第2話
カシャ、カシャ。
最近この音が音こえることが多い。
カシャ、カシャ。
スマホのカメラのシャッター音だ。心細くなるくらい軽くて薄っぺらい。むかしのカメラの音はこんなじゃなかった。もっと重くて厚みがあって、感光フィルムも焼きつけ用の印画紙も効果で、写真はごく限られた金持ちの趣味だった。
カシャ。
意識がゆるりと浮上する。シャッター音が不規則な原因に気がつく。三階にある事務所の窓の下を車が通り過ぎるたびにヘッドライトで室内がぼんやり明るくなる。そのタイミングで写真を撮られてる。
カシャ、カシャ。
聞いてるうちに不思議な気持ちになる。俺が居なくなってもあの薄い板の中にデジタル画像とやらは残り続けるだろう。戸籍も抹消された故人の名前が不動産登記に残るように。それは光学写真や肖像画でも同じことだが枚数が圧倒的に違う。
カシャ、カシャ。
費用も手間もかけずに何千枚の撮影が出来るからって変わり映えしない画を、そんなにたくさん撮ってどうするんだ?
「起きたならこっち向け」
そっと薄目をあけたのに気づかれ声をかけられる。
「そうじゃない。この穴のところだ」
撮影者の顔じゃなくスマホのレンズを見ろとなんど言われても慣れない。素直にそっちに視線を向けたからか、男は別に怒ってる様子でもなく、少しずつ遠ざかって全身を撮っていく。
ソファの座面から片方落ちた膝を引き上げる気力も体力もなかった。吸血行為は性行為でもある。その時、餌の人間が暴れないために血と交換で注がれるる体液は体質によって麻痺を通り越した媚薬の効果がある。亜酸化窒素、手術麻酔に使われる笑気ガスによく似た陶酔の余韻がまだ濃くて、甘ったるい眠りの沼にもう一度……。
「目ぇ閉じるな」
眩しいんだよと苦情を言うのも面倒くさい。
「起きて見ろ。雛女がちょうど、餌を殺しそうだ」
近づいた男が暖かくてやっと皮膚の下に血が通いだす。なんとか目を開ければ、まだぼんやりした視界に差し出されたのはスマホの小さな平面。音は聞こえてこない。画面の中でのたうつ若い男の表情はよく見えない。現実感がなかった。テレビなら少しはマシだったろうが。
見たくないというほどでもなく興味がない。復讐したいと思うほど真似はされていない。そんな俺の様子に男はつまらなそうにスマホを引っ込める。
「格好つけんな。ホントに余裕綽々なら手ぇ使ってないだろ」
距離つめられたのが早かったから最初の一発だけだとか、言い訳するのも面倒だった。覆い被さる姿勢で男はまだスマホを見ていた。
「耳とか、目玉とか、いるなら貰ってやるぞ」
「……なんで、そんなのを」
恩に着せて言うんだ。
「持って来させるなよ。おまえら時々、感覚エグイからな」
「目が覚めたならもう一度ねろ」
「ナニ言って……」
るんだと続けるまでもなく肩を押されて意図に気がつく。逆らわなかった。血を吸われた陶酔の延長で抱かれるのは嫌いじゃない。嫌いどころか、快感の期待でブルッっと胴震いした。
大人しくしてるのが気に入ったらしい男がテーブルにスマホを置く。画面が真っ赤で、ちょっと気になった。
「動画保存しとくなよ。ナンかあった時にヤバイ」
「動画は撮ってねえ」
「そっちじゃない。雛女のとこの」
首の肉を食いちぎられてヒクヒク痙攣してる、若い男の断末魔。
「動画撮っていいか?ハメてるとこ今から」
「俺が生きてるうちなら」
同意の上でのセックスを撮影すること自体は拡散したり売買したりしないなら、別に違法じゃない。たださっきのカメラといい、ナンか、なんだか……。
「死んだら消せよ。合意の証明できなくなるから。それよりはやく次、さがせ」
名残を惜しんでいる余裕はもう、それほどない。
「俺が契約切れになる前に次の気に入り、みつけ……」
「生贄すすめンのか。そっちもずいぶんエグイんじゃねぇか」
責める口調で言われてちょっと笑った。
世間は綺麗ごとじゃ片付かない。手当たり次第に被害者を増やされて騒ぎになって、社会不安を引き起こされるより一人を差し出しす方が効率的だ。俺にとっては慣れた司法取引。最初は確かにそうだった。
長いこと一緒に居れば情も移ってくる。この男が腹を減らして不用意に人間を襲って、見つかって追いかけられるなんてのは想像したくなかった。俺が居なくなった後の出来事でも。
「今日相談に、来た女の子」
「だまってろ」
「度胸がよくて、おまえ好みだろ。顔も身体も綺麗だったし、身内も少なくてじょうけ、ン……」
熱に貫かれる。続きを喋れなくなる。人間同士みたいに抱き合って、錯覚しそうに、なるのが怖い。
「ふ……」
目の前の肩に縋りつく。腰骨つかまれた指先が熱い。熱がうつる。
「……、あ、ツ……」
うわ言みたいな息を漏らす。気持ちが、いい。
自分から捩れて揺れて快楽を追いかける。俺はいいんだ未練がましくても。俺には続きがないから何も気にしなくて済む。
「百年どころか、十年もったこともなかった」
歯軋りみたいなうめき声が耳朶をくすぐる。このいま男の未練を心配するより甘く心地よく聞いた。
「最初のあれは、永遠ぐらいの意味だ」
それはたぶん、嘘じゃない。俺を餌にした魅鬼はこいつが一人目じゃないが、これとは最初から、ずいぶん相性が良かった。
「なんで、経つ。そんな時間がホントに来るなんざ、思わないだろう」
百年どころじゃなく生きてるくせに不覚悟なことだ。十年も百年も過ぎてしまえば同じく終わったことになる。百年前のむかしを俺は昨日のことみたいに覚えてる。それと同じだ。きっと、たぶん。
「……、んだ」
まだ飽きてないのはお互い様でどうしようもない。いや、残りの期間は短いが、その中で嫌になっちまう可能性もない訳じゃない。そっちが楽なら俺はそうなってもいい。雛女と暮らしていた餌の男も、あの出血じゃもう息を止めただろう。こいつらは猫科に似て急所を狙ってくれるから、痛みはそれほど続かない。人間は一度しか死なない。恐怖も苦痛も一回きりだ。シベリア出兵で死んだ同期たちと同じように。
きっと、たぶん、俺は愛情を抱いてる。喧嘩もしたし気に入らないこともあったがそれでも一緒に居た。痛いことも無いわけじゃないが吸血と引き換えの快楽は痛み以上に素晴らしかった。でも愛情は快楽だけが理由でもない。
幸福を願ってる。俺が居なくなった後も。『人間』を裏切ることもたまたま近くに来た女の子を犠牲にすることも、軽くなんでもなく感じられるくらいには。
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