第25話 緑は異なもの、味なもの
むかしむかし、とんとむかし。
ある男がおりまして、池の周りのたくさんの
「……綺麗だなぁ」
色鮮やかな花もなく、鋭い葉をしたその植物は、多くの村人にとっては愛でる対象ではありませんでしたが、男にとっては違いました。
「お前さんは変わっているなあ。似た葉で綺麗な花なら他にもあるじゃないか」
村人が不思議に思って声をかけると男はこう言います。
「あっちは華美すぎていけねえ。この菖蒲をごらんよ、葉も花も美しさを威張ることなく生きているじゃないか。それが美しいんだよ。わしも女房にするなら、こんな女がいいなあ」
この男は村ではケチなことで有名でした。
よく働いて飯を食わない女房が欲しいと公言していたので、村人からは距離を置かれていました。話しかけた村人も、そういえばケチな男だったと思いだし、菖蒲の話は止めにしてその場を離れてしまいます。
ですがそんな会話をこっそり聞いていた者がおります。
それは、菖蒲から生まれた妖でした。
妖は今まで『美しい』などと言われたことは一度もありませんでした。
妖にとって、男の悪評は知ったことではありません。なので、時折現れては菖蒲を愛でていく男のことがすっかり気に入ってしまいました。
そしてある日。
男がよく働く女房を探していると知った妖は、若く美しい女に化けて男の元にやってきました。
「わしは飯など食いません。たくさん働くから、どうかあんたの嫁にしてくれろ」
突然やってきた女に、男は大喜び。男と妖は夫婦となりました。
そうして幸せな日々はしばらく続きました。
男の傍でいられるだけで妖はとても幸福でしたが、その幸福は長続きしませんでした。
若く美しい女のふりをした妖は、本体である菖蒲を離れて村で暮らすことで、どんどん弱っていきました。力を取り戻すには、食べるしかありません。空腹になれば自身より下位の妖をこっそり食らえばよいと考えていましたが、人里である村には食べられるような妖はいませんでした。
困り果てた妖は、男が居ぬ間に倉からこっそり米を持ち出して食べることにしました。
自然からの生気も糧として得ることができた妖は、収穫しまだ生気の残る米を食べてなんとか力を取り戻そうとしたのです。
長い髪をかき分けて、頭にある妖本来の口から、たくさんたくさん米を食べました。
すぐにばれてしまうことなどわかっていたはずなのに、それでも男の傍にいたくて隠れて米を食べました。収穫した米は生気が少なく、どれだけ食べても妖が満たされることはありませんでした。
そしてある日、男に気付かれてしまいました。
悲鳴を上げて逃げ出した男を、妖は必死に追いかけます。
男と妖は長く短い日々を共に過ごしました。それはこれからも続くと妖は信じたかったのです。若く美しい女の姿は元の大きな口がある妖に戻り、走るたびに空腹はひどくなります。
なぜ逃げるのか。
なぜ恐れるのか。
なぜ受け入れてくれないのか。
このまま一緒にいられないというのなら。
――――いっそ食らってしまおうか。
怒りと悲しみと申し訳なさと空腹で、妖はもう正気ではありませんでした。
そして、とうとう男は走れなくなり、池の畔で倒れ込みました。
そこはかつて妖が男を初めて見かけた場所です。
『……綺麗だなぁ』
菖蒲を眺めて微笑む男の姿を、妖はふと思い出して立ち止まりました。
「――ああ、恐ろしい、恐ろしい。刀がたくさんある、それに嫌な臭いもする。こんなところにはいられない、なんと恐ろしいのだ」
それは、妖の嘘でした。
菖蒲の葉の中に倒れ込む男に背を向けて、妖は逃げていきました。
人と妖は共にいられないことを悟り、それならば食らおうかと一度は考えましたが妖にはできませんでした。
なぜだかわかりませんが、できませんでした。
夜更けの湖の傍に、昔の誰かによく似た人影が立っている。
どうするつもりもなく、妖は木の上からその影を眺めていた。細く軽そうな人間は、背中を押せばあっさりと水の中へ落とせそうなほど脆弱だ。
後ろから忍び寄って驚かしてやろうか、といつもなら興味のない悪戯を思いつく。
その人物が、こんな場所にいるからだろうか。
「……綺麗だなぁ」
その一言に時が止まった。
夜空のことか、湖のことかと、納得しかけて言葉を発した人間の視線の先に気が付く。
菖蒲だ。
美しい花など無い、鋭利な葉の植物だ。
そして妖自身でもあった。
【――はあ? ばっかじゃないのお、あなた】
「ええ!?」
振り向いた人間の少女は驚いた顔をしていた。短い黒髪の可愛らしい彼女は、あの男とは全く似ていない。
【どこが綺麗なのよ、やな草じゃない。花も微妙だし、くさいし、見ていて気持ちの良いもんじゃないわよお】
「いや、そんなことないと思いますけど。魔除けにもなるから便利だし。あ、そっか、あなたは妖だから苦手なんだね」
妖を見て当然のように会話する少女は、普通の人間ではなかった。
「とにかく、私は好きですよ。菖蒲」
【――そう、ばかねえあなた】
◆ ◆ ◆ ◆
キミドリは空腹が嫌いだった。
なんとなく締結師と契約してみたが、日に日に酷くなる飢餓感からこっそり他の妖を齧っていた。以前は全て平らげていたのに、少し残すようになったのはどうしてだろうか。
疑問を抱いて思い出すのは、下級の妖にも手を差し伸べる天莉の姿だった。
差し迫る白の光。一切を消し去る破邪の力。
打ち下ろされる鈴串を、キミドリは抵抗することなく見ている。本当ならこんな破邪師の小娘など縦に割いて喰らってやれたのに。
痛いと思う所から失せていく。存在が無へと帰る。
ずるりと別の肉体が身体から抜けていく。それは身も心も掌握した巌乃斗天莉だった。
【今度こそ喰ってやろうって、思ったのに】
キミドリは空腹が嫌いだ。耐えるのはもう嫌だ。
本質は人とは異なるもの、どうやっても限界がくる。
それでも傍にいたのは本性を歪める何かに焦がれてしまったせいかもしれない。
【ほんと、ばかねえ】
最期の言葉は、他の誰かに向けたものではなく、キミドリ自身への嘲笑だった。
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