を差し出した。そこには蒸したブロッコリーと鶏肉が乗っており、何かのソースが掛かっている。
「えっと…」
恐らくさっきの紅茶と同様に食べろと言っているのだろうが、そのまま受け取っていいのか悩んだ。
「…子供はもっと食べないと駄目だ」
ぼそっと呟くようにハスキーな声の女性は言った。耳を傾けていないと聞き逃しそうな程の小さな声だった。今誰もいない静かな食堂であることをアウルは感謝した。
「これ、あまり物じゃなくて出来立ての料理のようですけど、いただいてもいいんですか?」
そう訊ねると女性はこくりと頷いて言った。
「奥にいるシェフがまかないの余り物だから気にするなって。だから食べなさい」
アウルの貧相な皿を見てわざわざ頼みに行ってきてくれたのだろう。アウルは頭を下げて礼を言った。
「お礼なんていらないからきちんと食べなさい」
それだけ言ってまた調理場に引っ込んだ。
残っていた食べ物をかき集めていた時に睨まれていると思ったが、そうじゃなかったのかとアウルは思った。片付けようとしたところを怒っていたのではなく、取る量があまりにも少ないことを心配してくれたのだと解釈した。
アウルはブロッコリーをフォークで刺してソースを絡めてから口にした。甘酸っぱいフルーツビネガーの味が口いっぱいに広がった。なんの果物かはわからなかった。でも酸っぱすぎず食べやすいソースに、アウルはフォークが止まらなかった。あっという間に平らげて、皿に残ったソースを乾いたパンで根こそぎ浚えた。残った紅茶を最後に飲みほして、空になった皿を片付けに調理場と食堂を挟むカウンターへと向かった。
「ごちそうさまでした」
カウンターから大きな声で声をかけると女性が口をもぐもぐさせながらやって来た。
「とても美味しかったです。ありがとうございます」
「うん、シェフに言っておく」
確かに料理を作ったのは彼女ではないだろうが、そういうつもりで言った礼ではない。予想と斜め上の返答に困ってアウルは少し考えた。
「まかないを頼んでくださったこともありがとうございます。おかげでお腹いっぱいになりました」
女性は少し驚いたように目を見開いた。さっきのお礼の意味が漸く理解したようで何度か頷いた。ずっと下がっていた口角を真横よりほんの少しだけ上に向けた。女性はアウルがすっかり食べきった皿を持って調理場へと下がった。アウルはその背中に向かって「ご馳走さまでした」と投げかけてから食堂を後にした。
部屋に帰ると、予感していた通りにアイビスはそのまま布団に潜りこんで安らかな寝息を立てていた。
次の日の朝、昨日の疲れからかカーテンの隙間からそそぐ陽光も鳥の声も気にならず、起床の鐘が鳴るまでぐっすりと眠っていた。重い体を起こしドアの隙間に差し込まれた新聞をとる。すると見計らったようにノックの音がした。突然のことでアウルは肩をびくりと震わせた。そしてゆっくりとドアを開けて隙間から誰かを確認する。
「お、おはようございます」
「マーティン?」
昨日よりもしゅんとした様子でジャックは立っていた。アウルは思いもよらない訪問者を出迎えてドアを大きく開いた。
「もしかしてずっと待っていたのかい?」
「ええ…まぁ…」
「それでどうしたんだ?まだ約束の日じゃないけれど」
「すみません!」
ジャックは徐に頭を下げて周りが振り向くような大声で謝罪の言葉を放った。アウルはまた驚いてもう一度肩が震えた。
「あの約束なかったことにしたいんです!」
「マーティン、と、とりあえず声を抑えて…」
ジャックの大声はアイビスにも届き———恐らくあちこちの部屋にも届いたはずだ———不機嫌そうな顔でジャックを睨みつけた。ジャックは恥ずかしさからか、申し訳なさからか、居た堪れないように肩をすぼめた。
「朝飯…行くか?」
大あくびをしてアイビスは後頭部を掻きむしった。ジャックは「はい」と消え入る声で返事をすると、アイビスはそこで待てと、ドアの前の床を指さして中へと戻る。
「とりあえず、すぐに準備するから」
アウルはそんな諭すようにアイビスの通訳をし、ドアを閉めた。
昨夜の静けさと打って変わって今朝は食堂内が活気づいている。何度もなくなるバイキングのプレートをスタッフが忙しなく交換に回っている。アウルはきょろきょろと見渡したが昨日の女性はいなかった。
焼きたてのパンやオムレツなどで皿を彩らせてから、空いている席に座った。アイビスは昨夜食べ損ねた分を取り返すように、いつもの倍の量のサラダを座ってすぐに食べ始めた。いつものペースで順番にサラダを口に運んでいく。朝食をすでに家で食べて来たというジャックは、話しかけるタイミングを計りながら紅茶をちびちびと飲んでいる。
アイビスが一通りの具材を堪能してから紅茶に口をつけて、会話の口火を切った。
「流石に二日連続で朝っぱらから部屋の前で待つのには理由があるんだろうな」
「すみません…」
責められて体を小さくしたジャックを哀れに思いアウルはアイビスを宥めた。ふんと鼻を鳴らしてからまたサラダに噛り付いた。
「それで?昨日の今日で一体どうしたっていうんだい」
「お約束していたお金がどうしても用意できなくて、祖父に正直に話したんです。父の手帳のことであなたの力を借りることでお金が必要になることを。これからは祖父の望むように、手足となり働くことを条件にお金を借りれないか相談しました。でもいなくなった父のことを探るようなと強く叱責されました」
ジャックは酷く悔しそうに眉を寄せた。そして依頼を引き下げると付け加えた。
「お父さんの手帳のことはもういいのかい?」
「お金は用意できませんから諦めます。よく考えればその手帳に何か書かれているかもわかりません。どこかで自分のことや母のことを記しているんじゃないかと淡い希望を抱きましたが、仕事の手帳に家族のことなんて書いているわけないでしょう。変に期待した俺もどうかしていたんです。俺のせいで先輩方を振り回して申し訳ございませんでした」
ジャックは残った紅茶をぐいっと飲み干し、頭を下げてから、声をかける暇も与えないように席を立ち駆け足で食堂を後にした。アウルたちは呆然と背中を見送るしかなかった。
「行っちゃった」
「本人がああいうんだから仕方ないだろう。それに」
アイビスはしかめっ面で続きを紡ぐのをやめた。
「それに?」
アウルは皿をアイビスに向かう位置に置いて、ジャックが座っていた椅子の隣に座り直す。
アイビスは口を隠すように頬杖をついていた。
「…それにあれじゃあ、伯爵が怒るのも無理はないさ」
「あれって?」
「じいさんを継ぐ姿勢が甘ちゃんなところだよ」
アイビスは苛立ったようにトマトを口に放り込み咀嚼する。飲み込んで次に食べるレタスにフォークを乱暴に突き刺して続けた。
「じいさんが怒ったのは、お金の代わりに言うことを聴くって言ったところだろうな」
アウルは何が駄目なのかいまいちピンとこなかったが、それを問うと苛立たせそうなので、黙ったままアイビスの言葉を聞いた。
「正気とは思えない金額を提示して、じいさんの手足になって働くなんて、俺には今後自分が貰う領地を傘にしているようにしか見えない。じいさんの一人娘の孫である以上、いずれ領地を継ぐのは約束されているんだ。今借りる金と、領地で働くことが両立するわけない。領地を治めるっているのは皇帝から預かった土地の治安を守ることだ。領民が健やかに暮らしていくために貴族は働かなくてはいけない。それを借金のカタにしたと伯爵が思っても無理はないさ」
そう言い捨てたアイビスはフォークに刺さったレタスを口に運び、残りのサラダを順々に平らげた。アウルは反論のはの字も思い浮かぶことなく、アイビスの怒りを真正面に受けながら、自分のプレートに視線を落とした。
貴族っていうも大変なんだな。他人事のようなつまらない感想が頭に浮かぶだけだった。
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