第5話  奏多よりも近い場所で


 夏期講習初日、優李は痛恨のミスに気づいた。


「オミ、どっちのコース?」

「コース?」

「進学か基礎か」


 優李たちが通う塾の講習は『進学コース』と『基礎コース』の二つに分かれている。優李は当然のように進学コースを選んだのだが、オミに確認しておくのをすっかり忘れていた。


「基礎」


 やはりか。最初に訊いておくべきだった。


「なんだよ。だめだったか?」

「だめじゃないよ。オミの場合は基礎のほうが授業もわかりやすいだろうし。ただコマが違うから、俺とは日程が違う日もあるかも」

「マジかよ。優李がいないと俺、授業中起きてる自信ないんだけど……」


 オミは置いていかれる犬のような顔をした。普段は滅多に見せない表情に、そこはかとない優越感が込み上げる。オミに必要とされるのは新鮮だ。いいところを見せられるチャンスとばかりに気合が入る。

 塾の教室は学校よりも狭い。地元の塾だからか、見知った顔も何人かいる。久しぶり、と声をかけ合いながら指定された席についた。今日は初日の説明だけなので、オミも同じ教室内にいる。

 派手な金髪は圧倒的に浮いていて、他校生だけでなく同じ学校の人からも遠巻きに見られている。入室してきた講師もオミへ視線を送っていたけれど、当の本人に気にする素振りはない。


「はい、それじゃあ資料を配ります」


 ホワイトボードの前に立った講師が声を張り、教室内の騒めきが消えた。説明が滞りなく進んでいく中、斜め前方ですでに眠たげにしているオミの横顔をそっと見る。

 不良だなんだと嫌煙されているけれど、黙っているとオミはとても綺麗だ。スッと通った鼻筋、大きな口。いつも不機嫌そうに歪んでいる薄い唇は、笑うと大きく開かれて八重歯が覗く。真っ赤なカラーコンタクトがここまで似合う人もそうそういないだろう。繰り返し施されるブリーチを物ともしない髪は今でもサラサラで、空調の風を浴びて微かに踊っている。

 オミが髪を染めた日から、優李の中には誰にも言えない感情が棲みついている。今のところ私生活に影響はない。風がない日の水面のように、自分だけが気づく程度にひっそりと揺れ続けている。きっとこれからも、何事もなくただそこに隠れているだけだ。


 ──見ているだけでいい。


 こうやって、少し後ろから見ているだけで。


「それじゃあ皆さん、これから一緒にがんばっていきましょう」


 前席の生徒が急に立ち上がり、説明会が終了したことに気づく。夏期講習生は各々帰り支度を始めていた。元々の塾生はこのあと授業があるらしく、優李も急いで身支度を整え教室から退出する。先に出ていたオミが、いつも通り好奇の視線を集めつつ壁に寄りかかって待っていた。


「遅い」

「ごめんごめん」


 不機嫌そうに眉根を寄せるオミの隣に並び、一緒に階段を下りた。もらったばかりのカリキュラムを広げ、この夏の勉強地獄をぼんやりと思い描く。オミは難しい顔で日程表を睨み、


「俺、夏期講習って一日中あると思わなかった……」


 と、ぼやいた。


「ああ、半日の日もあるけどね」

「これ昼飯持参ってこと?」

「そうだね。これからは先にコンビニ寄ってく?」


 オミの親は料理があまり得意ではない。学校の昼食も、いつも購買かコンビニのパンだ。優李は自分で弁当を作るのでコンビニに寄る必要はないのだけど、さほど遠回りにもならない。


「うーん、でもさすがに飽きるよな。こう毎日だとさ」

「このへんセブンばっかだもんね」

「優李、俺のぶんも作ってよ。代わりに毎回ジュース奢る」

「え!?」


 思いがけない提案に大きな声が出た。オミを見ると、うんうんと何度も頷きながら、


「たまにくれるおかず、めっちゃ美味いんだよな。我ながら良いアイデアだ。どうせおばさんの作るんだろ?」


 と首を傾げた。


「べ、別にいいけど……」

「よっしゃ。楽しみ」


 オミは八重歯を覗かせ、くしゃりと潰れたような笑顔を見せた。


 ──オミに弁当を食べてもらえる。


 長い付き合いの中で、これははじめてのことだった。嬉しいような、怖いような、ちょっと誇らしいような。期待と不安が交互にやってきて、心の中が慌ただしい。

 そういえば、こうしてオミと二人で歩くのも随分と久しぶりだ。バンドを始めてから一緒に過ごす時間はもっと増えたけれど、そこには必ず奏多の姿もあった。二人きりというシチュエーションを意識してしまうと、鼓動が加速する。変な汗まで出てきた。今が夏で助かったな、と手の甲で額を拭う。

 塾から家までの帰路、オミは三人のときよりも進むペースが速い。そのことに気づくと、胸の隅がひりついた。


「なぁ優李。高校入ったら、ライブとかちゃんとしような」


 唐突に声をかけられ、返すまでに一瞬間が空いた。


「……学校の体育館とかじゃなくて?」

「それは中学で卒業しようぜ。来年はバイトして金貯めて、ライブハウス借りてさ。想像するだけで楽しそうじゃねぇ?」

「そのためにはまず、高校に受かんなきゃ」


 優李がそう言うと、オミはそうだなと豪快に笑った。

 一歩進むたびに汗が噴き出るほど暑い。焦がされるような炎天下だ。毎年同じように暑さに辟易するけれど、今年はいつもとは違う夏がやってきた。

 優李は今はじめて、奏多よりも近い場所でオミを見ている。


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