目覚めればそこは夢の世界
岸キジョウ
EP1
第1話
「この人痴漢です!」
どうも、初めまして。俺の名前は秋月恭也。読書とゲームをこよなく愛するナイスガイだ。ああ、ちなみにカレーにも一家言があり…ぐえっ!?
「こいつ、大人しくしろ!」
「誰か、駅員を呼んで!」
おい、自己紹介の最中に割り込むとは何事だ!
思わず、俺の背中に覆い被さるようにしてのしかかってきた無礼なサラリーマン風の男を睨みつけようとするも、しかし悲しいかな、頭脳派であるが故の繊細な我が力ではびくともせず、なのに首だけ勢いよくあげようとしたものだから、ビキリッ、と電気でも流したかのような痛みが肩にかけて走り、結局再び地に伏しただけであった。我がことながらなんとも様にならない。
…まあ、そもそも俺のそんな微細な変化に気づいた者など誰もいないだろうが。
と、それはさておき。年少の頃から好き嫌いをせず、電車でご老体が目の前に立てば席を譲り(もっとも気まずそうに次の駅で降りたが)、小中高と今まで遅刻や欠席は一日たりともないという品行方正を絵に描いたような俺が、何故駅のホームで男に取り押さえられているなんて状況になっているのかといえば、発端は電車を降りる約十分ほど前のこと。
やれやれ、電車というのは何故こんなにも人が多いんだ…。
そもそもここまでたくさん乗ることが分かっているのに、何故本数を増やさないんだ。
…そうだ!ここは環状線なんだから、十二両編成だとかケチなことを言っていないで、いっそ数千両すべてを繋いでぐるぐる回してみたらいいんじゃないか?
ガタンガタンと揺れる電車の中、今日も今日とてつり革にすら掴まれないほどの超高密度空間に締め上げられながら、この拷問にも等しい時間を少しでも有意義なものにするべく、そして先ほどから爪先に食い込んできているハイヒールのかかとの痛みから意識を逸らすべく、俺は修行僧の如く心の内で深く思考していた。何かと世知辛い現代社会に生きる者なら、今の一節だけでも現在が平日朝の通勤ラッシュと呼ばれる時間帯であることは、すぐに分かってもらえるかと思う。
それなら混雑せず、電車に乗り遅れることもないと、いいことずくめじゃないか!
ともあれそんなわけで素晴らしい名案を思いつき、さっそくどうすれば実現に移せるか考えていたときのことだった。
よし、電車を降りたら、さっそく構内に意見箱のようなものがないか…ひぎぃ!?ぐふぁっ!?ちょ、息が……うん?
ちょうどガタンと電車が揺れ、ハイヒールの圧力が五割増しになった挙げ句に、上半身は両サイドの無駄にがたいのいいサラリーマンのおっさん達に突き上げられるという、一体俺は前世でどれほど悪いことをしてしまったのかと、思わず涙目になりつつ昔の俺に恨み言を申し上げようとしたところで、ふと視線の先にスーツ姿の女性が見えた。
向こうは座席前の吊革に掴まっているためここからでは背中しか見えないが、身なりからしてOLになりたてといったところだろうか。
もちろんスーツ姿の女性なんて、ラーメンに入った葱やもやしの如く見慣れたものだ。
だがそれでもなお目を引いたのは、女性の臀部に手がくっついていたからだ。
なお誤解のないように言っておくと、俺は紳士であり、決して意識的に女性の臀部に目を向けるような無頼漢ではない。
しかし一方で健全な男子高校生であることも否定のできない事実であり、花に蝶が誘われるが如く、視界に女性の臀部が入ってくれば、例えそれが片隅であろうと、一フレームにすぎないごく一瞬のことであろうと、即座に全意識がそこへと集中してしまうのはもはや生物学上仕方のない、言わば水が高いところから低いところへと流れるのと同じ自然の摂理であると言えよう。
…コホン。
とまあそういった理由から、OL風の女性の臀部に本人のものではない手が置かれているという非日常的な光景を目の当たりにしたわけなのだが、それだけに咄嗟には理解が追いつかず呆然となる。
けれど間もなく状況を理解して仰天した。
こ、これはまさか…、いわゆるあれか…!?
俗に言う、あるいは通称、はたまた世に聞こえる「痴漢」という奴なのではないか…!?
俗にも何も痴漢はニュースなどでも使われている正式名称であり、そもそも俺は同じような光景を少し前にも見たというまったく嬉しくない経験があるのだが、何となくそのおぞましい単語を心に思い浮かべるのさえ抵抗感を覚えて、枕詞を色々とつけてしまった。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃないぞ…!
衝撃的な光景を前に一瞬混乱するも、すぐに頭を振って(まあ鮨詰め状態故に実際は首も振れないのだが)目の前の現実へと目を向ける。
何故なら現在進行形で、その心の中で口にするのも憚られるようなことが行われているのだ。
そして目にした以上は見て見ぬ振りをするわけにもいかない。
一瞬、もしかしたら女性がとても勇敢な人で、あるいは男の方が急に良心が咎めて、事態は急速に解決へと向かう可能性にも期待したが、残念ながら手が動きを止める気配はなく、女性も明らかに怯えている様子。
なので小さく息をついたあと、俺は勇気を出して行動に移すことにした。
「げふん、げふん!ごほ!ごほん!げふ、げ…がはっ!?ごほっ、ごほっ!?」
必殺、咳をして間接的に「俺はその行為を見ているのだぞ?」と伝える作戦である。
……。待ってくれ、説明させて欲しい。
もしかしたら皆さんはこの状況、「そんなまどろっこしいことをしていないで、直接声をかければいいじゃないか」と思われるかもしれない。
まさにごもっともなご意見だ。
しかしである。
先ほども言ったが、まったくもって嬉しくもないことに、俺はこの卑劣な行為を目の当たりにしたのは今日が初めてではないのだ。
つまり何が言いたいのかと言えば、前回は俺も、同じように行為に及んでいる男に対して直接一言言ってやったのだが、
__ちょ、ちょ、ちょっと、ままま待ってくだしあ!
(念のために言っておくとこれは「待ってくれ」と言おうとしたんだが、
途中でやっぱり「待って下さい」の方がいいかも?と思い直し、
その状態で嚙んでしまった結果がこれである)
そ、そそ、それは犯罪だですぞ!
(「犯罪だぞ!」とクールに言いたかったのだが略)__
__ああ!?変な言いがかりをつけてんじゃねぇよ!
痴漢はお前だろうが!__
などと、一休さんもびっくりしてお里に帰りかねない難癖が返ってきて、危うく俺の方が犯罪者になりかねないところだったのである。
まさに盗っ人猛々しいとはこのこと。
結局は被害を受けた女性(というか同じ高校の女子なんだが)のフォローにより事なきを得たが、そういった経緯から、今回は直接ではなく間接という手法を取るに至ったというわけなのであった。
割と頻繁に転びはするものの、その後はちゃんと反省を活かす男。それが秋月恭也である。
途中で唾が気管にでも入ったのか本気でむせてしまったが、これなら穏便に事態を収束することができるに違いない。
しかし。
「……」
一瞬手こそ止まったものの、男が行為をやめる気配は一切無く、それどころか直接俺の咳を間近で受けてしまった両サイドのサラリーマンのおっさん達に、さながら親の仇でも見るかのような恐ろしい眼差しで睨まれてしまったばかりか、周りからも「咳が出るのにマスクをしないどころか手も当てないだなんて、これだから最近の若者は…」という目が返ってくるような有様であった。
なんということだろうか。
そもそも俺は今、足はハイヒールで釘付けにされ、鞄を両手で胸前に抱えながら身体を左右から突き上げられているという状態であり、残念ながら腕も二本しかないため口に手を当てることはできないし、咳の中には突発的に起こるものもあるのだが、そういった事情は考慮してもらえないらしい。
心なしか俺の爪先にかかるハイヒールの圧力も増したような気がする。
というかいつまで踏んでいるんだ!?
と、そんなわけで状況はまったく改善されないばかりか一躍悪者になってしまったのだが、だからといってここで引くくらいなら、そもそも行動を起こそうなどとは考えたりしない。
諦めない男。それが秋月恭略。
だから一つ深呼吸をして心を鎮めた後、改めて男へと(両サイドからサラリーマン達に突き上げられているためあくまで気持ち上で)向き直った。
「ちょ、ちょ、ちょっと、ままま待たれよ!そ、そそ、それは犯罪でござるぞ!」
……。待ってくれ!また説明させて欲しい。
これは決してわざとやっているのではなく、今回こそはクールに決めようと思ったのだが、俺にとってのクールとは「侍」。
刀と誇りを何よりも重んじ、一本気に生きたあの様こそ真のクールなのだ。
ちなみに俺が最も好きなのは新撰組の…という話は長くなるからさておくとして、つまり俺はひどく緊張すると、無意識に心の拠り所である侍のような口調になってしまうのである。
このことから察するに、どうやら今回の俺は前回以上に緊張していたらしい。
とはいえ、これで少なくとも言葉は伝わったはずだ。
結局前回と同じく直接男にものを申したため、もしかしたらまた難癖をつけられるかもしれないが、結果的に女性が助かれば問題はないだろう。
しかし、世の中とはままならないものらしい。
「この人痴漢です!」
なんということだろうか。
あろうことか、今度は犯罪を行っていた男ではなく、被害者の女性に直接ご指名いただいてしまった。
確かに、俺は女性の真後ろにいた。
ただもう一度言うが、俺は胸前で鞄を抱え、両サイドからサラリーマンのおっさん達に突き上げられている状況なのだ(+ハイヒールにより足も封じられている)。そんな状態で女性の臀部を触るなど、もはや人を超えて、デビルフィッシュか千手観音にでも転生するしかあるまい。
あまりの出来事に、俺がつい千手観音みたいな顔になってしまったのも仕方のないことだとお分かりいただけるかと思う。
そして冒頭に戻る。
「こんな歳で痴漢とは…」
「世も末だな…」
千手観音恭也へと周囲から軽蔑も露わな言葉と視線が向けられる。
さもありなん。
こんな卑劣な行為は許されるべきではなく、周囲の人達の反応も自然なことであった。
もっとも、それは本当に俺がしていたらの話なのだが。
なお、俺の背中に乗っているサラリーマン風の男が真犯人なのだが、どうやら前回の者に輪をかけて面の皮が厚いようで、きっと鋼鉄でできているのだろう、
「どなたか、警察にも連絡をして下さい!」
などとさも正義のヒーローのような調子で話しているのが聞こえてくる。
やれやれ…。さて、この状況はどうしたものか…。
そんな中、俺は冷静に現状を打開する方法を考えていた。
先ほどは少々みっともない姿を見せてしまったが、本来の俺は頭脳派でとても慎み深い人間なのだ。
お陰で友人と呼べるような者はほぼ…ほとんど…あまり、そうあまりいないが、優秀な人間というのは古今東西孤独の定めにあるのだから仕方がないことだろう。
だからこれは決して、俺のコミュニケーション能力が低いからだとかそういうことではないのでござる。
とそれはさておき、素直に考えるなら背中に乗っている男こそが真犯人であり、自分は無実なのだと周囲に訴えかけるのがベストではあるのだが、我が灰色の頭脳で考えるに、現状の空気でそれをしたところであまり効果があるとは思えない。
というのも彼らには今、真偽を判断できる材料がないのである。
それに今もなお向けられ続けている蔑みの視線や言葉のように、一度自分の立場を明確にした以上、それを覆すのには多かれ少なかれ苦痛が伴う。
つまり、すでに悪者となった俺が今ここで必死に真実を訴えたところで「見苦しい犯罪者の言い訳」にしか聞こえず、場合によっては「自分の罪を人に着せようとしている」とさえ見えてしまい、逆効果になりかねないということだ。
だから俺が今黙っているのは、決して普段ほとんど出すことのない大声を上げてまた声が裏返ったりしたらどうしようだとか、そもそもきちんと周りに訴えかけられるほどのトークスキルなんてないんだけどどうしようだとか怯んでいるのではなく、現状を客観視し、冷静に判断を下した結果なのである。
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