第3話  ありがとうじゃ足りない


 小学六年生になった頃、唐突に優李へのいじめが始まった。

 当時、クラス内で幅を利かせる中西という男子がいた。いじめの発端は、彼の意中の女子が優李を好きらしいという噂が流れたことだった。ガキ大将に睨まれたくないクラスメイトたちはこぞって優李の陰口を叩き、優李を好きだと言っていた女子もいつの間にかいじめに加担するようになった。

 この頃、優李はすでに自分が異性から好かれる容姿であることを認識していた。それは同時に、同性から嫌われる容姿であることも意味している。だからこの状況は仕方がないことなのだと受け入れる他なかった。


 そのうち過ぎる。少し我慢していれば飽きるだろう。中学に上がったら、学年の半分は別の学校に行く。大丈夫、これくらいなんともない。誰だって自分が一番大事で、損をしないように振る舞い方を考えて生きている。中西に逆らわない奴らは最低だけど正しい。世の中にはもっと凄惨ないじめもあるのだ。それに、自分にはオミと奏多がいる。大丈夫。大丈夫。


 そうやって自分を励ましながら学校へ通った。不思議なもので、学校生活上で誰とも会話をしない日が三ヶ月続いても、なんの問題もなかった。自分は案外独りを好む性格だったらしい。無意味な付き合いのない日々を、どこか快適にすら思い始めていた。

 心ない言葉は一切無視すると決め、沈黙を貫く。反応のない優李をつまらなく思ったのか、周囲はそのうち静かになっていった。そんなある日、中西とすれ違いざま肩がぶつかった。気にせず無視すると、癪に触ったのか、背中に飛び蹴りをされた。それから教室中に響き渡る大声で、


「お前の母さん、アバズレなんだろ」


 と、最低な言葉で罵倒をされた。

 その言葉の意味を、言った本人はきちんと理解していないようだった。噴火しそうなほどの怒りが込み上げ、目頭が熱くなる。


「女一人であんなマンション買えるわけない、男に貢がせてるって、俺の母さんが言ってた。それにお前の髪と目、どう見ても日本人じゃねーもん。ガイジンとの間にできたフテーの子なんだろ。そういうのアバズレって言──」


 頭の中でなにかが切れる音がして、相手が言い終わる前に殴りかかった。

 怒りに狂い、はじめて他人に暴力を振るった。がむしゃらに振り回した拳は中西の頬に当たり、隣にいた奴の肩に当たり、避けられれば床や壁に当たった。自分は今、人を殴っている。痛い。怖い。だけど恐怖に顔を歪めて泣きそうになっている中西の姿は、優李に途方もない清々しさを与えた。

 今までの鬱憤が爆発したせいか、自制がまったく効かない。無言のまま何度も拳を振り下ろしていると、騒ぎを聞きつけた教師に後ろから取り押さえられた。


「やめなさい!」


 教師の声で我に返り、優李は乱れた息を整えた。中西は汚れた教室の床に転がって泣いている。ざまあない。人をいじめるのなら、仕返しされる覚悟を持てよ。痛みには痛みを返される。当然の報いだ。


「どうしてこんなことをしたんだ」


 野次馬に囲まれる中で教師に問い詰められ、優李はごく冷静に答えた。


「こいつが、俺の母さんのことを『アバズレ』って言ったんです」


 教師はサッと顔を青くする。小学六年生では知らない人間のほうが多い言葉でも、それがどれだけひどい侮辱なのか、大人ならわかるはずだ。これで中西の悪行は白日の下に晒された。もう自分が我慢することはない。いじめは明かされたのだ。そう思うと、急に気が抜けて涙腺が緩んだ。

 泣きそうになるのを堪えて教師の言葉を待った。彼が中西を叱ると思ったからだ。しかし教師は中西を一目見遣っただけで、なぜか優李をきつく睨んだ。


「子供の喧嘩でなんて言葉を使うんだ。それに、暴力はだめだろう」


 ──はぁ?


 優李はぽかんとして固まった。その言葉を使ったのは中西のほうで、こちらは言われた側だ。なぜ自分を叱るのかまったく意味がわからない。なにを言っているのだ、この大人は? ぐずぐずと泣いているガキ大将を見下ろすと、保健室医に優しく髪を撫でられていた。

 このとき、優李は悟った。

 そうか、こういうときは怒るのではなく、泣くべきなのだ。泣けば優しくしてもらえる。たとえ相手が先に非道なことをしても、怒り狂って反撃した優李は悪者になる。母さんを貶された時点で泣いてしまえば、自分にも優しくしてもらえたのか。


 ──暴力はだめだろう。


 ずっと暴力を受けてきたのは優李だ。重い言葉で散々殴られ続けた。教師たちだって薄々は気づいていただろう。それでもなにもしてくれなかったのは、優李が助けを求めなかったからだったのか。結局、見て見ぬふりをされたのだ。

 失望して俯くと、ふいに身体が解放された。驚いて顔を上げれば、教師がうつ伏せで倒れている。その背中を踏みつけるように、オミがまっすぐ立っていた。


 ──えっ?


「先生、優李の話、聞いてなかったんですか? アバズレって言ったのは中西のほうです。手を出した優李も悪いけど、中西だって優李にひどいことをしました。優李だけを責めるのは間違っています」


 優李が呆気に取られていると、オミの後ろから奏多がひょいっと顔を覗かせ、そう言い放った。大人顔負けの言い様にあたりはしんと静まり返る。


「な、なんなんだお前たち。違うクラスだろう。早く退きなさい!」

「クラス? それ、今関係ありますか? 優李は僕たちの幼馴染です」

「幼馴染? 子供がなにを言っているんだ。いい加減にしなさい」


 教師は耳まで真っ赤に染めて憤怒した。顔が半分グニッと潰れていて恰好悪い。大の大人が小学六年生に踏みつけられている情けない光景に、周囲の野次馬たちもクスクスと笑い始めた。

 耐えられなくなったのか、教師は無理矢理身体を起こそうともがく。するとオミは右足に体重をかけ、えいやっと勢いをつけて飛び降りた。教師は反動で再び床に転がった。


「幼馴染ってのは、ずっと一緒にいる奴のことだろ」

「え?」

「俺はなにがあっても優李と一緒にいる」


 数秒、目が合う。

 オミのまっすぐな瞳に、胸のうちまで見透かされているようだった。

 するとオミはいきなり野次馬に突っ込み、


「俺の幼馴染泣かせてんじゃねー!」


 と大声で怒鳴った。

 それから急に走り出して、優李のクラスメイトを一発ずつ殴って回る。教室内はパニック状態に陥った。一心不乱に拳を振り回すオミから逃れようと、生徒たちはバラバラに走り回り、教師たちは慌ててオミを追いかけた。けれど元々すばしっこく運動神経のいいオミはなかなか捕まらない。

 結局ほとんどのクラスメイトがそれぞれ一発食らい、女子に至っては泣き出す子までいた。阿鼻叫喚の中、優李の手を握る奏多だけがいつも通りにこにこと微笑んでいる。


「奏多、オミ止めなくていいの?」

「なんで?」

「怒られちゃうよ」

「平気だよ。優李にひどいことした奴らなんか、殴られて当然だ」


 落ち着いた声でさらりと言ったけれど、奏多の目には明らかな怒りが滲んでいた。


「なんで二人がそこまで怒るの?」


 問うと、奏多はむっと顔をしかめた。


「ひどいな。わかんないの?」

「わ、わかんなくはない……けど……」


 わからないわけがない。だけど言葉にするのは恥ずかしい。口を開けば色々な感情がこぼれ落ちそうで、唇をぎゅっと強く結ぶ。


「優李」


 いつの間にかオミが戻ってきていた。大勢の視線を浴びても、オミはどこ吹く風で平然としている。


「帰ろうぜ。昨日のゲームクリアしたいし」


 待ちなさい、と慌てる教師たちを完全に無視して、地獄絵図となった教室を後にする。オミの右手には奏多、左手に優李。はじめて会った日からずっと変わらず、三人で手を繋いで歩く。

 家に帰るとすでに学校から連絡が入っていて、優李たちはそれぞれの親にこってり搾られた。優李は人を殴ったことについて母さんから叱られたけれど、最後には泣きそうな笑顔で抱きしめられた。優李が怒った理由を聞いたのだろう。できれば母さんの耳には入れたくなかった。

 それから一緒に夕飯を作って、久しぶりに同じ食卓を囲んだ。洗い物まで終えたあと、母さんに了解を得て部屋を出る。

 まずは紀伊家のインターホンを押した。出てきたオミの両親に謝り、オミは自分のために人を殴ったこと、だからなにも悪くないこと、そしてそれが自分はとても嬉しかったことを伝える。オミの両親はじっと耳を傾けてくれた。


「ありがとうね」


 最後まで聞き終えたオミの母親は、なぜか優李に礼を言った。


「えっと……なにがですか?」

「うちの子のために話しにきてくれたんでしょう」

「それは、だから……オミが俺のために……」


 元はと言えば、自分が起こした問題だ。それをオミと奏多が、わざわざ優李のために怒ってくれた。最初に優李のために動いてくれたのはオミたちのほうだ。人を殴ると自分も痛いし、大人には怒られるし、クラスメイトには嫌われるかもしれない。優李の味方をして得になることなんて、なに一つない。それでも優李のために立ち上がってくれた。

 嬉しい。申し訳ない。柔らかい気持ちが溢れてきて、胸がぎゅっと苦しくなった。

 オミの両親は優しかったけれど、それでもやはり暴力はだめだと叱られた。素直に頷いて場を後にする。オミは家にいなかった。夕飯までには帰ると言って出かけたらしい。

 少し迷ってから奏多の家へ向かう。もしかしたらここにオミもいるかもしれないと思ったけれど、予想は外れた。奏多は今日の騒ぎで軽い発作が出たようで、ベッドに横たわって本を読んでいた。


「奏多、ありがとう」

「なにが?」

「……俺のために怒ってくれて?」


 気恥ずかしくて疑問系になってしまったけれど、奏多は満足したようだった。奏多の両親にも謝り、家には帰らずマンションを出る。

 外階段で立ち止まり、オミが行きそうな場所を考えた。小学生が一人で行ける場所なんて限られている。そんなに遠くにはいないはずだ。あれこれ考えながらとりあえず学校方面に足を伸ばすと、マンションからほど近い公園の前でオミの声が聞こえた。


「ゆーり! こっちだ」

「オミー? どこー?」


 公園内に他の子供の姿はなかった。けれどオミの姿も見当たらない。燃え上がる夕日に包まれた無人の公園はひどくさみしくて、もう二度とオミに会えないのではないかと急に不安になった。


 ──オミ。オミ。


 駆け足であちこち回っていると、もう一度「ゆーり」と声が聞こえた。案外近くで呼ばれてホッとする。


「こっちだって言ってんだろ」


 下からだと靴の裏しか見えないけれど、どうやら山型遊具の上にいるようだ。

 優李も登っていくと、半分くらいまできたときにようやく姿が見えた。顔を上げた瞬間、驚きでうっかり滑り落ちてしまいそうになる。

 オミの髪が金色になっていた。目は吸血鬼みたいに赤い。


「え、な、ど」


 え、なに、どうしたの。と言葉にできず、最初の文字だけが口から飛び出した。

 オミはてっぺんに寝転がって空を見上げている。仰天なビフォーアフターを遂げているのに、オミがなにも言わないのでどう突っ込んでいいかわからない。とりあえず優李も横に転がった。数秒間を置き、やっとのことで切り出す。


「そ、その頭、どうしたの」

「美容院行って染めてもらった」

「目は?」

「目はコンタクト」

「コンタクトって、赤いのもあるの?」

「カラーコンタクトっていうんだぜ」


 身体を起こして覗き込んでみる。

 金髪と赤目。獰猛な獣のようだ。よく見てみると、白目も少し赤くなっている。こちらはたぶん充血だろう。慣れないコンタクトを入れて痛がっている姿が容易に想像できる。


「痛くないの?」

「平気」

「でも痛そう」

「平気だっての」


 オミは拗ねたように唇を尖らせる。優李の腕を引っ張り、自分の隣に転がした。


「なんで言わなかったんだよ。いじめられてること」

「……言いづらくて」

「俺たちそんなに頼りないかよ」

「違う。そうじゃなくて……」


 恰好悪いだろ、と言うのはなぜか憚られて、誤魔化すようにはにかんだ。


「どうせ今だけだって思ってたから。中学上がったら、中西とも離れるし」

「まだ半年以上あるじゃん」

「半年なんてすぐだよ」


 オミはしばらく優李を見つめたまま黙った。まただ。その瞳に見つめられると、少し怖い。すべてを暴かれているような気分になる。

 なにも言えず優李も黙り込むと、急に脇腹を強めに小突かれた。


「痛い! な、なんだよ、いきなり」

「優李は頭いいから難しいことばっか考えてるけど、たまには馬鹿になれよ」

「馬鹿?」


 訊き返すと、オミは頷きかけてハッと目を見開いた。ぶんぶん首を横に振り、


「訂正。それだと、俺は常に馬鹿ってことになる」


 と、よくわからない自虐をする。


「俺は馬鹿じゃない。ちょっと頭が悪いだけだ」

「なんの話だよ」

「とにかく、たまには自分の気持ちを大事にしろってことが言いたいんだよ」

「気持ち?」

「そう。気持ち。中西をぶん殴りたい気持ちとか」

「それならまさに、今日やらかしたばかりだよ」

「あんなんじゃ足りねーよ。もっとぶん殴ってやればよかったのに。なんならおまえをいじめた奴全員、ぶっ飛ばしてやるとかさ」

「オミがしてくれたじゃん」


 そう返すと、オミは確かにと言って笑った。

 なんとなくまた沈黙が落ちて、二人でぼうっと上空を眺める。空はもうすぐ夜がやってくる色をしていた。茜色が紺色に近づいていく。絵の具を少しずつ混ぜるみたいだ。滲んだ部分は、なんて名前の色なのだろう。

 少し首を傾けると、まだ見慣れない黄金色が夕日に照らされ、キラキラと小刻みに輝いていた。ぼんやりした瞳には、赤いコンタクトレンズが被さっている。オミのイメチェンの理由はなんとなく察していた。でもやはり、口にはできない。勘違いだったら恥ずかしすぎる。……けれどもし、自分が思っている通りだったなら。


 ──ありがとうじゃ足りないよ。 


 優李の瞳と髪は茶色く、これは父親譲りで生まれつきのものだ。自分が確実に父さんの息子であることは間違いない。けれどその父さんが近くにいないものだから、中西やクラスメイトに対して証明する術はなかった。外国人との不貞の間にできた子供──そんな根も葉もない噂を信じるほうがどうかしているけれど、奴らは真実なんてどうでもいいのだろう。ただ他人の容姿を貶して笑いの種にしたいだけだ。だから陳腐な悪口は気にしないに限る。ずっとそうして、自分なりの防衛を続けてきた。

 それでもやはり、まったく傷つかないわけではない。一つ一つは小さな攻撃でも、傷痕は着実に広げられていく。小さな針を何度も突き刺され、心の表面はすっかりざらついた。


 ──俺の幼馴染泣かせてんじゃねー!


 あのとき優李は、涙をこぼしてはいなかった。だけど心は泣いていた。どうしてオミはわかったのだろう。


 ──ずるいな。恰好良すぎて悔しいよ。


 ふと目が合うと、オミはにかっと歯を見せて笑った。あまりに眩しくて目に沁みる。胸の奥がぎゅうと締めつけられ、ざらついた患部に柔らかい蜜を落とされた。とろりと広がった温かい膜で覆われた心は、すっかりオミのものになった。


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