第18話 巌乃斗天莉の追想/扉が開く時
いつから、こんなことになってしまったんだろうか。
小学校に通い出してすぐに天莉の生活は全てが苦痛になった。
仲の良かった友人と会話ができない。
先生の話が聞けない。
両親とのやりとりさえままならない。
何処へ行っても、黒い靄が視界の邪魔をする。誰と話そうとしても、気味の悪いノイズが付きまとう。必死に誰かの言葉を聞こうとしても、どこかは取りこぼす。学校の授業も友人同士のおしゃべりも、何もかもできなくなる。
したいのに、できない。そして注意される。
天莉の認識している世界だけが、どうしようもなく狂っていた。
天莉は何度も謝罪しながら、時には自身の不調を泣きながら訴えた。
聞いていないのではなく、雑音がひどくて聞こえないだけ。
忘れたのではなく、目に入る闇が恐ろしくて集中できないだけ。
周囲の人々は同情してはくれたけれど、天莉の状況を理解してくれはしなかった。世界の異常を感じているのは天莉だけで、皆にとっては穏やかな日常のまま。
それが耐えられず、天莉は部屋の中に引きこもった。
心配してくれる両親に繰り返しごめんなさいと謝って布団を被ってじっとする。ひとりでいると不愉快な靄と音は少しだけ気にならなくなった。
孤独な現状を受け入れ続けていたある日。
カーテンを閉め切って辛い現実から隔絶した部屋に――救世主はやってきた。
「開けてくれないか。あんたを助けにきたんだ」
嫌なノイズもない、澄み切った若い男の声。
膠着した状況を破壊するためのノック音。
顔さえ分からない彼は、天莉が誰にも言われなくて誰かに言ってもらいたかった言葉を簡単に口にしてみせた。嗚咽を飲み込んで、ずっと座りっぱなしだった足に力を入れて、倒れそうになりながら部屋の扉を開ける。
外と中の光量の違いのせいだったが、男には後光が差して見えた。
「理解できる奴がいなくて辛かったな。もう大丈夫だぞ」
黒いスーツ姿の美丈夫の名は、露払狗彦。
当時20代の若手締結師で、後に天莉の師匠となる男だった。
どうやら天莉には、妖と呼ばれるものが見えかけている。人とは違う理で生きているそれらを正しく認識できていないから、こんなにも世界が異常なのだと狗彦は教えてくれた。
「霊力が漏れてるし、あまりにも不均等だ。体調が悪かったのもそれのせいだな」
彼は自身の霊力を天莉に流し、何やら巡りを整える祭具だと言ってよくわからない首飾りや数珠を渡してきた。これまでの絶望が嘘のように天莉の視界は開けこの世は輝きだす。ただの現実だと理解しているのに、今までとの高低差がひどく天国にいるような気持になる。
「あと、原因はまだあって……おらッ」
【ぎゅ!】
狗彦が天莉の右肩の上辺りを掴むと、何やら黒いふわふわの塊が突如として現れる。長い耳のようなものがぶるぶると震えていた。
「こいつがずっとまとわりついてたのも原因だな。あんたの霊力が好ましくて傍にいたらしい。悪意はないが、ちゃんと知覚できてなきゃ気色の悪い靄にしか見えんからな」
【ぎゅぅうう】
小動物みたいな妖は情けなく鳴いていた。
初めて見た妖の姿形に、天莉の中でようやく霊力を通し妖にピントが合う。何かがかちりとはまり幻想を正しく理解する。正体を得てしまえば、味わってきた不快感は忌避すべきものではなかった。
「俺が言うのも変な話だが、許してやってくれないか。霊力の訓練を受けていない兆しが突然現れた一般人っていうのが、むちゃくちゃ珍しくてだな。普通なら害のある妖ではないんだこいつ。下級も下級でむしろ芥ってレベルで……いやまあ望むなら祓うが」
「ううん必要ない、です」
「そうか」
「私はもう平気だから。他の子には迷惑はかけちゃだめだよって、伝えてくれますか?」
「ああ、言っとく」
狗彦が妖に軽く指を当て何か囁く。黒いふわふわは承諾したように短く鳴いて、どこかへ消えてしまった。
その後、狗彦がやってきたのは両親のおかげということを天莉は知った。父親の遠い血縁に締結師がいたらしく、もしやと思った父と母が縋る様な思いで助けを求めたらしい。そして話は陰陽寮まで届き、狗彦が派遣された。
妖も見えないただのサラリーマンと主婦の2人が、この状況を打開しようと動いてくれたことに天莉は心底感謝した。きっと妖なんて分からない両親にはオカルトじみた怪しい賭けだった。
だが結果、天莉は救われたのだ。
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