(25)〝死者〟との再会

 郷中浩文――目の前の男性がその名を口にした瞬間、インクの擦れた特徴的な筆跡で、その文字が頭のなかに書き込まれていく。

(やっぱり、この人が……)

 音喜多さんの読み通り、〝遺影の人物〟の正体は、まさしくこの男性であった。

 ついさっきまで自分の中で〝故人〟とされていた人が、生気溢れる姿で、こうして目の前に立っている。そのことに、どうしても戸惑いは隠せなかった。しかし、そのような事情を知る由もない当の浩文さんは、写真よりもやや薄くなった白髪頭に手をやって、ばつが悪そうにぺこぺこと頭を下げはじめる。

「いやぁ、ホント。遅くなって申し訳ない! まさか事故渋滞とは思わなくてね」

「は、はぁ……」

 なんとも奇妙な感じだった。

 目の前で死者が生き返ったりしたら、こういう感覚になったりするのかな――なんて、不謹慎な感想がおのずと心に湧いてくる。もちろん、そんなことを本人には口が裂けても言えないけれど、このとき僕は生まれて初めて幽霊に出くわしたかのように、好奇の眼差しで、じっとその顔を凝視してしまった。

「――おや? わたしの顔に、なにか?」

「え!? あ、すみません。つい……」

「つい……? 失礼ですが、以前に、どちらかで?」

「い、いえ……」

 動揺を気取られまいとして、とんでもない――と咄嗟に手を振る。

 事実をありのままに伝えるわけにもいかないが、かといって押し黙るのも不自然かと思った僕は、心のなかで(貴方様のことはよぉく存じ上げておりますが、僕らは誓って初対面です)と釈明しつつ適当な言い訳でその場を凌ぐ。

「なんというか……知り合いに、ちょっと似ていらしたもので……」

「はぁ。さいですか」

「す、すみません。本当にそっくりだったので……あははは」

 下手なごまかしに、だんだん作り笑顔にも無理が出てきた。この話題は、もうさっさと切り上げてしまおう。

「ご……ご案内、させていただきます。どうぞ、こちらへ」

 そうして半ば強引に会話を打ち切ると、ロビーの奥へと手を差し向けて、逃げるように歩き出す。

 式場内では喪主の浩美さんを先頭にして、親族が順にお線香をあげていた。

 そこから一歩引いたところに、音喜多さんが畏まって立っている。

「やぁ、おまたせおまたせ……って、ありゃ! なんじゃこりゃ!」

 入口に立つなり、祭壇を見据えた浩文さんが背後から素っ頓狂な声を上げた。

 その声に反応して、一同の視線がこちらに集まる。

 先導していた僕も、ぎょっとして後ろを振り返る。

 浩文さんは自分が衆目を集めていることを気にも留めずに二歩、三歩と僕の前に進み出ると、祭壇の頂上に掲げられた遺影写真を仰ぎ見て、口をぱくぱくと動かしていた。どうやら遺影の仕上がりについて一言物申さずにはいられない様子だ。

 それからたっぷりと間を空けたのち、

「こりゃあまた、なんとも……随分なことで!」

 溜めに溜めて、やっとのことで絞り出された感想がそれだった。

 彼が口にした言葉のとおり、遺影写真の仕上がりはお世辞にも綺麗とは言い難く、悪い意味で〝随分な〟代物だった。

 カメラのレンズ越しに桜を見上げる薫さん。その構図自体はけして悪くはないのだけれど、手違いで作られてしまった〝浩文さんの遺影〟を百点満点の出来とするならば、こうして実際に飾られたものは贔屓目に見てもせいぜい二十点がいいところかもしれない。

 それもそのはず。

 なにせ、ただでさえ米粒ほどの小さいお顔を無理やり四つ切サイズまで拡大したものだから、全体のシルエットはもやがかかったようにボケてしまっているし、せっかくの良い表情もこちらが精一杯に汲み取らなければ辛うじて笑顔であることがわかる程度だ。

 いくら写真屋さんの技術を以てしても、ここまでが限界だったのだろう。事情を知らない人からすれば、何か言いたくなる気持ちもわからなくはない。かくいう僕だって、最初にあれを目にしたときは似たような反応を示したものだ。おそらくは、この場にいる誰もが一度は心にそう思ったはず。しかし同時に、誰もが思うだけで心にそっと留めたに違いない。

 それをこの人ときたら、わざわざ口に出さなくてもいいだろうに――と、喪主を除いた一同の呆れたような視線が浩文さんに向けられている。

 けして本人に悪気があったわけではなさそうだけど、あけすけに口にされたその感想に、式場内の空気がわずかにピリッと張り詰めた。

「浩美ちゃん。なんだいあれ」

「兄さん――」

 礼拝を終えて、面を上げた浩美さんが手を合わせたまま振り返る。

 こうして顔を突き合わせているのを見ると「なるほど兄妹だな」と思わせるほどに二人の顔はよく似ていた。

「なんですか、来ていきなり」

「なんですかって……ちゃんと見たのかい。あの遺影」

「ええ。ええ。とっくに見ましたとも。私が選んだ写真ですからね」

 浩美さんは気にも留めない様子で「それがなにか?」と涼しげに笑う。

 刷毛はけで払うようにあしらわれながらも、浩文さんは「だったら……」と、なおも食い下がる。

「なぁ、もうちょっと良い写真あっただろう?」

「あのねぇ……なにをいまさら」

「だってよ、いくらなんでもあれじゃ……」

「いいのよ。〝あれ〟で」

「いやぁ……でも……」

 そんな調子で、しばらく二人の押し問答がつづいた。

 僕はそのやり取りを遠巻きに眺めながら、やんわり止めに入ろうかと音喜多さんに視線を送るも、憐みの込もった視線で「やめておけ」とだけ返された。

 おっかなびっくり二の足を踏んでる僕の姿が、大縄跳びになかなか入れない子どものように寄る辺なく見えたのかもしれない。

「――本当にあれで良かったのかい」

「いいの」

「後々にまで残るものなんだよ? なにも写真がこれしか無かったってわけでもないんだろう? 薫くんの免許証だとか、証明写真だとか、探せば〝それっぽいの〟は、いくらでもあるじゃあないか」

「あるにはあるのよ。でもねぇ……この人、見た目が、ほら……ね?」

 わかるでしょ、と周囲に目配せをする浩美さん。

「免許証なんかのガチガチに強張こわばった仏頂面を遺影にしてもねぇ。あれを鴨居に飾った日には、なんだか〝その筋のひと〟に見えちゃうじゃない?」

 浩美さんは笑いながら「ねぇ?」と、何故か僕に同意を求めてきた。

(いや、こっちに振られても……)

 困った僕はなんとも曖昧な笑みを浮かべて、その意味するところは受け手の判断に委ねることにした。

「おいおい。自分の旦那をヤクザもん扱いするんじゃないよ」

 冗談がお気に召したのか、浩文さんの「はっはっは――」と遠慮のない笑い声が式場内に上滑りして響いた。

 そこで彼も、ようやく周りの視線が気にかかったようで、

「――いや、失礼失礼。まぁ、薫くんは典型的な〝見た目で損するタイプ〟だったからなぁ。言われてみれば、うん。これでなかなか良い写真なんじゃないか? 写りは悪いけど、薫くんの人柄が良く出てる気がするよ」

 ころころと調子よく手のひらを反されて「でしょう?」と嘆息する浩美さん。

「わかったら兄さんはいちいち口出ししないで頂戴。まったく……来て早々、やめてくださいな。恥ずかしい」

「恥ずかしいってなんだい、恥ずかしいって」

 兄妹揃って、ずけずけと遠慮のない物言いをするものだから、傍目に見ていてなんとも気まずい思いだった。しかし、他の面々がさして意に介さずに粛々と線香を上げているところを見るに、どうやらこれが二人の平常運転らしい。

「それにね――」

 やがて浩美さんが声を落として、誰にともなく呟いた。

「こうして遺影を見ていたら、『この写真にして良かった』って、あらためて思ったの。やっぱり私は、ああやって無邪気にカメラを構えているときのおとうさんが一番好きだったから……。ひどくピンボケしちゃってるけど、それでも私にはしっかりと、おとうさんの喜んでる顔が見えてますもの……だから、これでいいの」

 ねぇ、おとうさん――そうして、棺に寄り添う浩美さんは、それから長いこと愛おしそうに目を細めていた。


(つづく)

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