第4話当主

 食事の最後に、香りの良いコーヒーが出された。

「コーヒーでございます。かつて悪魔の飲み物と呼ばれておりました」

給仕が、告げるのを、忘れるはずはなかった。


 ゆっくりと苦みの強いコーヒーを飲んだおかげで、アミルスタン羊のショックから少し立ち直ることができた。


 それにしても、なんという一日だったろうか。顧客への土下座懇願からはじまり、見知らぬ場所へ飛ばされて、地球以外の世界があることを納得させられ、その上、悪魔づくしだと…… 奇妙なことばかり起こる。


 さて、これから俺はどうなることやら。

もう、どうにでもしてくれという気分だった。


「館の当主がご挨拶に参りました」

家令スチュワードが告げると、入口に一人の男が現れた。


 少し足が悪いのか、持ち手に赤い玉飾りのついた杖をついていた。

背はさほど高くないが、衿に金のラインが入ったスーツを着て、首には幅広いシルクを首元で蝶結びにした、ラバリエールを締めていた。


「みなさま、ようこそおいでくださいました。元いた世界にお帰りになるまで、わずかな時間ですけれど、お気を楽にしてお過ごしください。通例ですと、おそらく今夜お休みになって、遅くとも明日の夕方までにはお帰りになれると思います」


 当主は、穏やかな、よく通る声で挨拶すると、次に客のひとりひとりに声をかけるらしく、向かいの緑の人と会話した後、本村のところへ近づいてきた。


 彼が立ち上がろうとするのを制して、手を差し出して握手を求めてきた。

「ようこそ、当主のマクア・スレフトスメと申します」

本村義人もとむらよしとです。お世話になっています」

見た目はさほど強そうには見えないが、スレフトスメの握力はかなりなものだった。

痛いほどの力で握られた手はすぐに離されたが、本村は、痺れた手を振りたくなるのを自制した。


「館の居心地はいかがですか、お寛ぎいただけていますか」

「はい、おかげさまで。この館がなければ途方に暮れるところでした」

当主はさもあろうと言うように、何度も頷いた。


「あの」

「なんでしょう」

「本当に元の世界に戻れると、どうしてわかるのですか」

彼は、疑問に思っていたことを、思い切って聞いてみた。


「それなんですがね。この混沌カオス領域に一度だけでなく、二度、三度来てしまう人も、たまにいらっしゃるのですよ」

「なるほど」

「その方たちの言うところでは、元の世界に戻ったというのがほとんどでした。ただ、幾人かは知らない世界に飛ぶ場合もあるようで。それが、どんな理由かはわかりません」


「そうなると、願って別世界に行くということはできなそうですね」

本村は、少しガッカリしたように言った。

「そうなりますね。行きたかったのですか? もっとも、行き着いた新しい世界が、元の世界よりも住みやすいという保証はありませんからね」

当主が笑って諭すように言うと、本村も納得した。

「そうか、そうですね。いずれにしても、選択はできないということですね」


「そういえば、本村さんは、メインデッシュを召し上がらなかったとか。空腹ではありませんか」

心配そうに尋ねる当主に向かって、彼は、あわてて首を振った。

「大丈夫です。美味しいライ麦のパンをいただきましたから。じゅうぶん満足しています」


空腹だなんて知らせたら、代わりにどんな料理が出て来てしまうのか、考えるだけで恐ろしかった。


「それならば、よかったです」

当主は言って、思い出したように言葉を続けた。

「当家のライ麦は当然、健康で新鮮な粉を使っておりますが、ライ麦がかかる病気がありまして」

「はあ……」


「病気の粉を使ったパンを食べますと、幻覚をおこしたり、凶暴になって暴れたりするようになります」

「そうなんですか」

当主が何を言おうとしているのかわからなくて、本村は戸惑ったように相づちを打った。


「病気に冒されたライ麦には、麦角ばっかくと呼ばれる、黒いかぎ爪のようなものができるのですが……」

「はい」

嫌な予感がした。


当主マクア・スレフトスメは、唇の両端を持ち上げて、笑みの形を作った。


「それは、俗に、悪魔の爪と呼ばれております」

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