2-2アメジストの月、13日、月曜日 

 今のラットには、「ここがどこなのか」だとか、「彼は誰なのか」を考えるだけの余裕がなかった。ラットの命が、別の命を欲していた。いますぐ腹を満たさないと、自分は死んでしまうと勘づいていた。


 だから、ラットはその料理に毒が入っていないか確認することさえ、しなかった。

 男から鶏肉だけを奪い取って両手で鷲掴みにする。

 仲間が側にいた時には、毒味はする様によく忠告されていたのだが・・・。


 ラットの舌に肉の感触だけが広がり始める。

 ラットは何かに取り憑かれたように肉にがっつき始めた。

 男はトレーを手にしたまま、ラットの食いつきっぷりを、呆気に取られて見守っていた。


 ラットの喉が、肉が通るたびにごくんと動く。むしゃむしゃと下品な音を立てながら、肉はどんどん侵食されて消えていく。

 甘いと同時に酸味の効いたソースの味が、ようやくラットの口内に染みてくる。

 うまい、うまいと声がする。それは脳内での声なのか、実際に自分が呟いているのか、ラットにもわからなかった。


 途方のない安心感と幸福感に襲われる。

 肉を食べるなんて、もうこの先一生無いと思っていたのだ。

 ラットは、こんなに良い夢が見られて幸せだと思った。


 肉を食いながら、頭の端の方でうっすらと生活のことが思い出されていた。

 誰かが過去に使ったもの、所謂ごみで、ラットの地域は溢れかえっていた。

 誰も彼もが切羽詰まった顔をして、下を向いて歩いていく。

 地べたに並べられた食材はどれも、喉から手が出るほど欲しいのに、高価すぎて買えはしない。川の水は濁っている。飲んで腹を壊す人間もいる。

 ラットがこの十六年間生きてきたのは、そういう世界だ。

 生き延びることができただけでも幸せと言うべき世界だ。


 ラットは両方の指にへばりついた美味しいソースを舐った。

 鶏肉は、もう完全にラットの腹の中に収まっていた。


 自我が戻ってきた頃、ラットは自分が長く長く息をついていることに気付いた。

 はーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 体中の酸素が抜けていって、力もみるみるうちになくなっていって、

 そうして自分の頭が、すとんと枕の上に落ちた。


 ラットは再び寝息を立て始めた。

 男は、トレーと皿を手押し車へと戻す。これほどまでに下品に食べ物に食らいつく人間を、男は初めて見た。

 貶しているのではなく、男流の褒め言葉だった。


 こんなに貪欲に無我夢中で食べてもらえたら。

「この御料理は幸せだ」

 男、イェーゴーは微笑み、ラットの髪をそっと優しく撫でた。

 ラットを元気にしてあげたい。庇護欲が高まっていく。

 イェーゴーは自分の胸が締め付けられるのを感じるのだった。


 ラットが眠る部屋を後にし、イェーゴーは手押し車を片付けたり新たな仕事をこなした後、中庭へと入った。夜になると主人が帰ってくる。それまでの、ほんの少しの休憩時間だ。

 中庭は二階の奥にある。色とりどりの花が咲き誇り、中心にベンチが二つ並んである。


 今日はいないが、珍しく休みを取ると、この屋敷の主人は一日中ここで書類を読んだりしている。


 イェーゴーは、ベンチに腰掛けた。不思議なことに中庭だけは、アメジストの月のような真冬でもあまり寒くないのだった。日当たりが非常にいいことも関係しているのだろう。

 イェーゴーはラット・ブラウンのことを考えたかったが、新しい仕事のことで一杯一杯だった。


 ふと、指の先に何かが触れた。左手を見ると、ベンチの板と板の間に紙きれが挟まっているのが見えた。

 イェーゴーはなんの気無しにそれを手に取る。

 数字が羅列された表だった。意味は全くわからないのになぜか必要なものに感じて、イェーゴーはその紙きれを折って胸ポケットに差し込んだ。

 紙切れから、気のせいかと思う程微かにヴァニラの香りがした。

















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