永い夜の話のはじまり

白檀

本文


――気が付けば、また、砂浜で眠っていたようだ。

柔らかな波が打ち寄せ、跳ね上がった飛沫が、砂の上に横たわった僕の体を濡らしていく。目を閉じているからだろうか、ざわざわとした波の囁きが普段以上に心地良くて、どこかくすぐったく感じてしまう。頬を撫でる風はいつも通りに穏やかで、少し冷たい潮の匂いを運んでくる。

一人で砂浜で過ごすこの時間は、とても静かで心休まる、僕のお気に入りの時間だ。


ぼんやりしているうちに、さっきまで足首を濡らしていた波が、太もものあたりにまで上がってきているようだった。心なしか風も冷たくなってきているような感じがするし、太陽の温かさも感じない。

遅くなりすぎるとお父さんが心配するし、そろそろ帰らないと――そう思って目を開け、ゆっくりと伸びをしながら起き上がろうとした、その時。一際大きな波が押し寄せて、頭から僕の体を飲み込んでいった。


「…………!」


完全に無防備に上体を起こそうとした僕は、正面から波の直撃を受けて、元の態勢に引っ繰り返った。仰向けになった僕の顔の上を、波が押し寄せて通り過ぎ、砂利混じりの海水が目と口に流れ込んでくる。


「うええぇぇ……!」


慌てて立ち上がって、ぱちぱち瞬きをし、口に残った砂を吐き出す。海水を正面から被ったのは久しぶりだけれど、目はちくちく痛むし、口の中はじゃりじゃりするしで最悪な気分だ。

早く帰ってお風呂に……と思い、家の方に向かって立ち上がったその時、背後の海から、鼻を衝くような腐った魚の臭いが漂い始めた。

慌てて腕時計を確認すると、19時を回っている。確かに、すっかり夜だ。でもまだ、「夜」になるには早すぎる。時計の故障だろうか、でも、そこまで遅くなれば、流石に父さんが探しに来るはず……。

とにかく、今は「夜」が来る前に、早く家に戻らないと……!




岩の上に置いていた靴を取って、急いで履き替えている間にも、海からの腐敗臭はだんだん強くなっている。濡れた足の裏にくっついた砂利が気持ち悪いけれど、そんなことを言っている場合じゃないから、ポケットには丸めた靴下を、靴には裸足を突っ込んで、道路に向かって全力で走る。

潮風を吸った砂浜はびっくりするほど走りにくて、僕を少しでも海から逃がさないようにしているようだった。一足蹴るたびに、脚に込めた力がそのまま砂に吸収されて、態勢がぐらりと傾く。

背後からの臭いは、もう、息を止めていなければ苦しいほどに濃厚だ。臭いだけではなく、時折何かが折り重なってぐちゃぐちゃと潰れていく音や、ずるずると引きずり回る音が聞こえてくる。

「夜」が、始まろうとしている。


「あっ……!」


一瞬耳障りな音に気を取られた隙に、砂を蹴り上げた左脚がよろめく。まるで蹴り上げた砂が脚を絡めとったかのように、僕の身体は大きく左に傾き、心臓を下にして激しく叩きつけられた。

肺の空気が吐き出され、大きく喘いだ腔内が、どろりと濁った腐敗臭で満たされる。衝撃は砂に吸収され、痛くはない。しかし、えづきながら急いで立ち上がろうとした僕の足首に、ぐちゅり、と音を立てて、何かが纏わりついた。


背後では、ざあああぁぁ、という潮の音が、すぐそこにまで迫ってきていた。


足首に纏わりついた「それ」を見ずに、必死に前へ進もうとする僕を、「それ」はゆっくりと海の方に引き寄せていく。



潮の音に紛れて、風の音に乗って、海の中から、声が聞こえる。


――戻れ、戻れ。


波が、足元を攫う。


――帰れ、帰れ。


潮が、太ももを濡らす。


――「夜」の底へ、おいで。


懐かしい、声が聞こえる。



駄目だ。よりにもよって、「シシャ」を迎えるこの時期に僕が引き込まれてしまったら、「夜」が止まらなくなってしまう。

そうなれば、島の皆、父さんが、ジンゴが、ヒロやカズが……!

だけど、焦ってもがけばもがくほど、「ソレ」は足首からふくらはぎへ、ふくらはぎから膝へ、膝から太ももへと絡みつき、僕を海の中へと引きずり込もうとする。


そして、一際大きく、吐き気を覚える悪臭を漂わせた波が押し寄せ、後ろから僕を飲み込んだ。海水とは明らかに違う、どろりと粘ついた腐敗臭の籠る液体が、僕を包み込む。

ごぼり、肺から空気が押し出され、目の前が暗くなる。鼓動の音が遠くなり、耳元で囁く声が聞こえた。


――おいで。


濁ったような、腐ったような、甘ったるい声。

その声が僕の脳を蝕み、意識が途切れようとした、その時。


どこからか、小さな音が聞こえた。

それは、静かで、穏やかで、優しくて、それでいてどこか悲しげな、ピアノの音色だった。

意識を向ければ、ピアノの音は、海の向こう側からゆっくりと広がってくるようだ。音が次第に広がると共に、体に絡み付いていた液体と「何か」が、ずるりと剥がれ落ちる。


自由になった。そう思った途端、足は再び砂浜を蹴り上げていた。

走って、走って、再び倒れかけながら走っても、もう「何か」が絡み付いてくる気配はなかった。大きく息を吸っても腐敗臭はせず、澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。

そのまま全力で走り抜ければ、ようやくアスファルトの道路が見えてくる。倒れ込むようにして、僕は砂浜を抜け、道路に座り込んだ。


「……っは、はぁ、はぁ……」


ようやく砂浜を抜けたという安堵感と、早く家に帰らなければという焦燥感が体を襲い、急に力が抜けていく。

どうにか力を込めて顔を上げ、海の方を見遣った僕の目に、輝くような人魚の姿が飛び込んできた。

真っ暗な夜の海の中を、白と青の美しい人魚が、波を分けるようにして泳いでいく。海は、少し前までの様子とは打って変わり、穏やかにさざなみを寄せていた。人魚が波の間を泳いで近付いてくる度に、海の向こうから響くピアノの音が、少しずつ小さくなっていく。

その幻想的な様子を見ているうちに、一気に疲労が押し寄せてくる。ゆっくりと瞼が落ちて、僕の意識は闇の中へと落ちていった。




――――気が付けば、僕は診療所のベッドで寝かされていた。20時頃、帰りが遅いのを心配した父さんが浜辺に探しに来たら、波打ち際で倒れていたらしい。外傷はなかったけど……と、父さんは首を振っていた。


父さんが来た時、海は少し荒れていただけで、いつも通りの様子だったらしい。「夜」が始まるのは真夜中、それも「シシャ」の前後という特殊な夜だけなのに、どうしてあんなことになったんだろう。

それとも、単に僕が浜辺で寝入ってしまって、悪夢を見ただけなのだろうか。

僕が考えたってどうにもならないことだけど、変な予感がする。僕たちの島に、何かが起ころうとしているのかもしれない。


明日も、あの浜辺に行ってみよう。昨日見た夢の通りに人魚がいることはないだろうけどど、何か特別なことが起きるかもしれないから。




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