第二章・君の名は 君の名は。 / 14 (ポーカープレイシーン有)

 そう言ってテツが開いた手札は、───♣T♣Jだった。


 少女が予測した、最悪の手札だ。共通札と合わせると、♣が出ればフラッシュになるフラッシュドロー、キングか9が出ればストレートになるダブルガットショットストレートドローが、同時に成立している。ターンとリバーのどちらかで、ストレートかフラッシュに発展する可能性は、実に七割近くになる。


 だが、今はまだ何の役もない。


 少女が自分の手札、♠A♡Aを開いた。これがフルハウスになる可能性もまだ残っている。


 正確な勝率は、少女58%に対してテツ42%。


 「A二枚を持ってたか。ちょいキツいかな?」テツは、最強手札を見ても平然としていた。予想通りといった様子に、有利なはずの少女の顔がこわばった。


 「A二枚か、Aとクイーンなのは間違いなかったのだがな」ジョーも応じた。


 「まぁ、ここから先は運任せだ。面白ぇバクチになったな、嬢ちゃん」


 「なんで───」Aを間違いなく持っているとわかったのか、という少女の問いは、ディーラー光恵の動きに遮られた。


 「ターンカード、オープン」


 光恵が四枚目の共通札ターンを開く。♢6。誰の手も進展しない、いわゆるラグと呼ばれるカードだ。少女の優勢が続く。ほぼ勝ちを手にしていると言っていい。だが少女の胸の内はざわめいていた。


 リバーで逆転されるなど、よくあることだ。いちいち気にしないのがポーカープレイヤーだ。なのに、内臓に、鉛のような重さを感じる。無表情は崩していないが、汗が体中からじっとりと滲み出し、効き過ぎる空調と相まって、寒い。……寒い。これが、リアルのバクチか───。


 年寄りどもは、そんな少女を見てにやにやしている。


 「そこで態度に出るんじゃあ、まだまだだな」


 「俺らも昔はそうだったさ、それでしこたま負けたもんだ」


 どちらが有利かさっぱりわからぬ様子を見ながら、光恵が五枚目の共通札リバーを表に返す。


 「───ラストカード、オープン」


 表れたのは。


 黒い、三つ葉模様がたくさん。♣9だ。


 フラッシュが成立したテツの勝利である。少女は肩を落とした。


 テツは、うっしっしと相好を崩して、チップを自分の手元に引き寄せた。


 少女にはもう、一枚のチップも残っていない。しばらくは無表情を崩さなかったが、やがて唇をきゅっと閉じ、歯を食いしばって、目には涙さえうっすら浮かんでいた。


 「いいな、やっぱこうでなくちゃいけねぇや。相手を読み切って、勝ち筋を見切って、タマぁぶんどる。この感覚がたまらんのだよ。こいつは賽の目じゃあ味わえねぇ。いや、久々にいい勝負をした。バクチはやっぱ面白ぇや」


 「タマを取るはよけいでしょ、女の子の前で! まったく、大人げない……」光恵はあきれて天を仰いだものの。


 「悔しいか」、と卓に肘をつき少女に向かって身を乗り出すテツと、その言葉を受けて、ぎゅっとテツをにらみつけながらもしっかりと頷いた少女の目はともに真剣で、それ以上に混ぜっ返すのははばかられた。


 「嬢ちゃんはさっき、『なんでAを持っているとわかったか』、それを訊こうとしていたろう。種明かしだ。───嬢ちゃんな、いい手札であればあるほど、少しだけ呼吸が速く、荒くなる」


 少女ははっと鼻と口を押さえた。


 〝スイッチ〟を切りさえすれば、親も教師も、反応はいつだって、「あんたは、何を考えてるかちっともわからない」だった。それは、ポーカーに関しては強みだと確信していた。しかしそれでも、自分の手がバレるような癖───いわゆる〝テル〟があるというなら、それはよほど目立つ挙動なのか、それとも爺ぃのカンがよほど鋭いのか……。


 「いやいや、本当にほんの少ぅしの違いだ。並の人間にゃわからんよ」ジョーが庇うように言った。「俺だって、テツが気づかなきゃわからなかった。いいかー嬢ちゃん、日本の武道には呼吸を読んで相手の動きを見切る技術があるんだが、この男は天性のカンと独学でそれを極めた。若かりし日には、ピストルの弾をブッタ切る離れ業すらやってのけたんだ」


 「よせやい」とテツが照れ笑いとも苦虫ともつかぬ顔をする一方で、光恵が〝ピストルって言うな!〟と目を見開いたが、テツもジョーもそこのところは平気の平左だ。


 「その呼吸読みができてなきゃ、間違いなく俺らはまとめてコテンパンだった。嬢ちゃんの勝負度胸は一級品だ、そいつは保証する。趣味でやる程度のそこいらの連中なら敵なしだろうよ」


 「そこいらの連中、ならな。だが、海外に打って出ようてんなら、弱みがあっちゃいかんだろう。それは直さにゃなるまいよ」


 テツはそこで、ぴかりと電球が頭の上に点灯したような、何かを思いついた表情を見せた。


 「───どうだい嬢ちゃん。こうしないか。そっちは夏休みだろう。休みの間、俺のウチに来い。嬢ちゃんのその弱点、直してみせよう。この俺が長年鍛えた、呼吸法の極意だ、きっとポーカーでも役に立つ。その代わり、嬢ちゃんは俺にポーカーを教えてくれ。近々に、こいつと」テツはジョーを指差した。「大バクチを打たにゃならんのだ。そこで勝てるくらいに、鍛えてもらいてぇわけよ。これで対等にならぁな」


 「おぅ、それがいい」ジョーも頷いた。「俺ぁ、息子の技術の結晶たるカジノシトラスで鍛える。人の差配がうまい藤倉は、人使って鍛えりゃいい。それでこそ勝負になるってもんだ。ガンガンしごいてやってくれ」


 また子供相手に無茶なことを───とたしなめかけて、光恵は口をつぐんだ。三人の目は相変わらず真剣そのものだ。彼女の心中には、あ、こりゃダメだ、と諦念が浮かんだ。否定的な意味でなく、自分は入り込めない世界だと理解したのだ。


 七〇過ぎの老爺どもが一一の子供と対等たらんとするその光景は、いつの時代にもある素朴な取引を想起させた。立場など関係なく、子供同士が「あーそーぼ!」と声を掛け合ってから始まる、メンコやらプロ野球カードやらビックリマンシールやらアイドルのブロマイドやらポケモンやらを、好きな者同士で交換するような、そんな表情がそこにあった。誰にとっても、賭事や駆引きの原風景はそこにある。


 テツは、膝に手を当て頭を下げた。


 「どうだ。嬢ちゃんをいっぱしのバクチ打ちと見込んでの、この老いぼれの頼み、聞いちゃあくんねえか」


 対等とはまるで思っていなかった少女は、ビックリした。学校では毎日、教師即ち大人には必ず頭を下げるよう強要されている。それは、好むと好まざるとに関わらず、当たり前の礼儀と決まっている。よもや大人が自分に頭を下げることがあろうとは!


 「おいおい、そこまでするかい」ジョーが脇から声をかけた。


 「そこまでっておめぇ、人に何か教わろうってんなら頭下げるのが道理だろう。歳は関係ねぇや」


 「その通りにゃ違いないが、それならテツ、賭けの精算をした方がよかないか」ジョーが言った。「人にものを頼むときに、相手の名も知らぬ、じゃ始まらんだろ」


 「おう、そうだ。そこはきちんとカタをつけとかにゃ」


 テツはポンと手を叩き、卓に無造作に置いたままだった札束を引っ込めてから、少女に肘をにじり寄せた。


 「さて、嬢ちゃん。約束だ。名前を教えてもらおうか」


 すると少女は、急にうつむき、口を引き結んで黙り込んだ。


 「逃げるのは許さんぞ。言いたくないのはわかってるが、バクチ打ちってなぁ、勝ち負けにだけはスジを通さにゃ」


 「バクチ打ちってそういうもの?」


 「そういうもの。早いうちに勉強できてよかったな。───ここだけの話だ、別に親や学校に知らせたりしねぇから、さっさと言っちまいな」


 「……」


 少女は黙り込んだままだ。納得はしたが、言いたくはない、という様子だった。

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