〔受賞作/カクヨム以外〕菜の花の咲く丘。そこに立つ桜色。

烏目浩輔

第1話

 ふっと目が覚めるともう夕刻になっていた。草木の揺れる庭を茜色に染めあげる陽光が、縁側を通り越してこちらの居間にまで差し迫っている。


 期限が三日後に迫っている原稿を仕上げようと、食卓と仕事机を兼ねているちゃぶ台で執筆作業をしていた。だが、背に差す陽光がどうにもここくて、ごろんと寝転んだのがいけなかった。そのまま今の今まで寝入ってしまっていたらしい。

 春のうららかな陽気というのは、ちょくちょくこのようなたいを誘う。

「よっこらせ……」

 私は寝起きのだるい身体をのそりと起こした。すると、肩から畳の上になにかがするりと滑り落ちた。摘みあげてみれば藍色の茶羽織である。


 夕刻になって気温がさがってきたゆえであろう。普段から使っている皺だらけの茶羽織だが、風邪引きを案じて肩にかけられていたのだ。しかし、執筆中に思いがけず眠ったのだから自分でかけたはずがなく、かといって他者の手によってかけられたものでもない。この古びたひらすまうのは、男やもめの私ひとりだけなのだ。

 やはりな、と私は思う。

 この家ではこれまでにも不可思議な現象が起きてきた。しょうして散らかしっぱなしだった文具が、いつの間にか片されているということがあった。突然の雨に焦って庭に出ようとしたとき、すでに洗濯物が取りこまれていたなんてこともあった。そして、今回のこれだ。うたた寝した私の肩に茶羽織りがかけられていた。


 やはりこの家にはがいる。私はいよいよそう確信したのである。

 羽織はそのわざに違いなく、実のところそのには若干の心当たりがあった。

 私は羽織をかたわらに置いて立ちあがり、戸棚に仕舞ってあったもちをひとつ取り出した。隣家にいただいたしらもちだ。さらに七輪も抱えて奥の座敷に向かった。


 座敷の北東側の壁にはとある絵がかけてある。四方が二尺(約六十センチメートル)ほどの真四角の絵だ。落ち着いた色ばかりを用いた優しい水彩画で、えがかれているのは宿場町らしき風景だった。

 絵の中心にずっと向こうまで伸びていくみちがあり、その両脇に二階建ての宿がずらりと軒を連ねる。宿の上に広がる空にうろこ雲が描かれているようすからして季節は秋だろうか。町並みが賑やかであるわりには、人っ子ひとり行き交っていない。


 この絵は約十年前に買いあげたしろものだ。妻は絵を見るのが好きで、特に優しい風合いの絵を好む。きっと妻が気に入るだろうとこの絵を手に入れたのだが、当時に二百円もの高値がついていた。

 現在の私は三十代前半になったが、今も昔も鳴かず飛ばずの文筆家だ。その実入りといえば、世の男性どもの平均月給である百円、それと同等かそれ以下の額でしかない。にもかかわらず、私は二百円もする上等の絵を今は亡き妻に買い贈った。

 なぜそんな浪費をしたのかと、今となれば首を傾げざるを得ないが、それだけ妻に惚れていたということだろうか。


 その絵の前に持ってきた七輪を据えて火を焚いた。それから白餅に特製の味噌を塗りつけて、七輪の網の上に乗せてあぶっていく。しばらくして香ばしい煙が漂いはじめた。

 私は煙を団扇うちわでぱたぱたとあおいで絵のほうに差し向けた。上等な絵を煙まみれにすることに躊躇ためらいも覚えたが、この平屋には私以外にもが棲んでいる。もしかしたら、餅からあがる香ばしい煙でその正体を暴くことができるかもしれない。


 団扇をぱたぱたあおぎながら、私は絵をじっと凝視していた。すると一番手前に描かれた宿、その二階の窓ががらりと開いて、小さな顔がひょっこりと現れた。桜色の着物を着つけた若い女性の顔だ。

 彼女はこちらを伺うような素ぶりを見せたが、私と目が合うとたいそう驚いた顔をした。気づかれた、と言わんばかりの顔だ。しかし、次の瞬間には慌てたようすでその顔を窓の中に引っ込めた。


 絵の中で人が動いている。その奇異な現象に驚きながらも、私は絵に向かって声をかけた。

「こら、隠れない。しっかり見たよ」

 しばらく絵にはなにも変化が起きなかった。だが、ややあって、さっき隠れた桜色の着物を着つけた若い女性が、再び二階の窓から顔をすうっとだした。

 絵の中の彼女は膨れっ面で口を開いた。

「食べ物の匂いでつったのですね。なんともまあひどい人です。そんなことをして心が痛まないのですか?」

「いや、それよりこの状況を説明してくれないか。なぜ君が絵の中にいる?」

「お気に入りの絵だからですよ」

 答えになっていない答えだった。


「まったくもう、本当にひどい人ですよ……」

 彼女は不服そうに言いながら窓の中に顔を引っ込めた。直後に階段をおりるような音が絵から聞こえてくる。しばらくして宿の一階にある入り口に現れた彼女は、絵の中からこちら側にぬっと出てきた。

「よっこらせ」

 私は慌てて忠告した。

「七輪がある。火傷しないように」

「わかっておりますよ」

 七輪を冷静にけた彼女は、私の前で膝を折って正座した。そして、改まった顔で私を見ると、畳の上に三つ指をついて、深々と頭をさげて言った。

「ご無沙汰しております」


 そうしてから顔をあげた彼女は、私を見つめてにっこり笑った。絵の中から出てきたのはまぎれもなくだった。

 つまり、十年ほど前に死去した私の妻である。

 私は沙代が亡くなってから十年としをくったが、彼女のほうはといえば当時のままだった。二十代前半の若々しい姿をしている。


 沙代と夫婦めおとになったのは親が持ちかけてきた縁談がきっかけだった。

 当時の私は実家に住んでおり、よわいはまだ十代後半だった。そんな事情もあって所帯を持つ心づもりなどつゆほどにもなく、ゆえにその縁談をいかにも投げやりにとらえていた。だが、縁談の場である実家で沙代と顔を合わせた刹那にそれまでの考えを改めた。彼女が稀に見る器量好しだったからである。

 目鼻立ちの整った小さな顔に、みひとつない白い肌。緑なす豊かな黒髪は艶やかで美しい。沙代に瞬刻で一目惚れした私は、ぜひとも妻に迎えたいと切に願った。


 面倒でしかなかった縁談がいっきに正念場となり、沙代の心をなんとしても射止めなければと気張った。どちらかといえば口下手な私が彼女を退屈させないよう話題を提供し、だが、べらべらと話ばかりする軽率な男にも思われないよう努めた。

 そして、将来の志望は作家になることであり、いつか作家として大成してみせると、勢いばかりのおおまで切ったのである。


 縁談の感触はさして悪くはなかった。すると、その三日後に沙代本人が私の実家にやってきた。家にあがるようにと声をかけたが、彼女はそれをやんわり断ると、玄関に突っ立ったまま私に尋ねた。

「とても大事なことをお伺いします」

「なんでしょう?」

「浮気はしませんか?」

 私が、しません、と断じると、沙代はにっこりと笑った。あとは転がるように事が進み、沙代と私は晴れて夫婦めおとになった。


 子供はとうとう授からなかったが、ふたりの暮らしは穏やかで幸せだった。それはなにもかも沙代のおかげにほかならない。文筆家の私の不規則な生活に理解を示し、すべての家事をそつなくこなしてくれた。なにより彼女はなんの面白みのない凡人の私を心から愛してくれた。決して裕福ではなかったものの、私はささやかな幸せというものが、これほど幸せなのかと思い知ったのである。

 ところが、それは長く続かなかった。


 私が彼女に一目惚れしてから、およそ三年が経った頃の話だ。

ひまわりのようにぱっと明るく、健康そのものに思われた沙代が、洗濯物を干している最中にいきなり倒れた。私は居間で執筆中だったのだが物音でそれに気づいた。彼女に駆け寄りどうしたのかと尋ねてみるも返事はない。沙代は意識をなくしていたのだった。

 私は彼女を抱えて医師のところまで走った。だが、結局沙代は意識を取り戻さないまま、その日のうちに息を引き取った。原因は心臓の血管が破れて鼓動が止まったからだった。

 私は通夜でも葬儀でも涙がひとつも出なかった。唐突だったために沙代が死んだという実感を持てなかったからだ。まだ彼女が近くにいる気がして、葬儀の翌日もその翌日も、家の中をさがしまわったくらいだ。しかし、いくらさがしまわっても彼女はいっこうに見つからなかった。ようやく彼女が死んだと認識したときに涙が止まらなくなった。

 

 そういった経緯で逝ってしまった沙代が、絵の中から出てきて私の目の前にしている。これはいったいどういう奇怪な現象か。私の足りない頭ではいくら考えてもわかりそうになく、理解するには本人にただすのがてっとり早いと思われた。


 私は気持ちを落ち着かせるよう咳払いをしてから沙代に尋ねた。

「君はどうしてことにいる? 生き返ったのかい?」

「いえ、まさか、死んだままですよ。死者はどうやっても生き返ることができませんから」

 だろうね、と私は頷く。

「では、どうして死者なの君はにここにいるんだい? 死者はあの世にいるものだろう?」

「あなたはきっとご存知ないでしょうけれど、あの世の者がこの世を訪れるというのは、実のところ頻繁にあることなのです。あちら側とこちら側は思いのほか近いものですからね」

 ゆえに沙代がここにいる状況も、特筆されることではないそうだ。

「なるほど、そういうものなのか。まるで知らなかったよ……」

「知らなくて当然です。あの世の事情に通じるのは誰だって死んだあとです」

 そうか。そうです。と、ふたりで頷き合ったとき、なぜか急に欲が出てきた。久しぶりに会った沙代を、もっと身近に感じたくなったのだった。


 彼女が寛容なのをいいことに、私はその欲を口にした。

「君を抱き締めても?」

「どうぞ」

 沙代は両手を広げて、私はその沙代を抱き締めた。

 あの世の者に実体があるのかどうか疑問だったが、小柄な体躯は生前とすんぶんたがわないように思えた。ほのかな暖かさも感じ取れた。


 沙代を私の胸の中におさめて、両腕にぐぐっと力をこめる。さっきまでまるで平気だったというのに、いろんな想いがどくどくと胸にこみあげてきた。彼女はそれを察したのかもしれない。私の背中に両腕をまわすと、子供をあやすように優しくさすった。よしよし――。

 そうして沙代は私のどくどくが落ち着くまで、よしよし、と背中をずっとさすり続けてくれた。



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