旅立ちの刻(二)

 水杖みなづえが、身構えるのが解った。

 磐見尽四郎いわみ じんしろうと名乗った黒鎧の武人は、わずか数歩で私たちの前に立ちはだかった。傲慢ごうまんな腕を組み、めるような視線で見下ろしてくる。感情のない瞳が動く。私。水杖。そしてまた私。

 視線が私の上に止まる。

 月が雲に隠れ、また現れた。

 月明かりに照らされた目の前の男は、かなりの巨漢だった。猪首いくびの上に、つるりとした顔が乗っている。それはほとんど無表情だったが、眉間みけんに落ちた陰惨いんさんな光と、肉厚にくあつの口元に浮かんだ寧猛ねいもうな笑いが、ある種の凄味すごみを見せていた。私は思わず、半歩下がった。

「お前」

 不意に太い指が、ぐっと私の喉元のどもとを指した。ぞくり、とその一点に寒気が走る。

「こいつと代われ」

 後方にあごをしゃくる。その時、初めて私は彼の巨体の陰にもう一人、小柄な女性がいることに気がついた。

 今日選ばれたお旗女はためのひとりだ。名前は、確か……

早蕨さわらび?」

 水杖が恐る恐る呼びかける。影は、びくり、と肩を震わせて、ますます小さくなった。

「気に食わん。」

 磐見いわみ早蕨さわらびをにらみつけ、あざけるように言った。

貧相ひんそう旗女はためをよこしやがって。当てつけに、こ奴の細頸ほそくび、絞めてやろうかとも思うたが、気に入らなければ変えればよいのだ。むざむざ殺すも寝覚ねざめが悪い。俺は優しい男だからな。」

「なん……ですって!」

 水杖が鋭く叫んだ。

「旗女を何だと思っているの!? 私たちはモノじゃない! それにお仕えする主も決まってる! 師が決められたことをないがしろにするなんて! 平然とそんなことを言う人に、だれが従うものですか! 早蕨、気にしちゃだめよ。それより社殿に戻り早く老師様に……!」

 きゃあッ! と悲鳴が上がった。いきなり丸太のような暴風が私のそばを通り抜けたと思った瞬間、すぐ横にいた水杖の小柄な体が、向こうの茂みに向かって思いきり吹き飛ばされていた。

 磐見が突き飛ばしたのだ! 低木の茂みに叩きつけられた水杖は、ザザッと葉をき散らしながら地面に落ちた。あまりの出来ごとに、私は茫然ぼうぜんとその光景を見つめた。しかしそれも一瞬のこと、大切な友達を傷つけられた怒りに、カアッと体中が熱くなる。不意に後ろで気配が動いた。振り向いた私は目を疑った。縮こまっていた早蕨さわらびが、今や大きく首をのばしている。幽鬼のように垂らした前髪の下には、信じられない表情が浮かんでいた。


 彼女は、うめく水杖を眺めながら、声を立てずに笑っていた。


 その一瞬、私の中で何かがはじけ飛んだ。

「よくも水杖を!」

 体の底から声が出る。

 にやついていた磐見いわみの巨体が、びくっ、と止まる。異形いぎょうのものを見たかのように、私の上で視線が泳ぐ。

 ドクン!

 胸がいきなり熱くなった。たもとに隠した紅玉が、私の鼓動こどうに合わせて鳴動めいどうする。

 いけない! 心を失ってはいけない……!

 頭の中で何かが叫んでいる。しかし、旅立ちの門出でいきなりさらされた暴虐ぼうぎゃくに、私は逆上ぎゃくじょうする自分を止めることができなかった。

 紅玉が、あざ笑うかのように白い光を放ち始めた。

 磐見が、ぎょっとしたように目をいた。私は真っ向からその視線を受け止め、跳ね返した。視界が金色に染まる。今、私の眼はきっと輝いている。まるで深山を徘徊はいかいする伝説の獣のように。体中にすさまじい力があふれ始めた。強い力に引かれるように背筋が伸びる。磐見の表情が凍りついた。信じられぬ! とでも言いたげに、その目があわただしくまたたかれる。

朝芽あさめ! 止めてぇーっ!」

 その瞬間、水杖が絶叫した。


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