ひとむかし

林凪

第1話

 素人と話すのは訳が分からないから嫌だとぬかす同僚を心の中で笑っていた。世間でいうところの士業、「弁護士」「公認会計士」「行政書士」「弁理士」なんてものが成り立つには無知な一般人の存在が不可欠だ。何をどう説明すればいいか分からない、何が分からないかもわからずに途方にくれる依頼主に対して俺は殆ど愛情を抱いている。俺の存在意義を支えてくれているから。いっそ俺がこの世に居る意義そのものだから。

 気持ちというのは伝わるもので、俺は税理士事務所スタッフの中ではかなり人気がある。大口の顧問先に気に入られ信用されて業務外の相談を受けることも珍しくない。会社では自信満々に振舞っている経営者も私生活じゃただのエロジジイだったり親馬鹿だったり女房に頭が上がらなかったり。俺は素人たちの弱さをかなり愛していて、親身になって理解しようと努めてきた。

 が。

『ボクの彼女のお父さんが亡くなって県知事が裁判所に訴えた書類が来たんだ』

 さすがにそれは、訳が分からない。

『そのことを相談したホストの彼氏が法律事務所をしているとかで、ボクの彼女が今夜、そさこに相談に行くんだけどね』

 ちょっと待て。まだ情報を整理し切れてない。

『不渡りが出て銀行さんやウチの役員たちと緊急会議なんだ。ボクの代わりに彼女に同行してやってくれないか』

 おい。

 その不渡りは何処の取引先で額面はいくらだ。支払手形の割引なのか小切手なのか、詳しい話を聞く前に待ち合わせの場所と時間だけ伝えられて電話は切れた。折り返したが繋がらない。経営会議に入ったからだろう。マジか、と思いつつ上司には打ち合わせ後に直帰と告げて指定された繁華街の喫茶店へ。

 社長の『彼女』とは面識がある。美人で明るくて話し上手で、下ネタも嫌がらないサバサバ系なのに妙な品がある。だからって訳じゃないがまあ、役に立てることがあるならと思った。

「勤務時間外にごめんなさい。帰るの遅くなっちゃって大丈夫?」

 十分前に着いて待つほどもなく彼女は来て、向かいの席に着くなりコンビニの袋の中から猫用のオヤツを取り出す。膝丈のピンクのワンピースに白いシャツを引っ掛けた服装に水商売の崩れはない。けどなんとなくどことなく、胸元から喉にかけて艶っぽさが漂う。年齢は分からない。二十歳でも四十歳でも驚かない。

「クロハチちゃんに。急な残業させてごめんなさいってお詫びしておいて」

 社長に連れられて飲みに行ったときに話した飼い猫の名前まで覚えてる接客根性には恐れ入った。顧客ファイリングの一環だとしても悪い気はしない。法律事務所を訪ねるまでに騒ぎの原因になった封書を見せてもらう。差出人は近県の土木事務所。内容は賃借料を裁判所に委託します、ってかんじで、委託人はホントに県知事だった。

「ナンなのか分かる?あたし訴えられるの?」

 不安そうに俺を覗き込んでくる黒目がちの目元がウチの別嬪の猫によく似てる。

「預託金、っていって、支払う先が分からないから裁判所にお金預けてますよっていうお知らせだ。訴えれるとかそういうんじゃない」

 言ってやると安心した表情になって、いっそう可愛らしい。

「けど税務署じゃなくて裁判所の窓口でする手続きなのは間違いなさそうだ。事務所って近いのかい?約束の時間は?」

 彼女が持っていたホストらしき男名前の名刺の表には顔写真と店の名前と電話番号。裏に走り書きでカフェの近くのビルの住所と部屋番号。社長が言っていた謎にはあえて触れずに早めに下見に向かう。


 ビルは古いが整骨院だの調理師派遣協会だのが入居してる、界隈にしてはマトモな雑居ビルだった。指定された号室には駅前の司法書士事務所の出張所がちゃんと表示されていて。

「行政書士事務所も兼ねてるのは仕事早く片付きそうでいいな」

 想像してたよりマトモそうな様子にやれやれ、と胸をなでおろしたのは一瞬。

「……、ろよ、……、ぜ」

 該当階でエレベーターを降りたとたん、廊下の向こうから西部劇みたいに転がってきた若い男。追いかけてきたのは蹴り転がしたらしきスーツ姿の男の低い恫喝の声。若い男は茶色の頭をガクガクさせて何度も頷きながら俺たちの方によろめき這い寄る。俺は思わず飛び出してしまう。暴力沙汰には慣れていない。それでも彼女の腕をつかんで一緒に連れ出したのはエスコート役としてかろうじての矜持だ。

 頭だけじゃなく膝もガクガクさせて、這うようにそいつが退場した後で。

「病院いかなくて大丈夫?」

 俺の隣から思いがけない声がした。

「夜中でも診てくれるトコロ知ってる。あたし一緒に行ってあげる」

 なに言ってんだと尋ねかけて、俺はようやく気がついた。暴行していた側らしきスーツの男の、シャツとスラックスの様子がなにやらただ事ではない。

「いいや……」

 俺たちの視線に困ったように、ふっと背けた、その横顔の目元の翳りも只者じゃない。短めの黒髪がやたらと艶々で、形のいい鼻筋といい引き締まった顎の形といい、なるほどホストの『彼氏』だけのことはある美形。

 女の子がホストしてるのも、男のホストに彼氏が居るのもいまどき珍しくもないが今回は後者らしいといまさら理解する。

「……驚かせて、悪かった。約束のお客サンらだよな?」

「そうだけどホントに大丈夫?いいのよ相談は今度で」

「気ぃ使わせて申し訳ない。ちょっとした行き違いで……」

 優しい女にしどろもどろな言い訳をする様子は礼儀正しくもある。背が高くって二枚目で、蹴り転がした相手に凄んでた声は怖かったが、依頼人の俺たちにはきちんとした態度だ。

「警察、呼ぶ?また来るかもしれないし通報しといたほうがいいんじゃない?」

 親身になる『女同士』の様子に俺は口を噤んだ。どうにもこの場で俺の存在はアウェーだ。

「その……、ナンてぇか……。心配しないでくれ。……オンナノコで言えば、痴漢されて、頭にきて、指折っちまった、みたいなカンジで」

 言いながらスーツの長身を折り曲げて床から白い粒を拾う。さりげなくスラックスの前を直す隙間でチラッと見えたのは前歯だった。折れるほど殴ったのなら殴ったほうの手も怪我してんじゃないかと、俺まで少し心配になった。

「困ってるって言うからアンタらとの約束まで、ちょっとだけ話し聞いてやろうとしたらコレで、頭にきて、やりすぎた」

 口先のごまかしをやめた二枚目が真正面から女に話しかける。

「警察いったら過剰防衛でこっちがヤバイ。身元は知れてる。レイのダチの同棲相手でな。まあそんなのもあって」

 気を許したのを後悔している、なんて雰囲気で言葉を途切れさせる。

「ならいいけど」

 喋らせるのが気の毒になったらしい彼女はそれ以上、病院も警察もすすめなかった。

「あの、あたしね、レイにはナンにも言わないから」

 代わりに別のことを言い出す。レイって何だよと考えかけて、さっき見たホストの名刺がそんな名前だったことを思い出す。

「オトコってなんにも分かってないから、痴漢されたぐらいのこと深刻に騒ぐから。サンダルでアスファルトのガム踏んだだけなのに交通事故で重傷みたいに扱われて、こっちも悪いんだとか言われて、二度も嫌な思いすいることないから」

 熱心に話す彼女の横で俺は沈黙を守った。

「そうしてくれると、有り難い」

 ほっとしたみたいに、二枚目がちらっと笑った。ほんとに少しだけ。

「相談どうする?怖がらせちまったならキャンセルでも構わないが」

「お願いするに決まってるし。ここで帰ったら驚き損じゃない」

「違いない。供託の通知が来たって?県の土木事務所だと県知事の名前で来るから驚いただろ」

「もー、すっごいびっくりしたの」

 旧知のように仲睦まじく腕をとらんばかりにして事務所に入っていく二人の後についてきながら、俺は自分の顔が赤くなってないか心配だった。


 供託通知はだいたい俺が行ったとおりの物だったが。

「これ、この前になんか来てたんじゃないか?」

 さすがに専門家はもっと詳しく考察する。

「土砂崩れが起こった山の防災工事するのに隣の山に道を通したい、公共工事のための協力を親父さんには承知してもらってた、みたいな文書に心当たりないか」

「書留を取りに行かなかったことなら何度かあるの。……お父さんをお見舞いに来いって手紙がしつこくて嫌になった時期があって」

「なるほど。親父さん亡くなったんだろうな。それで相続人の娘に賃貸料を受け取ってもらいたいが連絡が取れなかったから振込先が確認できず裁判所に預けてます、みたいな話だ。月に780円。山林だとこんなもんか」

「私の親権はお母さんで養育費ももらってないし、お父さんには小学校からずっと会ってないのに」

「親権と相続権は関係ないんだよ。しかしこの山も親父さんだけの所有じゃなさそうだ。持分からすると23人、あんたの他に権利者が居る。三代か四代前から相続手続きしてねぇな。……まっすぐ聞くが親父さん金持ったと思うか?」

「ぜんぜん。お父さんの実家は田舎だから土地があったかもしれないけど」

 繁華街で法律事務所を構えてるだけあって二枚目は家庭の事情が複雑なのに慣れきった様子だった。落ち着いた対応に社長の『彼女』は安心しきって、たぶん社長も知らない自分の身の上をはきはき話していく。

「書留受け取ってないのは不幸中の幸いだったかもな」

 口調は雑だけど親身だった。

「相続放棄の期限は三ヶ月だが、死んでから三ヶ月じゃなくて死んだことを知ってから三ヶ月だ。見舞いにも葬式にも行ってないなら死んだのを知らなかったって言い張るのも不自然じゃない。放棄しちまうのが一番、あとくされない。23人が全員放棄しちまったら相続財産管理人の選定とか色々あるが、可能性は低い」

「欲しい人も居るってこと?」

「土地っていうと金って思う昭和世代はまだ多いんだ。売って金になる地面なら100年も相続がほったらかしにされてることはないって、俺は思うが。もちろん、親父さんの財産状況を調査してから相続放棄するかしないか決めるのもできる。あんた兄弟は?」

「お母さんには私だけ。お母さんも手続きしないとだめ?」

「いや、そっちにゃ相続権はないから大丈夫だ。あんたから委任状もらえれば全部こっちで代行できる。全部自分でやれないこともないぜ。自分でするなら印紙代とか郵便代とかで5,000円もあれば足りる。ああでも、戸籍謄本とか住民票とか親父さんの分だけですまないだろうから、ちょっと大変かな。ひい爺さんの100年前だとちょうど関東大震災のころで、そのへん辿れないことも多い」

「そんなことあるの?」

「戸籍は二代でなくなって150年たったら破棄される。ちょっと前は80年で破棄されてたから、役所の記録は大正あたりの死人で打ち止め、寺の過去帳が戦災で燃えてりゃ手がかりもない」

「なんだか心細いのね」

「100年生きる人間も多いのにな。けっこうすぐ無かった事になる。居なくなった人間は昔話なんだ」

「土地の名義は残るのに」

「固定資産税がニッポン支えた時代長かったからな」

 結局、何もかも全部丸投げ、件の土木事務所への連絡を含んで15万円の経費別の見積もりを作ってくれて社印を押してもらった。宛名は同行を依頼してきた社長の会社。これを明日にでも社長に送れば俺の役目は終わる。スマホでこっそり調べた相場より少し高かったが、相談の時間とか融通がききそうだったからまあいいかと思った。


 エレベーターまで見送られて事務所を辞去する。一階のボタンを押した途端、無意識にため息をついた。

「ごめんなさい。遅くなっちゃって。タクシー代、出すから」

 事務所のタクシーチケットをもらってきてるからそれは大丈夫だ。それに疲れた訳じゃない。ただ、ちょっと迫力にアテられた。彼女がタクシーに乗り込むのを見送ってから駅へ歩き出す。信号待ちの間に社長に、とりあえず終了のメールを打っていた、その時。

 男と、すれ違った。

 背が高い男だ。さっきまで向き合ってた二枚目よりさらに高い。顔は暗くてよく分からなかったが着ているシャツは夜目にも上等。それだけなら夜の繁華街には珍しくもない。けど俺はなんたかゾワッとした。静かな、足音どころか気配も感じさせないような歩き方が、静か過ぎて怖い感じだった。

 男は立ち止まったままの俺を気にせず歩いていく。タクシーを捜すふりできょろきょろしながら振り向くと、いましがた出てきたビルに男が入るところだった。

 偶然かもしれない。でも多分、あれがそう。

 きっと、そうだ。

 




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