第2話 ここから始まる新たな日常

 平日の、スーツ姿の人が行き交うオフィスビル街にて。

 とある高層ビルの正面入り口で、わたくしは詰めていた息をようやく吐き出す。見定められる不躾な視線にさらされ、今まさにそこから解放されたばかりだ。

 背後のビルから逃げ出すように、近場の駅へと歩き出す。

 そんなわたくしの足元をついて来るのは、銀灰色の仔狐――ミチルの式神の村雲だ。


「思ったより、あっさり決まりましたわね。わたくしは特に怪しい部分はないと判断したのですが、村雲はどう思いますか?」

「拙者も、現段階では指示に従って問題ないと考えまする。呪詛や操作などの術は発動しておりませんでしたし……もちろん何らかの利益を期待されているでしょうが」


 見下ろすように立ち並ぶビルの窓は陽光を反射し、人々は忙しなくその中をすれ違う。大人ばかりの街中で、先ほどの出来事について語り合うわたくしと村雲は通常ならばとても目立ってしまうだろう。

 けれど、わたくしはいつもの白衣に緋袴という破邪師の姿を村雲の術によって地味なスーツへと見せかけている。また村雲も狐のままだが、不可視の術をかけその姿を消していた。




 何故こうなったのか、という経緯を少しばかり振り返る。


 ミチルと別れ、大須賀家から離れて、あれから1か月程経った。

 正直今でも、自身が生きていることが信じられなくて、曖昧で不確かな道を進み続けているような気分は変わらない。


 わたくしは、あの日八重の巫女になろうとした。

 けれど失敗して全てから解放された。

 それもこれも、大須賀ミチルのおかげである。


 あらゆる罵倒を、蔑みの視線を、叫びたい葛藤を、自分自身に投げつけてずっとベッドに寝ていたかった。でも、それではダメだと知っていた。

 永遠に振り向いてもらえなくても、あの茶色い髪の後姿を追い続けていたかった。

 だから泣きわめく未熟なわたくしを心の奥底にしまって、再び歩き出すことにしたのだ。


 そう決めてからは、今後をどうするか考える日々だった。

 生きていかなければならないわたくしに、何ができるのか。


 それはやはり――破邪の力しかない。


 大須賀以外の妖への対応を生業とする組織は他にもたくさんある。八重の巫女候補としてそれなりの修行をしてきたわたくしを、生かせる場所があるはずだ。これまで過ごしてきた家から逃げて、手元に残ったものはほとんどない。故に、とにかく落ち着ける場所がいる。その他の選択肢は、わたくしが地に足付いて考えられるようになってから選べばいい。


 そして、しばらく隣にいると言ってくれた優しい村雲と共にわたくしは東京へと向かった。

 村雲は大須賀家や櫛笥の家から色々と持ち出していてくれた。その中でも、現金にはわかりやすく助けられた。わたくしが、破邪師として受けた仕事の報酬はその都度銀行口座に振り込まれていた。逃げているこの状況でお金を引き出すことはできないが、儀式よりも前に財布に納めていた現金は使っても問題ない。

 そのお金のおかげで、問題なく交通機関も使えたし、安いホテルにも泊まれた。想像以上に東京への道のりは快適だったと言える。


 東京へ行く目的は、一つ。

 破邪師の派生の大元、陰陽師たちに頼ろうと考えたからだ。


 破邪師である大須賀家は閉鎖的であったが、妖と人間の均衡を保ち続ける陰陽師たちと完全に縁を切ることはしていなかった。というか、できなかったのだろう。

 陰陽師たちが所属する陰陽寮の会合に、大須賀家当主は時たま参加していた。

 わたくしは行ったことはないが、たしかミチルは何度か連れられて行っていた。


 元々京都にあった本拠地を時代の流れで東京に移し、現在も多くの陰陽師を取りまとめる、陰陽寮。

 その配下にはたくさんの下位組織が存在している。そのどこかに入り込んで仕事にありつけないかと考えるのはわりと自然な流れだろう。


 東京に到着し、ミチルと一緒に陰陽寮の会合へ参加したことがある村雲に手紙を預け、返事を待った。

 宛先は組織のトップの補佐役である陰陽助。

 現在の陰陽助は、一度だけ大須賀の本家に訪れていた初老の女だ。彼女とは偶然屋敷の中で出会い、表面的な挨拶を交わしている。その時の記憶にこびり付いた一言がこれだ。


『何かあれば、頼ってきなさい。土御門と大須賀の仲ですもの』


 大須賀家は他の術師たちとあまり関係を持つことを好まない一族で、陰陽寮を取り仕切る土御門の一族との関係も冷え込んでいた。

 だから、この彼女の発言は当てこすりだったのだろう。

 皺の多い、厳めしい顔つきの年老いた女は、吹雪のような冷たい印象だった。

 そんな陰陽助に期待しても無駄なのかもしれない。けれど、嫌味としても口にされたのだから、お言葉通り頼ってみるべきだ。

 大須賀家との仲の悪さが、わたくしにとっては良い結果に繋がるのではないか、と細い希望に縋りたくもなる。


 そして村雲が持って帰った返事から、オフィスビルに偽装した陰陽寮の拠点の一つにわたくしは呼び出された。

 拒否されるのか、捕まるのか、大須賀家に突き出されるか。

 最悪の想定ばかりしていたが、わたくしはあっさりと受け入れられた。


 陰陽助や陰陽寮に所属する陰陽師数人に囲まれ、手紙の内容より詳しくことの経緯を話した後のことだ。とある人物の名前や住所を教えられ、その男の元で今後は動く様にと言われた。

 予想以上に簡単に決まってしまったわたくしの処遇について、このまま従ってもいいのかやはり不安にもなる。

 とりあえず不利益な条件は突きつけられず、何かしらの制約の術もかけられなかった。

 というわけで、わたくしと村雲は陰陽寮の指示した人物の元へと向かうことを決断したのだ。




 電車に揺られること、2時間以上。

 結局、勇んでやって来た東京を去ることになってしまった。

 東京は人や妖が多すぎて落ち着かなかったが、今やって来た場所もその都会ぶりはあまり変わらない。わたくしが住んでいた田舎と比べれば、何もかもが混沌としていて雑多だった。


「ここ、ですわね」

「そのようでありまするね」


 村雲と2人並んで、一軒の平屋の前で覚悟を決める。

 その物件は古き良き日本家屋といった趣で、外観から重ねてきた年月を察することができた。大須賀本家のような巨大な屋敷ではなく、一般家庭が住むようなそこそこの広さに、何故だかほっとしてしまう。正直、冷淡で贅沢な屋敷はしばらく見たくはなかった。


 敷地の中へと足を踏み入れ、恐る恐る古びた玄関チャイムへと手を伸ばす。力を込めれば、家の中でこもった呼び出し音が響いているのがわかった。だが数十秒待っても返答はない。続けてもう一度チャイムを押しても結果は同じだった。


「お留守、なのでしょうか?」

 その時、隣の村雲の耳がピクリと動く。

「物音がいたしました。見てまいりまする」


 玄関から左側へ、垣根と家屋の間の隙間を村雲はするりと歩いて行く。その迷いのない行動を慌てて追いかけると、こぢんまりとした庭があった。綺麗に整えられている、という風ではなく中身のない数個の植木鉢とよくわからないアウトドアグッズが放置された場所だ。


 家には縁側があり、外と内を仕切るガラス戸は大きく開け放たれていた。

 広めの畳の部屋が丸見えで、机や戸棚やテレビ、書類に囲まれたデスクトップパソコン、さらに床に散らばった衣服から生活感が漂っている。10月の過ごしやすい日差しが居間らしきその部屋を柔らかく照らしていた。



「あー悪い悪い。トイレ行ってて出れなくてさあ」



 奥からやってきた男の、のんびりとした声にはっとする。

 穏やかな部屋の様子に見とれていたが、そんなことをしている場合ではない。家主は怒ってはいないようだが、勝手に入って来てしまったのはあまりに失礼だ。


「も、申し訳ございません。お庭へ無断で侵入してしまい、初対面であまりに無礼な」

「いいって、いいって。ここに来る奴らみんな庭から入ってくるし。玄関とかもう飾りだから」

 どうでもよさそうに言い捨てて、壮年の男はそのまま縁側に腰かける。


 手入れされていないぼさぼさの黒い髪と無精髭。

 どう見ても部屋着の、鈍色の作務衣。

 だらしない風貌だったが、元々の顔の良さからか彼には似合っていた。


 姿勢を正し、頭を下げる。

 いつのまにか村雲はわたくしの足元へと戻っていた。尻尾を自身の足にからめ、何やら屋根の上の方をじっと見つめている。


「寛大なお言葉感謝致します。改めまして、陰陽寮からの紹介で参りました、櫛笥みことと申します」

「へーふーん、ほーん」


 顔を上げると、彼は何やら視線をさ迷わせ、わたくしの後ろや上空の様子を観察していた。

 そしてめんどくさそうに溜息を吐く。


「うわあ、まじで破邪師なんだぁ……」


 わたくしへ自己紹介の感想ではなく、どう考えても思わず零れた一言だった。

 粗雑な姿に反してどこか油断できずこちらを射抜くような彼の眼光に、負けじと睨み返す。そんなわたくしの反応に気が付いているのかいないのか、彼はあっさりと自己紹介を返してきた。



「聞いてるとは思うけど、俺は露払狗彦つゆはら いぬひこ。よろしくな、櫛笥の嬢ちゃん」

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