夜食/サパーは返り血のあとで
真野てん
第1話 粉のない部屋
シャワーを浴びながら、男は自分の足元を眺めていた。
熱い
ふと顔を上げると、目の前にはミラーがある。
湯気に曇った鏡面を拭い、彼はいつものように「仕事終わり」の自分を確認するのだった。
切れ長の目と鷲鼻。
それ以外は起伏の少ない、すこぶる平均的な日本人の顔立ちだ。
取り立てて普段と変わった様子はない。
顔色、体温、息遣い、そして脈拍でさえ標準値で、休日のカフェでまったりする都内のOLのようにリラックスしている。
男はシャワーを終えると適当に髪を乾かし、身体を拭いた。
脱衣所にはさっきまで彼が着ていた衣服がある。べったりと赤い液体の付いたスーツの上下とワイシャツだ。
しかし彼はそれらに袖を通すこともなく、
照明の落とされた暗い部屋には、生臭い匂いが充満していた。
マットレスには首から血を流した男がひとりうつ伏せになって寝転んでいる。
右手には小口径のリボルバー拳銃が握られているが、指をトリガーに掛けたままで発砲した形跡はない。ばかりかトリガーガードを利用して、テコの原理で曲がってはいけない方向へと折られている。
またベランダの近くには、うなじにナイフが突き刺さった女の姿もあった。
明かり取りの大きな窓には、真っ赤な手形がかすれるようにして塗りたくられている。
にも関わらず、男は彼らに見向きもしないまま、クローゼットを物色し始めた。
蛇柄のジャケットやペルシャ絨毯のようなシャツに顔をしかめながら、嫌々ながらもそれらの内の一着を拝借し身支度を整える。
丁度、ドクロ模様のネクタイを締めたときだった。
ククゥ……と腹が小さく鳴る。
男は胃の当たりを撫でると、寝室の隣にあるダイニングキッチンへと視線を向けた。お世辞にも片付いているとは言えない台所に所在を移すと、おもむろに冷蔵庫のドアを開けた。
まず目に飛び込んできたのは、不自然なほど大量なお好み焼きの粉だった。
一袋で四人前が作れる大手メーカーのパッケージ。合計で十袋はあるだろうか。それが冷蔵庫中段の棚を圧迫している。
卵にキャベツ、豚バラと。
とりあえず一食分くらいは作れる材料もあり、市販のお好みソースとマヨネーズも揃っているとくれば、これは焼くしかないだろう。
あまり好みの銘柄ではないが、ビールもある。
そう思うや否や、彼はダイニングテーブルに雑然と置かれていたエプロンを掴み、流し台で洗い物を始めるのだった。
エプロンの下には一台のスマートフォンが隠れていた。
おそらく寝室にいる、ふたりの内のどちらかのものだろう。
男はキッチンの収納をあちこち開けまくり、ボールと泡立て器、フライパンを発見すると、まな板のうえに放置されていた包丁片手にもう一度冷蔵庫を開けるのだった。
そして粉の袋を掴んだときだった。
妙な違和感に片眉を吊り上げる。
彼は手にした包丁で、お好み焼き粉の袋に少しだけ穴を開けた。
少量の粉を手のひらに振りかけると匂いを嗅ぎ、続けざまにペロリと舐めた。
次の瞬間、がっくりと肩を落とし、お好み焼き粉の袋を寝室にいる男の尻に目がめけて思いっきり投げつけた。
使えねぇ――。
それは何に対する、どういった意味だったのだろうか。
数時間ぶりに発した声はガラガラに枯れている。
だが男はしばらく冷蔵庫の中身を眺めると、思い立ったように粉以外の具材を取り出し、調理に取り掛かった。
まずはボールに卵三個を割り入れて、白だし醤油と少量の水とを一緒にかき混ぜる。
つぎに豚バラを食べやすいサイズに切り、サラダ油を引いたフライパンへと投入。弱火で熱しながら、しばし放置。その間にキャベツを千切りにするのだが、男の手際はどこかの飲食店で働けそうなほど達者である。
次第に豚バラの焼けたいい匂いがキッチンに立ち込め、フライパンにはほどよく脂が染み出していた。そこにさっき千切りにしたキャベツを投入し、全体がしんなりとするまで炒める。
豚バラの肉汁と絡み合ったキャベツ炒めの香りは、すきっ腹にはたまらない。
男は塩コショウで下味をつけるとフライパンを小気味よく振り、具材を宙に舞わせた。
火の通った豚バラキャベツを一旦、別皿に移して休ませると、おなじフライパンで今度は卵を焼き始めた。
中火に掛けながら、卵液を手早くかき回して軽く固める。すぐに弱火に戻し、半熟の頃合いを見定め、別皿で休ませていた豚バラキャベツを、黄金色のカーペットのように広がった玉子焼きのうえへと解き放つのだった。
あとはオムライスの要領で、具材を玉子焼きでくるりと包むと――。
居酒屋風・とん平焼きの出来上がりだ。
男は出来たてのとん平焼きを皿に盛りつけると、お好み焼きソースとマヨネーズをこれでもかというほどぶっかけ、最後に青のりとかつお節を散らした。
甘じょっぱい香りが鼻腔を蹂躙してゆく。
熱気におどるトッピングのかつお節が、早く食べてと誘っているかのようだった。
「待て待て」
男はひとりニヤつきながら、ぷしゅっと缶ビールのプルタブを開ける。
まずは一息にキンキンに冷えたビールをあおると、無言のまま「染みる顔」をしてみせた。
さてお待ちかね。
調理中に使っていた菜箸でとん平焼きをつつくと、破れた玉子焼きのなかから、ジュワっと豚バラの脂が流れてきた。
半熟玉子、豚バラ、キャベツの三位一体は、さらにお好み焼きソースとマヨネーズの援護射撃を受けてブーストが掛かる。
匂いだけで飯が食えるとはよく言われることだが、男の口腔内はすでに唾液で弾けんばかりであった。
たまらず一気にそれらを頬張ると、男は天を仰いだ。
シャリシャリとしたキャベツの食感に、カリっとした豚バラの香ばしさが加わる。
それを包み込んだ半熟玉子の堂々とした主役感たるやどうだ。
優勝である。
まさしく至福のとき。
深夜帯に食うにはあまりにも悪魔的であった。
お好みソースとマヨのコンボで、ビールもすすむ。
さっぱりとした口のなかは、さらにとん平焼きを欲するという無限ループ。
男の舌鼓は、もはやオーケストラを奏でていた。
そんなときだった。
ブブブブブ――と、テーブルのうえでスマホがバイブ機能で震えている。
着信名は「マサ」となっている。
至福のときを邪魔された男の顔は、当然のように険しい。
スマホを睨む雰囲気など、もはや眼光だけで通話相手を射殺してしまいそうである。
だが男は通話に出た。
タッチパネルをスワイプし、スマホ本体を耳に近づける。
『あ、ああああ兄貴ッ! ぃいいいいいますぐ、そこを離れてくださいッ! ヤツら、ひひひひ
「遅かったな」
ピッ。
一言だけそう口にすると、男はスマホを切ってしまった。邪魔者がいなくなると、男の興味は再びとん平焼きへと注がれる。
うまい――。
一仕事終わったあとの
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